江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2003年1月1日元旦礼拝説教(ヨハネ10:7-18、主は良き羊飼い)

投稿日:2003年1月1日 更新日:

1.羊と羊飼い

・2003年は羊年だ。聖書には羊と羊飼いの話がよく出てくる。信仰の祖とよばれるアブラハムは羊飼いだった。その子イサクも、イサクの子ヤコブもまた羊飼いだった。モーセはミデアンの地で羊飼いをしている時に神の召命を受けたし、ダビデも王に召される前は羊飼いだった。羊はユダヤの人々にとってなじみの動物であった。
・また聖書では指導者が羊飼い、民が羊として描かれることも多い。指導者は神の委託を受けて羊の群れを飼う羊飼いであり、その委託を果たさない指導者は「自分自身を養うイスラエルの牧者は災いだ。牧者は群れを養うべき者ではないか。」と批判されている(エゼキエル34:2)。
・更に羊は人間の罪を代わりに担う贖罪の羊として、犠牲として捧げられた。キリストが十字架で死なれた時、人々は自分たちの代わりにキリストが血を流されたと理解し、彼を「贖罪の子羊」と呼んだ。このように聖書の中では、羊は特別な生き物であり、今年はその特別な生き物を日本でも記念する年になる。


2.いろいろな羊飼いがいる

・イエスは「わたしは良い羊飼いである。」と言われた(ヨハネ10:11)。イエスが活動された1世紀前半はユダヤの歴史にとって重大な終末の時だった。イエスの時代、ローマがユダヤを支配していたが、人々はローマの植民地支配に対して複雑な思いを持っていた。パリサイ派を中心とする民族派・国粋派の人々は異邦人の支配を快く思わず、何時の日か、メシヤ(救い主)が現れてローマを追放してくれることを期待していた。パリサイ派の中の急進派である熱心党は、メシヤを待たずに自分たちの武力でローマを倒そうとしていた。他方、体制派のサドカイ派は積極的にギリシャ・ローマの文化を取り入れ、その一派であるヘロデ党は積極的にローマとの円滑な関係を築こうとしていた。また、エッセネ派と呼ばれる人々はこのようなわずらわしい現実の世界から離れて荒野に逃れ、隠遁生活を行っていた。それぞれの党派が自分たちの行き方こそ人間を救い、国家を建て直す道であると主張していた。この流れがやがて反ローマで一致し、ユダヤはローマに反乱を起こし(66-70年ユダヤ戦争)、ローマによって滅ぼされていく。イエスの時代は国家の滅亡を前にした終末の、混沌の時代であった。
・この時代は一方から見れば、あまりに多くの指導者がいて国民はその真偽を見分けることが出来ず、どれにつくべきか迷わされて右往左往していた時代でもあった。指導者たちは民のことなど考えず、自分たちの勢力拡大のみを争っていた。そのような中で「群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、(イエスは)彼らを深くあわれまれた」(マタイ9:36)と聖書は記す。
・ヨハネ10章の羊と羊飼いはこのような文脈の中で語られている。羊は群衆、羊飼いは指導者を指す。このヨハネ10章には三種類の羊飼いが出てくる。最初は盗人であり、強盗だ。イエスは言われる「わたしは羊の門である。わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。」(10:7-8)。これは直接的には民衆のためではなく、自分の利益を図るために人々をむさぼっていたパリサイ人やサドカイ人を指す。何時の時代でも世の指導者はこのようなものだ。日本においても、政治家の関心は権力であり、利権であり、それを維持するために選挙に勝つことしか考えない。選挙に勝つために、彼等は誰も必要としない空港や道路を作り、本州と四国の間に三本もの橋をかけ、その結果発生する赤字は民衆が支払う税金で支払わせる。彼等は人々のために働くのではなく、むさぼることしか考えない。「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするために他ならない」(10:10)。民のことを考えず自分を養おうとする指導者は強盗であり、盗人だと言われる。
・次に出てくるのは雇い人の羊飼いだ。雇い人は報酬のために働く。彼の関心は報酬であり、羊ではない。だから狼、即ち困難な情況が来ると逃げてしまう(10:12-13)。当時、神殿には多くの祭司が仕え、犠牲を捧げ、民のために祈っていたが、民衆が困窮していても気にかけることもなかった。祭司にとって、人々の生活よりも自分の生活の方が大事だった。現在、日本の多くの教会は財政危機を抱えている。20-30人の信徒しかいない教会は多く、そのような教会では信徒の献げる献金の7-8割が牧師給に消えてしまう。そして牧師給を支払えない教会は無牧、牧師不在になって衰えていく。どの教会の牧師も自分を雇われ牧師とは考えないし、その教会に終生仕えたいと願っているだろうが、俸給の支払われない教会の牧師を務め続けることが出来ない。狼が来れば逃げる、無牧の教会が増えているのはそれを指す。


3.良い羊飼い

・最期にイエスが言われたのは「良い羊飼い」である。良い羊飼いは自分の羊のことを良く知り、羊もまた羊飼いを慕う(10:15)。パレスチナの羊飼いは羊の一匹一匹に名前を付け、それぞれの特徴や性格を熟知する。そして羊は彼の声をよく知っているので彼についていく。良い羊飼いは、迷う羊があれば何処までも探しに行く。良い羊飼いとは、一匹の羊が迷ったら残りの九十九匹を残しても探しに行くものであり、その一匹が見つかれば担いで家に帰り、友達や近所の人を招いて祝宴を開くとイエスは言われる(ルカ15:4-6)。一匹一匹の羊を自分の子のように大事にするのが良い羊飼いの第1の条件だ。
・そして、二番目の条件は「羊のために命を捨てる」ことだ(10:15)。荒野では獣が羊を狙い、襲ってくる。羊飼いは杖で獣と戦い、羊を守る。場合によってはそのために命を落とす。良い羊飼いの最大の関心は自分ではなく羊だから、羊のために命を捨てても悔いない。イエスは言われた「私は良い羊飼いである。そして群れの羊を救うために自ら十字架につく。だから父は私を愛して下さるのだ」と(10:17-18)。
・ここで三つの論理が明らかにされている。一つは狼の論理だ。全ては自分のためにあり、隣人のものは全てむさぼる。この世は弱肉強食であり、この狼の論理が中心を構成する。二番目の論理は雇い人の論理だ。「命あっての物だね」、「金の切れ目は縁の切れ目」、現代社会を構成する二つ目の論理だ。しかし、私たちは三つ目の論理、即ち「良い羊飼いの論理」を知る。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」、私たちがこの論理に従って生きるときに世の中は変わりうる。「良い医者が患者のために死ぬ」とき、医療の世界は変わる。「良い弁護士が顧客のために死ぬ」とき、法律世界も変わりうる。
・良い羊飼いとは、群れの羊一匹のために他の持ち物全てを捨てる覚悟を持ち、最後には自分の命さえも差し出す用意のあるものだ。私たちはこの良い羊飼いの姿にイエス・キリストを見る。だから聖書はイエスを「羊の大牧者」(ヘブル13:20)、あるいは「牧者たちの頭」(1ペトロ5:4)、「魂の牧者・監督者」(1ペテロ2:25)呼ぶ。教会はこのイエス・キリストを頭とする羊の群れであり、牧師はイエスからその職を委託されている。だから牧師は教会の群れのために命を捨てなさいと命じられている。
・教会の群れは神により守られ導かれていく。群れを養い、導く神を羊飼いとして歌ったものが、今日の招詞である詩篇23編1-4節である。
「主は私の牧者であって、私には乏しいことがない。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主は私の魂をいきかえらせ、み名のために私を正しい道に導かれる。たとい私は死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたが私と共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえは私を慰めます。」
・この詩篇23編は何千年もの間、苦しみや悲しみやどうしようもない行き詰まりの中にあった人々に大きな慰めを与えてきた。私たちの遭遇する苦しみや悲しみは出口のない、どう解決してよいのかわからないものが多い。病気で失明した人はどのように祈っても再び見えるようにはならない。事故で子供を無くした親がどのように嘆いても子供は生きては帰らない。私たちに出来る事はただ「それでも神はあなたを愛し、あなたと共にいて下さる。そして私もあなたと共にいたい」と語ることだけだ。苦しみはすぐにはいやされないが、やがて時と共に、苦しんでいるのは自分だけでなく、多くの人が苦しんでいることを知らされ、その苦しみを慰めるために自分に苦しみが与えられたことを神は教えて下さる。その時、人は他者のために立ち上がることが出来る。そして活動していくうちに自分の苦しみが癒されていく経験をする。自分の苦しみだけを見つめている時には出口はなかったが、他者の苦しみを知るうちにいやされることは事実だ。昨年、犯罪被害者救済法が出来たが、この法律は一人の弁護士が妻を殺され、その加害者の裁判を通して遺族に何の発言の権利も与えられていない不条理を知り、その解決のために立ち上がった末に成立したものだ。妻を殺されたという苦しみを通して偉大な出来事が生起していく。それが神の経綸だ。
・「たとい私は死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたが私と共におられるからです」(詩篇23:4)。この1年間いろいろのことがあるだろう。辛いことも苦しいこともあるだろう。しかし、「良き羊飼いであるあなたが共におられるので災いを恐れません」と言える1年でありたいと願う。

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