江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2003年12月21日説教(ヨブ記42:1-6、出来事が起こった)

投稿日:2003年12月21日 更新日:

1.何故苦しみはあるのか

・今日、私たちはクリスマスを祝うために、この教会に集まった。クリスマスとはクライスト・マスー=キリストのミサ、キリストが来られたことをお祝いする時だ。聖書の言葉で言えば、神の子が人としてこの世に来られた日だ。「神の子が人として来られた」、これは私たち人間の理解を超える意味を持つ。その理解を超える出来事を、多くの人たちが「自分の出来事」として受け入れ、祝う。キリストが来られたという出来事が何故多くの人にとって自分達の出来事になるのか、今日はヨブ記を通して、ご一緒に考えてみたい。

・ヨブ記は、昔から、多くの人に読み継がれてきた書だ。ヨブ記のテーマは「世の中に何故苦しみがあるのか」である。私たちは皆、平穏無事な生活を望んでいる。お正月に初詣する人は「どうか病気になりませんように、仕事がうまくいきますように、家族が平和に暮らせますように」と願う。しかし、現実の世の中には病気は絶えないし、不幸な出来事は次々に起こっている。今が平和であっても、その平和は病気や災いがあればすぐにも崩れてしまう事を知っている。だから災いや不幸が来ませんようにと祈る。しかし不幸や災いは来る、その時どうするのか。それを扱った書がこのヨブ記だ。

・主人公ヨブは「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。七人の息子と三人の娘を持ち、・・・多くの財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった」(ヨブ記1:1-3)。彼は家族と財産に恵まれ、周りの人からも尊敬されていた。申し分のない人生だった。そのヨブに理由のわからない苦難が次々に与えられる。最初の災いは家族が集まっていた時、家が倒壊し、家族全員が死ぬという災害だった。10人の息子と娘が一遍に取り去られた。次に何千頭もの家畜が強盗に奪われるという出来事が起こった。裕福だった彼が、一夜にして全ての財産を失った。更に、彼自身に重い皮膚の病気(恐らくはライ病)が与えられた。周りの人たちは相次ぐ災いを見て、この人は神に呪われていると考え、近づかなくなった。最初、ヨブはこれらの災いを宿命として受け容れる「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(ヨブ記1:21)。しかし、苦難が去らないばかりか、ひどくなるに従い、彼は運命を呪い始める「私の生まれた日は消えうせよ。」と(3:3)。

・ヨブは正しい人だっただけに、彼自身がこんなに罰せられるほどの罪を犯したと思えない。それなのに、何故このような苦しみが与えられるのかわからない。また、世の中には正しい人が苦しみ、悪人が栄えるという現実があることも見えてきた。ヨブは神に対して異議申し立てを行う。「神は無垢な者も逆らう者も、同じように滅ぼし尽くされる。罪もないのに、突然、鞭打たれ、殺される人の絶望を神は嘲笑う。この地は神に逆らう者の手にゆだねられている。」(9:22-24)。何故あなたは私にこのような苦しみを与えられるのか。何故あなたは正しい者に悪人と同じような裁きをされるのか、私にはわからない。あなたは本当にこの地上を支配しておられるのか、神よ、答えてくださいと。

・そのヨブの訴えに対して、神が大風の中から回答される。「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。・・・私はお前に尋ねる、私に答えてみよ。私が大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ」(38:2-4)。神はヨブの疑問に直接答えられない。ただ、あなたはどれだけ私のことを知っているのか。あなたはどれだけこの世界のことを知っているのかと聞かれる。その神の問いかけに対する応答が、今日の聖書個所ヨブ記42:1-6だ。

2.苦しみを通して神に出会う。

・ヨブは自分の苦しみを通して、世の中を見た。自分の苦しみにこだわり続ける時、苦しみはますます大きくなった。しかし、神の言葉を契機に、ヨブは自分が世界の中心にいるのではないこと、自分が全てを知るわけではないことを知らされた。そして、そのような自分のことをも、神は心に留めておられることに気づかされた時、苦しみは苦しみでなくなった。だからヨブは告白する「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。『これは何者か。知識もないのに神の経綸を隠そうとするとは。』そのとおりです。私には理解できず、私の知識を超えた、驚くべき御業をあげつらっておりました」(42:2-3)。神はそれぞれの人に、異なった能力と境遇と運命を与えられる。ある人は健康に生まれ、別の人はそうでない。ある人は金持ちであり、ある人は家が貧しくて学校にいけなかった。私たちにはそれが何故か、理解できない。理解できなくとも、それはそれで良いのであって、私たちは自分に与えられた運命の中で精一杯生きれば良い。それは諦めではなく、現実を見つめる「平静さ」という勇気だ。ヨブはそれを知ったときに平安に満たされた。

・ヨブは続けて言う「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」(42:5-6)。人は苦しみに遭って初めて、自分の無力さを知り、弱さを知る。今まで自分一人の力で生きていると思っていたものが、実は自分を超えた大きなものに生かされている事を知る。イエスが言われたように「私たちはどれほど思い悩んでも、自分の寿命をわずかでも延ばせない存在」(マタイ6:27)なのだ。

3.神からのクリスマス・プレゼント

・今日の招詞にヨブ記19:25―27を選んだ。ヨブが苦しみの真ん中で叫んだ言葉だ。「私は知る、私をあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。私の皮がこのように滅ぼされたのち、私は肉を離れて神を見るであろう。しかも私の味方として見るであろう。私の見る者はこれ以外のものではない。私の心はこれを望んでこがれる」(口語訳)。

・ヨブは自分の苦しみを友人に訴えた。少しでも慰めてもらおう、力になってもらおうと願った。しかし、帰ってきた答えは「あなたが罪を犯したから災いを招いたのだ。悔い改めて、神に許しを請いなさい」という冷たいものだった。友人達は正しいかも知れない。しかし、正しさは人を救わないのだ。人は誰も他者のために苦しみを分かち合うことは出来ない存在なのだ。ヨブは人間に絶望した。その絶望の中で、この暗闇もまた神の支配下にあり、苦しみが神と出会うために与えられたことに気がついた。そのことに気づいた喜びが「私を購うものは生きておられる。後の日に彼は必ず地の上に立たれる」という告白だった。私たちが「何故」と聞くのを止めて、「何処へ」と聞き始めたとき、苦しみは恵みになる。だから、詩人は歌った「苦しみにあったことは、私に良い事です。これによって私はあなたの掟を学ぶことができました」(詩篇119:71)。

・初代教会の人たちは、この人こそ救い主と信じていたイエスが、ローマ総督ピラトにより逮捕され、十字架につけられた時、これで全ては終わったと思った。もう何の望みもないと。しかし、その暗闇の中で復活のイエスに出会い、その出会いを通して彼らは再び立ち上がり、イエスこそ神の子であったと伝え始めた。イエスはローマにより十字架につけられた。ローマがキリストに勝利したかに見えた。しかし、勝利したローマはやがて滅び、今では廃墟としてその遺跡を残すのみだ。ローマに負けたかに見えたキリストは今日も多くの人の心に生きる。これは何故か。イエスを通じて多くの人が神と出会ったからだ。イエスこそ、神の下さったクリスマス・プレゼントなのだ。私たちは何故クリスマスにろうそくをつけて祝う。暗闇の中に光が来たからだ。

・私たちはただの人間であり、私たちの方から神に近づき、知ることなど出来ない。だから神がイエスを送り、御自身を知る道を開いてくださった。このイエスを通じて、私たちは神に出会う。イエスは人々に見捨てられ、十字架刑で血を流して死んでいかれた。私たちは顔につばきをかけられたことはないが、イエスはかけられた。私たちは両手にくぎを打ち込まれたことはないが、この方は打ち込まれた。私たちの苦しみがどのように大きくとも、この十字架に比べれば何ほどのことはない。こうして私たちは苦しみを耐える力を与えられる。そして耐えた時に光が見える。

・ヨブは、苦しみを通して、自分が生きているのではなく、生かされていることを知る。それを知った時、苦難という外部状況は何も変わらないのに、苦しみが苦しみでなくなった。これが神を知った者の平安だ。このような平安があることを多くの人が証言している。世の人々は苦しみや悲しみが来ませんようにと祈る。しかし、キリスト者は苦しみや悲しみを通じて、神に出会えますようにと祈る。そして、出会いを通じて平安が与えられる。だからヨブは告白する「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」(42:5-6)。

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