江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2003年4月20日説教(ルカ9:21-27、死に勝たれたキリストを仰ぐ)

投稿日:2003年4月20日 更新日:

1.人生の最大問題

・私たちは生きている。生きていればいろいろの出来事に遭遇する。ある出来事は楽しく、喜びであり、他の出来事は悲しく、苦痛である。その中で不思議に思う事は、同じ出来事がある人にとっては喜びになり、他の人には苦しみになるということがあるという事実だ。また、その出来事があったときには苦しくて仕方なかったのに、時間が経って振り返って見ると、懐かしく思えてくることもある。それらの経験が示す事は、出来事そのものよりも、その出来事を私たちがどのように受け止めるかによって、それらが喜びにも悲しみにも変わるということだ。その私たちの態度、心のありようは、私たちが人生の最大問題、つまり「私たちは誰なのかー私たちはどこから来て、どこへ行くのか」をどう考えるかによって決まってくるように思う。
・「私たちは何のために生まれてきたのか、今生きている意味は何なのか」。私たちは気が付いた時には、両親の子供として存在していた。では、両親が私たちを造ったのか、両親もまたその親から生まれてきた被造物に過ぎない。では、私たちを創造したものは誰か。ある人はそれを自然の摂理と言い、私たちはその方を創造主なる神と呼ぶ。私たちを誰が造ったと考えるのかによって、人の生き方は違ってくる。仮に私たちが障害をもって生まれたとき、私たちの存在を自然の摂理と考える人は「運が悪かった、あきらめろ」と言う。何故かはわからないがそうなのだから仕方ないではないかと。しかし、自分が創造主によって意味を持って造られたと考えるキリスト者はその障害を神から与えられた賜物として受け止め、その障害を通してやるべきことがあるはずだと受け止める。その時、あきらめとは違う生き方が生まれる。「見えない、聞こえない、話せない」の三重苦を持って生まれたヘレン・ケラーの生き方がその典型である。彼女は人生をあきらめなかった。
・「私たちはどこへ行くのか」。今私たちは生きているが、やがて死ぬ。死んだ後、どうなるのか、誰も知らない。死を自然の摂理と考える人たちは、死はすべての終わりと考えるから、生きていることを楽しもうとする。パウロはそのような生き方を次のように述べる「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(1コリント15:32)。しかし、そういう人たちは本当に楽しむことは出来ない。なぜなら、常に死の影に脅かされているからだ。その死の影を強く意識した人は、人生のすべてが空しくなり、自殺する。死がすべての終わりと考えるとき、人は快楽的になるか悲観的になるか、いずれかの選択しかなくなる。
・私たちキリスト者は復活を信じる。復活を信じるものにとって死は終わりではなく。新しい生の始まり、通過点になる。生が中断されることがないから、現在の生を大事にする行き方が生まれる。

2.ルカ9章が教えるもの

・イエスはこのルカ9章で、次のようなことを言っておられる。「私はやがてエルサレムに行く。そこで裁判を受け、殺されるだろう。肉の命としての生はそこで終わる。しかし、私は三日目に復活する。霊の命としての生がその時始まる。だから、あなたたちも恐れないで、私に従って来なさい」。また言われる「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」(ヨハネ11:25−26)。
・カール・バルトというドイツの神学者はこのイエスの言葉を次のように考えた。第一は、人間は死ぬ存在であることを知れとのメッセージである。死を前にすれば、全てのものは無価値になる。「人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか」(ルカ9:25)。まさにその通りで、人間にとって大事なもの、事業や家族やお金さえ、死んでしまえば何にもならなくなる。すべては過ぎ去る。過ぎ去るものに生涯をかけるのは、あまりにももったいないではないか、もっと大事なものがあるのではないかとイエスは問われている。第一の使信は、「死ヲ忘レルナ」である。
・第二のメッセージは「キリストが死に勝たれたことを覚えよ」である。イエスはエルサレムで十字架につけて殺されるだろう。しかし、彼は三日目に復活する。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」(ルカ9:22)。復活と言う問題は証明することの難しい問題である。歴史上はっきりしていることは、イエスが十字架にかけられた時、すべての弟子たちが逃げ去ったという事実、そしてその弟子たちがイエスの死後まもなく「キリストはよみがえられた」と宣教を始め、死で脅されても信仰を捨てなかったという事実、この二つの事実である。何があったのか。私たちは思う。十字架を前にしてにげた弟子たちが、復活のイエスに出会い、その出会いを通じて、イエスが「神の子、キリスト」であることを知り、その時変えられた。二番目の使信は「主ヲ忘レルナ」ということだ。
・三番目のメッセージは「もはや死を恐れる事はない」ということだ。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう」(ルカ9:24)。死に勝たれた方がおられ、その力が私たちにも与えられるとの約束がここにある。死は全てを破壊する。しかし、私たちはその破壊を超えたいのちをいただくという望みが与えられる。三番目の使信は「死ヲ恐レルナ」である。「死ヲ忘レルナ―主ヲ忘レルナ―死ヲ恐レルナ」、これは信仰の中心的使信である。

3.死に勝たれたキリストを仰ぐ

・今日の招詞として第一コリント15:54-55を選んだ。
それは、パウロが高らかに宣言した死への勝利宣言だ「この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。『死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか』」。
・「イエスは復活された。私たちはその証人だ」、弟子たちが最初に述べ伝えたのは、そのことだった。パウロが最も大切な教えとして継承し伝えたのも、この復活の証言だった「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。・・・そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである」(第一コリント15:3-8)。パウロは「キリストが復活しなかったならば私たちの宣教は無駄であるし、あなた方の信仰も無駄だ」とさえ述べている(同15:14)。
・イエスが復活された、そのことによって私たちも「死んでも死なないもの」とされる希望を抱くことが出来る。その時、私たちの人生の意味が変って来る。もはや、人生の全ての意味を無にしてしまう死を恐れる事はない。仮に私たちが志半ばで死んだとしても、私たちの人生は失敗ではない。死を超えて私たちの生は続くからだ。また、この世の出来事、仕事も家庭もお金も名誉もただ過ぎゆくものであることを知るから、この世の出来事に執着し、それを追いかけることもない。復活を知ることによって、私たちは死からもまたこの世からも自由になるのだ。イエスは言われた「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)。私たちは十字架で死なれた、すなわち究極の苦難を経験された方を知っている。私たちはその死からよみがえられた、すなわち究極の救いを経験された方を知っている。この方の後に従っていけばよい。最後にイエスの招きの言葉を共に読んで終わりたい。「それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」(ルカ9:23-24)。

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