1.真実に出会った人
・篠崎教会は1969年11月6日に第一回目の礼拝を篠崎文化館で持った。その時から数えて、34年が過ぎた。今日は34年間の歴史の意味を、ヨハネ福音書4章を通じて学んで見たい。
・ヨハネ4章はイエスとサマリアの女の対話として、有名なところだ。今日のテキストはその後半部分にあたる。イエスはバプテスマのヨハネと共に、ユダの荒野で、人々に悔い改めを説き、悔い改めた者にバプテスマを授けておられた。しかし、エルサレム神殿を本拠とする祭司やパリサイ人は、ヨハネやイエスの悔い改め運動を喜ばず、ヨハネを逮捕し、投獄した。イエスは無用の衝突を避けられるために、故郷のガリラヤに戻ろうとされた。ユダからガリラヤに行くためには、通常はヨルダン川の東に迂回して北に向かう。それは遠回りであるが、サマリアを通らなくとも済むからだ。ユダヤ人にとってサマリアは汚れた異邦人の地であった。しかし、今回イエスは北進してサマリアを通る道を選ばれた。その方が近道であり、急いでおられたからである。
・イエスと弟子たちは、サマリアのシカルという町に来た。そこにはヤコブの井戸があり、イエスはそこで休息され、弟子たちは食べ物を買いに町に出かけた。暑い昼下がりの時であった。そこに一人の女が水を汲みにやってきた。井戸の水を汲むのは重労働であり、通常は暑い時を避けて、朝か夕方の涼しい時に汲む。女は昼の暑い盛りに水を汲みに来た。その時間であれば村人は誰もいない。人目を避けて水を汲みに来た。イエスは女に「水を飲ませて下さい」と頼まれた。ユダヤ人はサマリア人とは交際しない。ユダヤ人のラビであるイエスがサマリアの女に声をかけられるのは異例のことであり、女は驚いた。それを契機にイエスとの間に対話が進む。
・イエスは女に「あなたの夫を呼んできなさい」と言われた(4:16)。この言葉を聞いて女は突然の痛みに襲われたように硬直したことであろう。何故なら、女はこれまでに5人の男と結婚し、今一緒に住んでいる男は正式に結婚した男ではなかった。それは女が最も触れてほしくない事柄であり、その不道徳によって女は村八分にされ、だからこそ誰もいない時をみはらかって水を汲みに来た。女は答えた「私には夫はいません」。イエスは言われた「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
・イエスは女の全てを知っておられた。女はイエスの言葉を聞いて驚いた。そしてイエスがそのことによって自分を責めるのではなく、辛抱強く自分に教えを説かれるのを聞いた。今まで誰も声をかけてくれなかった罪の女に、ユダヤ人の、しかもラビが道を説かれる。女は感動した。そして言った「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、私たちに一切のことを知らせてくださいます」。イエスは言われた。「あなたと話をしているこの私である。」(4:26)。女は信じた。
・女は水がめをそこに置いたまま村に走り、人々に告げた「さあ、見に来てください。私が行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」。女は村八分されている身であった。女にとって自分の不身持こそ人に言われたくない事柄だった。しかし今、イエスに出会った感動から女は言う「あの人が私にしてくれた事を見てください。私はこれまで、自分の不身持を隠そうとしていましたが、今は自分の罪が判りました。さあ、あなた方も来て見てください」。村人は女の変化に驚き、ヤコブの井戸に急いだ。
2.種を蒔くものと収穫するもの
・イエスは道を急がれた故に、通常であれば通らないサマリアを通られた(ヨハネ4:3-4)。イエスはユダで宣教されたが、祭司やパリサイ人はイエスを受け容れようとせず、逆に弾圧しようとした。だからイエスはユダを逃れ、ガリラヤに帰ろうとされていた。サマリアは通過点であり、そこで福音が収穫されるとは思っておられなかった。しかし、そのサマリアで一人の女に出会われ、女はイエスの言葉を聞いて、悔い改めた。イエスはこの思いもよらぬ収穫に感動された。だから、弟子たちが食べ物を買って戻り、「食事をどうぞ」と勧めた時に、イエスは言われた「私にはあなたがたの知らない食べ物がある。私の食べ物とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(4:31-34)。伝道の喜びは正にこれだ。伝道して、収穫があることがクリスチャンの本当の食物なのだ。
・女はイエスのことを村人に知らせるために、村に急ぎ帰った。いま、女に連れられて村人がイエスの方を目指して走ってくる。その姿が畑越しに見えた。イエスは言われた「あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。私は言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」(4:35)。サマリアは異邦人の町であり、罪人の町であるから、そこでは福音は受け容れられないとあなたがたは言った。ユダヤ人である私の言葉をサマリア人は受け容れないだろうとも言った。しかし、見よ。サマリアの人々が救いを求めて駆けて来ているではないか。ここにも父の民はいたのだ。サマリア人の畑は色づいて刈入れを待っていたのだ。そして今刈入れが為されようとしている。「種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶ」時が来たのだ(4:36)。
3.篠崎教会の34年
・今日の招詞に申命記8:2-3を選んだ。次のような言葉である「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」
・エジプトを解放されて、イスラエルの民は約束のカナンに導かれるが、そこに入るまでに40年間も荒野をさまよわなければならなかった。エジプトからカナンまでは徒歩1ヶ月の旅である。1ヶ月の道のりなのに、イスラエル人は40年間の時を必要とした。それはイスラエル人が神の民として整えられるまでに、それだけの期間を必要としたからだ。「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きる」ことを知るためには40年の時が必要であった。
・私たちの教会は今日、創立34周年を迎えた。私たちもまだ約束の地には至っていない。今、荒野の中にいる。荒野であるから、水も少ないし、食べ物も乏しい。私たちも不平や不満をつぶやきながら旅をしている。しかし、出エジプトの物語が私たちに教えることは約束の地は遠くないと言うことだ。私たちが神の民に相応しく整えられた時に、私たちもまた約束の地に入るということだ。
・イエスは弟子たちに言われた「『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる」(ヨハネ4:37)。種を蒔いて刈り取るまでには時間が必要だ。今、私たちが福音の種を蒔いても、それが成長し、色づき、刈り入れるまでには何年も必要かも知れない。しかし、必ず刈り入れの時は来るから、それを信じて蒔き続けなさい。篠崎教会の34年間を振り返る時、何と多くの人がこの教会に導かれ、何と多くの人がこの教会を去っていったのだろうかと思う。この20年間のバプテスマ者だけで70人もおられる。その人たちの多くは、今この教会にいない。しかし、この34年間は決して無駄ではなかった。ここに会堂が残され、ここに礼拝する人々が残された。去って行った人々の中には、別の教会で中心的に働いておられる方もいる。私たちもまた、恵みをいただきながら、この34年間を歩んできたのだ。種まきは無益ではない。種は無駄にはならない。失望してはならない。私たちもまた、次の収穫のために種を蒔き続けるのだ。その収穫をするのは私たちではないかも知れない。それでも良いではないか。次の人々のために種を蒔き続けるのだ。