江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2003年9月7日説教(ローマの信徒への手紙14:1−12、愛が正義を完成する)

投稿日:2003年9月7日 更新日:

1.お互いに裁きあうローマ教会の人々

・私たちの教会は、今、日曜日朝の聖書の学び会で「コリント人への手紙」を読んでいるが、それによれば2000年前のコリント教会にあった問題は、現代の教会が抱える問題と同じであったことを知る。その問題とは「自分を正しいとする者は、他者を許さない」ということだ。ローマ14章を読むと、ローマ教会にも同じ問題があったことを私たちは知る。ローマの場合は食物をめぐる争いだった。教会のある人たちは「何を食べても良い」と信じていたが、別な人たちは、肉を食べ、酒を飲むのは罪だと考えていた(14:2−3)。何を食べても良いとする人たちは、多数派の異邦人キリスト者で、彼らはギリシャ・ローマの流れを汲む自由主義者だった。他方、肉を食べてはいけないとする人たちは少数のユダヤ人キリスト者で、ユダヤ教の禁欲的な伝統で育ち、穢れたものは食べてはいけないという教えを守っていた。今日でもユダヤ人は豚肉は食べない。ローマの自由主義者たちは、禁欲的な人々を「信仰の臆病者」として軽蔑し、他方禁欲主義者たちは節度を守らない人々を「罪人」として裁いていた。
・この問題は今日の日本の教会の中にもある。日本の教会はアメリカの宣教師によって立てられたものが多いため、アメリカに倣って禁酒禁煙が当たり前であり、お酒を飲んだり煙草をすったりするのは罪であると考える人が多い。他方、欧州の教会においては、牧師もビールやワインを楽しみ、喫煙する人も多い。お酒を飲むとか、煙草をすうとかの問題は各人が信仰の良心によって決めればよい問題であるのに、それがあたかも信仰上の譲れない出来事のようになり、争いが起きている。ローマ教会で起きていた出来事は私たちの周りにも起きているのである。
・パウロの考え方は明白である。「それ自体で汚れたものは何もないと、私は主イエスによって知り、そして確信しています」(14:14)。イエスは言われた「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが人を汚すのである」(マルコ7:15)。だからパウロは何を食べても良いと考える人たちを「信仰の強い人」と呼び、食べてはいけないと思い込んでいる人たちを「信仰の弱い人」と言った。では何を食べても良いのだから自由主義者が正しいのか、パウロは違うと言う。たとえ何を食べても良いとしても、肉を食べ酒を飲むことによってつまずく人がいるならば、それをでも肉を食べるのはいけないとパウロは言う。「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません」(14:15a)。何故ならば「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」(14:15b)。正しい行いであっても、その行いが人を傷つける時、それは正しいものではなくなるのだ。パウロは続ける「 食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります」(14:20)。
・パウロは何を食べてもよいとする人々に勧告する「あなた方は食べない人を軽んじるな。何故なら食べない人はそうすることが信仰だと思って食べないのだ。何故それを尊ばないのか」。また、食べない人にも勧告する「あなた方は何故食べる人を裁くのか。彼らは全てを神からの祝福として食べているのに何故それを認めないのか」。また、ある人たちは「特定の日」を重んじていた。熱心なユダヤ人は特定の日に断食する風習があったが、自由主義者はそれを見て「何と不自由な生活をしているのか。信仰は人を解放するものではないか」と嘲笑したのかも知れない。しかし、ここでパウロは繰り返す「特定の日を重んじる人は主のために重んじる」。相手を理解し、受け入れないのはあなたにキリストの愛がないからだと。

2.全ては許されているが、全てが益になるわけではない。

・今日の招詞に〓コリント10:23-24を選んだ。次のような言葉だ「全てのことが許されている。しかし、全てのことが益になるわけではない。全てのことが許されている。しかし、全てのことが私たちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。」
・私たちは多様な価値観と世界観を持つ。教会の中にも多様な信仰のあり方がある。酒を神が下さった恵みとしていただく人もいるし、酒の害を見て酒を飲むことは罪だと思う人もいる。肉を食べても良いと考える人もいれば、肉は動物の生命を絶って食べるのだから「殺すな」という戒律に反すると考える人もいる。どちらが間違っているのでもなく、どちらも正しいのだ。しかし、そのことによってつまずく人がいるならば考えなさいとパウロは勧告する。
・私たち家族は10数年前に、仕事でオーストラリアに6年間駐在した。そこで、日本で宣教師として働き、引退してシドニー日本人教会の牧師をされていたヘイマン夫妻と出会った。ある時、ご夫妻を食事に招いた。ヘイマン先生はワインを一滴も飲まれなかった。ワインを飲まないオーストラリア人に出会ったのは初めてだった。理由を尋ねたとき、先生は言われた「川口さんはワインを楽しみなさい。ワインは神様からの贈り物です。でも私は飲みません。お酒を飲むことによってつまずく人がいるかもしれないからです」。自分は飲んでもかまわないと思っても、他者のために「飲む自由」を捨てる。また、6年間付き合って、ヘイマン先生の口から他人の悪口や陰口は一度も聞かなかった。悪口は愛を構成しない。私が牧師になることを決めた原因の一つはヘイマン先生の生き方に対する感動があったと思う。
・多様性の中にあってお互いを受け入れあう。それが教会であり、それは世俗の社会では出来ないことだとパウロは言う。この世にあっては「違う者」は排他される。先に話したように、私たち家族は6年間オーストラリアにいた。行った時娘は幼稚園で、帰ってきたときは小学5年生だった。現地の学校に入れていたため、英語が日常語になり、日本語の読み書きはあまり出来なかった。そのため帰国子女クラスのあった学芸大付属大泉小学校に入れた。ところが、その学校はいわゆる受験校で生徒は試験を受けて入学してくる。帰国子女クラスだけ、日本語を十分に理解できない子供のためにあり、周囲の子供達は帰国子女たちを「化け物」のように侮蔑の目で見ていた。自分達と違うからだ。また、帰国子女クラスの中にも派閥があり、アメリカ帰りの子供達が主流でオ―ストラリアを含めたイギリス派は、英語がなまっているとしていじめられた。アメリカ英語に慣れた子供達にとってイギリス英語は「なまっている」としか思えず、なまっている英語を話す人たちは「変な人」としていじめの対象になるのだ。職場で学校で家庭で、この排斥、自分と違う人たちを受け入れないことによって、争いと憎みあいが起きている。パウロは言う「あなたたちはそうであってはならない。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはならない。キリストはその兄弟達のためにも死なれたのだから」(〓コリント14:15)。教会でこの世と同じ裁きと排斥がされているとしたら、あなた方の信仰はどこにあるのかとパウロは問いかけている。
・パウロは言う「裁きあうのは止めよう。つまずきとなるものを兄弟の前に置くな」(14:13)。お酒を飲んでもかまわない、全ては許されているのだから。しかし、あなたがお酒を飲むことで兄弟がつまずくのであれば、兄弟の前でお酒を飲むのを止めなさい。それが愛だ。何をしても良いが、隣人への愛が行為を制約する。キリスト者の自由とは、自分の権利を相手のために放棄することだ。「自分を捨てなさい。キリストはあなたのために自分を捨てて死んでくださったのだから」。このキリストの愛を知った時に私たちは根底から変えられる。私たちはキリストが私たちを許してくれたのだから他の人を許す。私たちはキリストが私たちを愛してくれたのだから、他の人を愛する。たとえ誰かが私たちを憎み私たちにつばを吐きかけようと、私たちはつばを吐き返すことをしない。キリストは彼のためにも死んでくれたのだから。病気の人が教会に来ても病気が良くなるわけではない。貧乏な人が教会に来ても金持ちになるわけではない。そうではなくて、病気のままに、貧乏のままに祝福を受けるのが教会だ。外部状況は変わらなくとも内部から新しい人間に帰られていくのが、教会と言う場だ。その教会にあって互いに争いあうのは止めなさい。自分と違うものを受け入れなさい。全ては許されているが、全てが良いものを作り上げるのではないことを知りなさいとパウロは勧めている。

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