江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2003年5月25日説教(ルカ7:1−10、お言葉だけで十分です)

投稿日:2003年5月25日 更新日:

1.百人隊長の信仰

・イエスがカペナウムの町に戻られたとき、その町を守備するローマ軍の百人隊長から、部下が病気で死にそうなため癒していただきたいという申し出が、ユダヤの長老を通してあった(ルカ7:1−3)。当時のユダヤはローマの植民地であり、国の要所にはローマの守備隊が配置され、カペナウムもガリラヤの中心都市であったから、ローマの守備隊がいた。百人隊長はその守備隊の頭であり、支配者であった。そのローマの軍人がイエスのところに部下の癒しを求めてきた。
・この百人隊長は異邦人でありながら、神を畏れ、会堂(シナゴーク)を献堂するほどの篤信家であった。また、彼は部下の病を気遣うほどの優しい人であった。部下=原語ではドーロス(奴隷)の意味であり、奴隷は所有者の持ち物で、死のうと生きようと主人の勝手と言われたこの時代に、これほど僕を気遣うこの百人隊長の行為は珍しいものだった。
・また、この人はイエスに家まで来てくれとは言わない。当時、敬虔なユダヤ人は異邦人の家には入らなかった(律法は異邦人を汚れたものとして、その交際を禁じていた)。彼は律法の教師としてのイエスの立場を慮って、「家に来ていただくには及びません、ただお言葉だけで十分です」と求めた(ルカ7:6−7)。
・百人隊長は軍人として権威が何であるかを知っていた。彼はイエスに神の権威があることを認め、「ただ言葉だけで十分です」と答えた。「 わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」(ルカ7:8)。イエスはこの百人隊長の信仰に感動された。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」(ルカ7:9)。

2.信仰とは何か

・この物語の中には「信仰の本質」とでも言うべきものが含まれている。イエスはカペナウムの町を中心にガリラヤ宣教をなされていたから、百人隊長も自らイエスの業を見て、その言葉を聴く機会があったのであろう。百人隊長はイエスがらい病人をいやし、目の見えない人の目を開かれたことを自分で見て、また人から聞いた。そしてこのような業は人間には不可能であり、神の力が働いているとしか思えなかった。そして彼は、イエスに神からの権威を認めた。それは彼自身が、権威とはどういうものであるかを長い軍人生活を通して知っていたからだ。軍隊においては、たとえ会ったことのない皇帝の命令でも部下は従う。それは皇帝の言葉に権威があるからである。百人隊長は上官が命令すれば従ったし、彼が命令すれば部下は従った。軍隊においては「規律を保つ」、「命令に従う」ということは何よりも必要なことであり、そうしなければ軍隊は統制が取れなくなり、崩壊してしまう。その規律や命令の背後にあるものが権威である。人間の権威を信じることのできる者は、それ以上の権威を信じることは容易である。彼はイエスの業と言葉に神の権威を認めた。
・同じく重要なことは、この百人隊長は、自分は神の恵みをいただくのに値しないことを知っていた。当時のユダヤでは、救いは選民たるユダヤ人のみにあり、異邦人は神の契約の外にあるもの、信仰とは無縁のものであると考えられていた。この百人隊長は礼拝に参加し、自分は異邦人ゆえに救われる価値がないと思っていたのかもしれない。しかし、その自分をも神は憐れんでくださることを願った。聖書によれば、最初のキリストへの改心者はペテロでもなくヨハネでもなく、イエスと共にゴルゴダで十字架につけられた罪人である。ペテロやヨハネが改心したのはイエスの復活後であり、十字架の時には弟子たちは逃げ去っていた。この罪人はイエスに言った「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ 23:42)。この男は自分を救ってほしいとは言わない、ただ思い出してほしいと願うだけだ。自分はこれまで悪事を重ね、救われる価値はないと思っていたからだ。その彼にイエスは言われた「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)。
・イエスは多くの病の癒しをなされたが、その大半は求め手の信仰に促されてなされた。長い間出血に悩まされていた女が、いやしを求めておずおずとイエスの衣に触れたとき、イエスは言われた「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(ルカ8:48)、エリコの町で盲人バルテマイが癒しを求めて叫び続けたとき、イエスは言われた「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」(ルカ18:42)。この百人隊長の場合もそうだった。「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」(ルカ7:9)。癒すのはイエスである。しかし、その癒しを引き出したのは百人隊長の信仰であった。信仰を持って求めればかなえられる。信仰は報われるとは、聖書が繰り返し約束することだ。

3.神の力により頼む

・今日の招詞にヘブル書4:12−13を選んだ。
「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」
・聖書の信仰とは神の言葉の力を認めることだ。天地創造の前、地は混沌として闇が地を覆っていた。そこに神が光あれと言われ、光があった(創世記1:2-3)。アブラハムは「父の家を離れ、私が示す地に行きなさい」(創世記12:1)という神の言葉に従い、行き先も知らずに旅立った。モーセは「行きなさい。私があなたをファラオの元に遣わす」(出エジプト記3:10)という神の言葉に従って、ただ一本の杖を持って、当時の絶対権力者であるエジプト王の元に向かった。それぞれ何の不安もためらいもなしに神の言葉に従ったとは思えない。心のどこかに「本当にこの道でよいのか」「本当に神は守ってくださるのか」という疑いを持ちながらも、最終的には、神の言葉に従って歩んだ。ところが、人々はいつの間にかその権威を律法と神殿の中に固定し、律法を守り、神殿で礼拝をすれば救われると人間化、形式化してしまった。そこでは御言葉が御言葉として受け止められず、力をなくしていた。イエスがなされたことはこの神の言葉の権威を回復し、この言葉に力があることを再び人々に示されたことであった。イエスの言葉には権威があり、イエスの言葉は人をいやし、死人をよみがえらせる力を持った。百人隊長はこの権威を認めた。
・篠崎キリスト教会は今、試練の時にあると思う。古くから教会を支えてきた方たちが高齢化し、あるいは病気になり、共に礼拝を守れなくなった。新しい人たちはまだ育っていないため、一部の人に教会運営の負担が、特に財政的な負担が重くのしかかっている。しかし、この教会はキリストの言葉によって立てられ、キリストの言葉を述べ伝えるために存在する。私たちはそう信じる。信じるから、私たちも、「ここに私の教会を建てる」と言われたキリストの言葉に信頼し、この教会を形成する。教会を形成するのは私たち人間の働きだ。しかし、私たちの背後に神が働いておられる。それを私たちが認めるかどうかが今、問われている。
・イエスは言われた。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(ヨハネ15:16)。その言葉が意味するものは、私たちがこの教会を選んでここに来たのではなく、キリストによって召されて、ここにいるということだ。それを信じるか。私は信じる。私は自分から選んでこの教会の牧師になったのではない。神に召されてこの教会の牧師になった。だから、困難があってもこの教会を捨てない。この教会を捨てることはイエスを捨てることだと思っている。皆さんも召されてこの教会に来た。どうか、それを信じてほしい。そして今の試練を共に喜んでほしい。12名から始まったキリストの教会が、今日では世界中に立てられている事実に、神の権威を認めてほしい。この教会も栄える。この会堂に神を讃美する人があふれるときが来る。それは約束されていることだ。それをひたむきに信じてほしいと願う。

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