1.放蕩息子の帰還
・ルカ15章11節から始まるたとえ話は「放蕩息子のたとえ」として、有名だ。現に、新共同訳聖書の見出しもそうなっている。でも、物語を読んでいけば、そこに語られているのは、二人の息子の話であることがわかる。放蕩息子の話は前半だけで、後半は、弟が帰還したのに、それを素直に喜べない兄の話だ。放蕩息子だけに焦点を当てると物語の真実を見失う危険性がある。そこに留意しながら、この物語を読み始めてみよう。
・物語は、「ある人に二人の息子がいた」という言葉で始まる。弟息子は堅苦しい父と兄との生活にうんざりし、家を出て行く決意を固め、父親に財産の分け前を要求する。生前の財産分与は可能であった。父は息子が失敗する危険が高いことを見越してはいたが、息子の意思を尊重し、財産である土地や家畜を二人の子に分けた。弟息子は財産を金に換え、遠い国に旅立った。若い男が莫大な財産を相続する、自分で稼いだのではないお金は身につかない。彼はお金を湯水のごとくに浪費し、やがて使い果たしてしまった。その時、ひどい飢饉が起こり、彼は食べるものにも困った。生活の基盤のない他国では誰も援助してくれる者はいない。彼はとうとう豚を飼うものとなる。豚はユダヤ人にとっては汚れたもの、その汚れたものの世話をする弟息子は落ちるところまで落ちたことを意味する。今日で言えば、家を飛び出したが、職は見つからず、お金を使い果たし、ホームレスになるということになろうか。このような人たちは、私たちの周りにも大勢いる。
・彼は終には、豚のえさであるいなご豆でさえ食べたいと思うほど飢えに苦しむ。窮乏は極まり、彼は自分の愚かさの苦い果実を刈り入れる。人は落ちるところまで落ちた時に、初めて悔い改める。弟息子は「豚のえさを食べても飢えをしのぎたい」と思ったときに、我に返った。そして思った「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、私はここで飢え死にしそうだ。ここを発ち、父のところに行こう」(ルカ14:17−18)。彼は自分がもう「子」と呼ばれる資格がないことを知っていた。それでも良い、父の元へ帰ろう。そして彼は起き上がり、父の元へ向った。
・父親は息子の身を案じていた。そして毎日、息子が帰って来るのではないかと路に立って待っていた。ある日、その息子が帰ってくるのが見えた。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(15:20)。息子は父親を見ると、謝罪の言葉を口にし始めた。父親はそれをさえぎって使用人に命じる「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい」。最上の着物を着せるとは、奴隷としてではなく子として迎えることだ。手に指輪をはめる、当時の指輪は印象がついていたので、息子を再び相続人として迎え入れたことを意味する。足に履物を履かせる、奴隷は履物を履かない。父親はこの放蕩息子の帰還を無条件で喜び迎えた。父親は祝宴の支度をするように命じる。「肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう」。何故ならば「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」(15:24)。
2.弟の帰還を喜べない兄
・25節から物語は後半に入る。後半の主役は兄息子だ。兄は弟が家を出た後も父の元に残り、仕事を手伝っていた。その日も兄は畑で一日働いた後で、家に戻ってきた。すると家の方から、音楽や踊りのざわめきが聞こえる。めったにないことだった。何事かと思い、使用人を呼んで事情を聴いた。使用人は答えた「弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです」(15:25)。これを聞いて兄は怒り、家に入ろうとしなかった。
・父親はその様子を見て、兄の所へ来た。兄の不満が一挙に爆発する。彼は言う「私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、私が友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」。あまりにも不公平だと兄息子は怒っている。兄は、弟が家を出た後も忠実に父に従ってきた。一方、弟は放蕩の限りを尽くして、何もかも失くしてしまった。その弟が帰ってきたら、子牛をほふって祝われる。私のためには子山羊一匹くれなかったのに、それはあんまりだと兄は怒る。
・このような光景は私たちの周りにもある。家を出て行って、何もかも失くした弟を無条件で赦して迎えることは、家にために忠実を尽くした兄としては耐えられないのだ。自分は正しいと思っている人間は、罪人が救われることを喜ばない。彼らは罪人がその罪によって滅ぶことを願っている。そうでないと、自分は何のために、これまで我慢をして、父親に忠誠を尽くしてきたのか、その忠誠の意味がなくなる。
・しかし、父は弟息子を愛するように、兄をも愛している。だから兄息子に言う「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(15:31-32)。
3.どちらが本当に失われているのか
・今日の招詞にコロサイ書3:13を選んだ。「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」
・兄は自分は正しい、だから罪を犯した弟を裁く権利があると思っていた。しかし、兄息子は正しいのだろうか。彼は兄だから家に留まった。何故ならば、ユダヤの法では、長男は次男の2倍の相続権があるから、それを捨てて家を出るのはもったいないと思ったからだ。もし彼が次男に生まれていれば、彼もまた家を出たかも知れない。兄は「弟は娼婦と一緒に父の財産を食いつぶした」と批判するが、その批判を通じて、自分はそれをやりたくとも我慢したのだと無意識に告白している。ここにおいて、この兄もまた「失われた人間」であることが明らかになる。彼は父親に忠誠を尽くしたが、それは父を愛したためではなく、見返りとしてその財産をもらうためだったのだ。兄もまた報酬を求めていた罪人だったのだ。
・聖書は言う「正しい者はいない。一人もいない。・・・善を行う者はいない。ただの一人もいない」(ローマ3:10−12)。私たちが自分の値するところに従って裁きを求めるならば、私たちもまた滅ぶしかない罪人なのだ。兄の罪は、自分が罪人であることを知らずに他者を裁くところにあった。私たちは皆、この弟のように恵みを求めなければ救われない罪人なのだ。弟は自分が罪人であることを知り、悔い改めて父の元に帰った。兄は自分が罪人であることを知らず、悔い改めようとはしない。ここにおいて、どちらが救われるかは明白だ。もし兄がこのまま怒って家に入らなければ、彼は天の国に入ることは出来ない。正に「先の者が後になり、後の者が先にな
る」 (マタイ20:16) のだ。
・吉村昭『仮釈放』という本を読んだ。不倫を犯した妻を逆上して殺害し、無期懲役にされた男が、刑期をまじめに勤めて、15年後に仮釈放される。しかし、彼は自分が殺人犯であることをいつか周りの人に知られるのでないかと恐れ、その恐れがまた新しい殺人を生んでいくという話だ。この世は「罪を犯したもの」を赦さない。たとえ、どのように悔い改め、購いのために15年も服役しても赦さない。長崎市の幼稚園児殺人事件で、父親ら遺族3人が9月24日に長崎家裁で意見陳述した。遺族は補導された中学1年の少年について、「何歳であろうと、極刑以外納得できる処分はあり得ない。最も重い処分を」などとする意見を読み上げ、同家裁に意見書として提出した。息子を殺した中学生を縛り首にしてほしいと要望している。その時、立場が代われば、自分の息子が加害者になったかもしれないということは、この両親には見えない。自分は正しい、相手は殺人を犯したのだから死刑にされて当然だと考えている。
・このような不寛容な、赦しを知らない社会の中に教会は立てられている。そして教会は聖書の言葉を聞く「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも自分に罪を犯した者を赦しなさい」。あなた方は赦されたのだから赦せ、この赦しこそが教会の本質だ。ここまで考えてくると、この「放蕩息子のたとえ」といわれている物語の本当の主役は、弟の帰還を喜べない「不寛容な兄」であり、その兄はあなた自身ではないのかと問われていることが判る。「あなたは放蕩の限りを尽くして、あなたに迷惑をかけてきた弟の帰還を、喜べるのか」、「あなたは自分の子供を殺した相手が、悔い改めて救われることを喜べるのか」、そして、「もしあなたが喜べないとしたら、『あなたは赦されているのだから、あなたも赦せ』というイエスの言葉をどのように聞くのか。あなたは本当にクリスチャンなのか」と問われているのだ。