江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2003年10月26日説教(ヨハネ2:1-12、いつも喜んでいなさい)

投稿日:2003年10月26日 更新日:

1.カナの奇跡

・今日から私たちは降誕節を迎える。教会ではクリスマスの9週間前から、キリストの生誕についての学びをはじめる。今日は降誕前第9主日、これからクリスマスまで、ヨハネ福音書を通して、キリストが地上に来られたことの意味を学んで見たい。今日の聖書個所はヨハネ2章である。ヨハネ2章は「カナの奇跡」として有名なところだ。婚礼の席でぶどう酒が足らなくなった。イエスの母マリヤは心配して「何とかできないだろうか」とイエスに相談した。イエスは母の願いを聞いて、水をぶどう酒に変えられた。日常生活の中の一こまである。それを福音書記者ヨハネは「イエスの為された最初のしるし」として、物語の冒頭に描く。ヨハネはこの出来事を「しるし」、イエスが神の子であることを示された出来事と理解している。「水をぶどう酒に変えられた」ことが、何故そのような意味を持っているのだろうか。
・物語の舞台は、ガリラヤのカナという小さな村、イエスの生まれ故郷ナザレのすぐそばだ。その村で婚礼の祝いがあり、イエスの母マリヤは手伝いに行っていた。恐らくは親戚の家の婚礼であったのであろう。だから、マリヤは宴席の料理や飲み物について心配している。当時の婚礼は1週間も続いた。人々の生活は貧しく、普段は十分に食べることが出来ない。だから、婚礼の宴は楽しみの時であり、人々は飲みかつ食べるために集まってきた。その席で主役であるぶどう酒が不足した。これは宴を主催する家族にとっては、一大事であった。マリヤも責任を持つものとして困惑し、同じ席にいた長男のイエスに相談した「ぶどう酒がなくなりました」、どうしたらよいだろう、誰かにぶどう酒を借りることが出来るだろうかとの相談である。それに対してイエスは言われた「婦人よ、私とどんなかかわりがあるのです。私の時はまだ来ていません」(ヨハネ2:4)。
・言葉尻を見ると、非常に冷たい感じがするが、これは翻訳の問題(アラム語のギリシャ語訳)であり、真意は「何とかしましょう」と言う意味であろう。だからマリヤは召使達に「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。その家には大きな6つの水がめがあった。それぞれに2ないし3メトレステも入る水がめである。1メトレステは39リッターであるから3メトレステは100リッターも入る。そのような大きな水がめが、清めに使うために6つも置いてあった。イエスは召使達に「この水がめに水を満たしなさい」と言われ、水が満たされたのを見ると「それを汲んで宴会の世話役の所にもって行きなさい」と言われた。召使達はその水がめから水を汲んで世話役の所に運んで行ったところ、それは最上のぶどう酒に変わっていた。世話役は花婿を呼んでいった「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」(ヨハネ2:10)。水がぶどう酒に変わる「カナの奇跡」が起こったのである。


2.解放の出来事

・この話の中心は「水がぶどう酒」に変えられたことだ。しかも、その水が飲むために蓄えられていた水ではなく、「清めの水」であったことだ。この「清め」はユダヤ人にとって大事なことだった。マルコ7:3-4には「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」と書いてある。当時のユダヤ人は家から外に出る時も、また家に帰ってきた時も、「不浄を受けたのではないか」といつも心配し、その汚れを洗うために大量の清めの水を必要とした。
・ここに律法にがんじがらめにされた当時のユダヤ人の生活を、私たちは見る。人々は身を清く守るために、汚れから遠ざかろうとした。ユダヤ人は異邦人と交わるのは汚れだと思い、異邦人の家には絶対に入ろうともしなかった。また、律法を守らない人と交わることも汚れであり、外に出るとそのような汚れた人と道ですれ違ったかも知れないから、手足を洗い清めた後でないと家にも入れない。また汚れた食べ物を気づかないで食べたかも知れない。彼らは、いつ罪を犯したかもれないとして、戦線恐々として生活していた。だから、毎日の生活の中で大量の清めの水を必要とした。
・私たちは「汚れる」ことを恐れるユダヤ人をおかしいと笑う。でも、本当は私たちも「汚れる」ことを恐れて牢獄の暮らしをしているのだ。私たちは自己中心の牢獄の中に座り、いつ他人が自分の悪口を言うか、いつ自分が傷つけられるか、戦々恐々として暮らしている。学校でも職場で、最大の問題は人間関係のもつれだ。どんなに優秀な学校に入っても、そこでいじめられれば学校は地獄になる。会社でもそうだ。主流の、日が当たる地位にいるときは大勢の人が近づいてくるが、その地位を外れると誰も寄って来ない。人々は利害や損得で行為している。絵を習って楽しみたいと思っても、そのサークルに自分の悪口を言う人がいるだけで、もう絵を学ぶことに喜びを感じることは出来ない。これは事実であり、どこにでも起きている出来事だ。私たちは「限りなく自分のことを配慮し、限りなく相手のことを思わない」人間同士が交わりあう人間関係の牢獄の中にいるのだ。
・イエスは外からの汚れを心配するユダヤ人達に言われた「外から人の体に入るものが人を汚すのではなく、人の中から出る悪い思いが人を汚すのだ」(マルコ7:18-20)。だから、汚れは水でいくら洗っても、清くはならない。汚れを気にして、家に何百リッターの清めの水がめを置いても問題は解決しないのだ。私たちの生活もそうだ。人間関係を良くしようといくら努力しても、それは変わらないのだ。私たち自身が生まれ変わり、自我という地獄から解放されない限り、平安はない。その私たちの救いのためにイエスは十字架で死なれた。このぶどう酒はイエスが十字架で流された血を示している。イエスが水がめの水をぶどう酒に変えて下さり、そのことによって、人々が汚れと清めから解放される道が生まれたように、私たちもイエスを信じることによって、自己(エゴ)という泥沼から解放される。弟子たちは、清めの水がぶどう酒に変えられる様を目の前で見て、神の力に驚いたであろうが、出来事の本当の意味を理解したのは、十字架のしるしを見たときであろう。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」(ヨハネ2:11)、この文章はカナの奇跡を目撃し、後には十字架も目撃したヨハネの信仰告白であろう。

3.解放された私たち

・イエスは召使達に「この水がめに水を一杯入れなさい」と言われた。100リッターも入る水がめ6個に水を満たすためには、数人の召使がいても数時間はかかる仕事だ。遠い井戸に行って水を汲み、それを家まで運び、水を満たすことは、重労働である。しかも今は婚礼の宴を開いている忙しい時だ。そんなことをしても何になるのかとの思いもある。しかし、召使達は言われるままに、水を汲んできて水がめを満たした。この召使達の行為がなければ、水をぶどう酒に変える奇跡は起きなかった。私たちも「水を汲んできなさい」と言うイエスの言葉を「今は忙しいから出来ません」と断った時には、水はぶどう酒に変わらないのだ。逆に私たちがイエスの言葉を受け容れて「水がめに水を満たす」と言う行動をするとき、水がぶどう酒に変わる奇跡を見るのだ。
・ヨハネは「ある時、イエスがいくつかの水がめの水をぶどう酒に変えられた」ことを述べたくて、この物語を福音書の中に書いたのではない。そうではなく、イエスが私たちの生活の中に入って来られる時、いつでも「水がぶどう酒に変わる」ような、新しい出来事が起こることを伝えたくて、この物語を福音書の始めに持ってきたのだ。そして、このような出来事を体験したものの生き方は変えられる。私たちも今までこのような体験を数多くしてきた。だから私たちは次のよう言葉を隣人に伝えるのだ。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(〓テサロニケ5:16-18)。あなたはキリストの十字架によって解放されたのだから、光の子に相応しく歩みなさいと聖書は語る。

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