江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2003年7月13日説教(申命記5:12-15、休みなさい)

投稿日:2003年7月13日 更新日:

1.過労死の世界

・今年の3月に、広島県尾道市の小学校校長が自殺した。民間人から登用された校長が慣れない業務に疲れて自殺したと報道されたが、実際は死の一ヶ月前から教頭が病気休職していて、管理責任が校長一人に集中したための過労死ではないかと言われている。それから3ヶ月後の7月、今度はその学校を監督する教育委員会の次長が自殺した。校長の自殺をめぐって教育委員会への批判が高まり、対応に追われて教育長や庶務課長は過労で倒れ、責任が次長一人にかかって、心労のためうつ病になり、自殺に追い込まれたと言う。これもまた過労死である。
・日本では毎年3万人が自殺するが、その1割は過労自殺ではないかと推測されている。過労自殺が表に出るのはその死が業務上の災害かをめぐって争われる時だけで、過労死が労災認定されるのは年間3百件に過ぎない。しかし、実際はその何倍もの過労自殺が背景にあると言われている。現在の日本は過労社会になっている。経済不況の長期化で、仕事がきつくなっていることが背景にある。企業は経費節減のため人減らしを行い、他方仕事の絶対量は変わらないため一人当たりの仕事量が増えている。同時に企業は正社員を減らして派遣やパート労働を増やしているが、根幹の部分は正社員以外には担当させないため、正社員の労働が強化されている。パートや派遣等の短時間労働が増えている反面、正社員の労働時間が長くなっている実態がある。
・私の知り合いの女性は大手のスーパーチェーン店に正社員として勤めていたが、過労でふらふらしていた。一つの店で総勢200人が働いていても、大半はパート勤務の方で正社員は4−5人に過ぎない。店は朝の9時から夜の9時まで開き、パートの人はその時間帯で分担して働くが、正社員の場合、店が開く前に出勤し、店が閉店してから帰宅する。一日10数時間働くわけであり、これが長く続くと体が疲れるだけでなく、精神にも変調をきたす。私の友人は「このままでは殺される」と言って、勤めを止めた。何故、このような社会になってしまったのだろうか。働く人が物とみなされ、消耗品になっているからだ。

2.休みなさい

・働く人が消耗品とみなされる典型的な社会は、奴隷制をもつ社会だ。奴隷に重労働を課し、その結果、奴隷が死んでも持ち主は罰せられない。物だから生きようが死のうが、持ち主の自由なのだ。今から3500年前、紀元前1500年ごろのイスラエル人が置かれた状況がそうだった。彼らはエジプト王の奴隷として、重労働を課せられ、休む時も与えられなかった。出エジプト記によれば「イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、・・・イスラエルの人々を顧み、御心に留められた」(出エジプト記2:23−30)。人々のうめく声をを聞いて、神は歴史に介入される決断をされ、モーセをエジプト王の元に遣わし、イスラエル人を休ませるように求めた。それに対してエジプト王は「この怠け者目が、お前たちは怠け者なのだ」と答え、休息を求めたイスラエルに対し労働強化で答えた(出エジプト記5:8)。ここからエジプト王と神との戦いが始まり、神の力でモーセは民をエジプトから解放して、約束の地であるカナンに導く。そのカナンの地に入る時与えられたものが、有名な十戒であり、その十戒の中心をなすものが、今日のテキストである「安息日の規定」である。
・申命記5章は言う「安息日を守ってこれを聖別せよ。・・・六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」(5:12−14)。6日働いたなら、7日目は休め、ただその時にあなたが休むだけではなく、「息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、寄留する人々も休ませよ」と命令されている(5:14)。あなたは、エジプトでは苦役のために休むことが出来なかった。そのため、あなたの体は疲れ、心にも平安はなかった。そのあなたのうめき声を私は聞いたから、エジプト王と戦い、あなたをエジプトから解放した。今、あなたの奴隷たちも同じような苦役にあえいでいる。だから彼らに休息を与えよ。申命記5章が言うのはそういうことだ。3500年前に、奴隷もあなたと同じ人であり、休ませよと言われていることは驚くべきことだ。
・人は休まないと生きていくことが出来ないのだ。だから休め。この祝福として与えられた7日目の休みが歴史の中で制度となり、今では日曜日に休むことが当たり前になった。私たちが日曜日に休むことが出来るのは、実はこのモーセの十戒、神の祝福から来ている。それなのに、また日曜日さえ休めない社会になりつつあり、みんなが疲れて死につつある。どうすればよいのか、休むことだ。
・私たち人間にとって6日の労働は必要だ。「働かざるもの、食うべからず」とはパウロが言った言葉だ(〓テサロニケ3:10)。働くことによって私たちは生活の糧を得る。しかし、働き続けてはいけない。7日目には休みなさい。7日目に休むことによって、人は労働から引き離され、労働が相対化され、限界付けられる。働くことは必要ではあるが、人生にはもっと大事なものがあることを7日目の休みは人間に教える。「人はパンだけで生きるものではない」(申命記8:3)のだ。

3.どのようにして休むのか

・今日、私たちはマタイ福音書11:28−30を招詞として選んだが、この中にどのように休めばよいのかが記されているように思う。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
・疲れた者とは肉体の労働や、世のわずらいで疲れている人だ。重荷を負っている人とは責任を負い、神経を使ってくたびれ果てている人だ。そのような人は私のところに来なさいとイエスは招かれている。何故なら、イエスが私たちのくびきを共に負うと言って下さる。くびきとは二匹の牛や馬で車を引くときに、その首につけるかせの事だ。私たちは何らかのくびきを負わなければならない。例えば週の六日は働かなければならない。しかし、働いて疲れたとき、イエスがその一方のくびきを負ってくださる。だからイエスのくびきは軽いのだ。くびきは一人で負う時には重い。しかし、イエスが共に負ってくださる。その時、私たちは解放され、休むことが出来る。最後に休むことを見出したある人の詩を共に読んで終わりたい。
・「大きなことをしようとして力を与えてほしいと神様に求めたのに、慎み深く、従順であるようにと、弱さをいただいた。より偉大なことが出来るように健康を求めたのに、より良いことが出来るようにと、病弱を与えられた。幸せになろうとして富を求めたのに、賢くあるようにと貧しさをいただいた。
世の人々に誉められようとして権力を求めたのに、神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。人生を楽しもうとあらゆるものを求めたのに、あらゆることを喜べるようにと命をいただいた。 
求めたものは一つとして与えられなかったが、願いは全て聞き届けられた。神様の意に沿わぬ者であるにもかかわらず、心の中で言い表せない祈りは全てかなえられた。私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福されたのだ」。(作者不詳=ニュヨーク大学リハビリテーション研究所の壁に刻み込まれた詩)。
・教会に来てクリスチャンになっても、私たちを取り巻く外部環境は変わらない。病気の人は病気のままだし、貧しい人は貧しいままだ。しかし、イエスが共にいてくれることで、病気でありながら平安が与えられ、疲れていても安らぎが与えられるのだ。過労自殺した小学校長も誰かが補佐してくれたなら死ななかったかもしれない。苦しくても、疲れていても、誰かがそばにいて支えてくれれば、人間は生きていくことが出来るのだ。イエスが共にいてくださる、そのことを知った時、外部環境は変わらなくとも平安が与えられる。そのことは信じても良い、何故なら、このことはこの教会にいる人たちがそれぞれに経験した出来事なのであるから。

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