江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2003年12月14日説教(ヨハネ1:19-28、やり直しの出来る人生)

投稿日:2003年12月14日 更新日:

1.アドベント第三主日にヨハネの証を聞く

・今日はアドベント第三主日だ。来週、私たちはクリスマスの時を迎える。クリスマスはイエス・キリストが来られた時だ。イエス・キリストと言うとき、それは姓と名ではない。キリストとはメシア=救い主の意味であり、イエス・キリストとはイエスこそ救い主の意味である。そのイエスこそキリスト(救い主)であることを最初に証しした人が、バプテスマのヨハネだ。今日はヨハネの証言を通して、クリスマスの意味を学んでみたい。

・バプテスマのヨハネは、祭司の家に生まれ、若い時から荒野で修道生活を送っていた。その荒野で彼は預言者として召され、人々に「悔い改めのバプテスマ」を呼びかけた。彼のメッセージは明確だった。「メシアの来臨が近づいている、悔い改めて罪の赦しを求めよ、そのためにバプテスマを受けなさい」の三点であった。これは同時代のユダヤ人に異常な衝撃を与えた。と言うのは当時のユダヤはローマ帝国の植民地であり、征服者であるローマ人から虐げられていた。それは神の選民と自負するユダヤ人には忍び難い屈辱であり、今こそイスラエルの神が立ち上がり、彼らを救うためにメシア(救い主)をお送りくださるに違いないという期待が広がっていた。だから、人々はヨハネの「メシアの来臨が近づいている」との宣教の声に応えて、「ユダヤの全地方から・・・ヨハネのもとに来て、・・・ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(マルコ1:5)。イエスも故郷ガリラヤでヨハネの宣教の評判を聞かれ、ご自身の時が来たことを悟られ、ガリラヤを出てヨハネのところに行かれた。

・ヨハネのバプテスマ運動は、エルサレムの宗教指導者たちにも大きな衝撃を与えた。水のバプテスマはユダヤ教でも行うが、それは改宗した異邦人に対して行われるものであり、ユダヤ人に対してバプテスマを施すことはなかった。ユダヤ人は神の選民であり、いまさら清められる必要はないと指導者達は言っていたが、ヨハネはユダヤ人もまた悔い改めなければ救われないとして、バプテスマを施していた。指導者達は思った「ヨハネはメシアなのか。どうせ偽預言者に決まっている。彼が偽預言者であれば、逮捕し、民衆を惑わした罪を問わなければならない」。だから、指導者達は「祭司やレビ人たちをヨルダン川のヨハネのもとへ遣わして、『あなたは、どなたですか』と質問させ」た(ヨハネ1:19)。・ヨハネは彼らの質問に答えていった「私はメシアではない」(1:20)。人々はたずねた「では、世の終わりに来ると預言されたエリヤですか」。ヨハネは、自分はエリヤでもないと言った。人々は続けてたずねた「ではあなたは、モーセが約束したあの預言者ですか」。ヨハネはまたも「違う」と言った。人々はいらだった「ではあなたは誰なのですか。本当に神から遣わされているのですか」。


2.ヨハネの回答と私たち

・ヨハネは、自分はメシア=キリストではないと答えた。私たちもキリストではない。ただの人間だ。だから、自己中心的に罪を犯し続け、その罪が相手を苦しめ、争いをもたらす。ヨハネはエリヤではないと答えた。私たちも神から言葉を預かった預言者ではない。だから、私たちの言葉は自己主張に満ち、他者に伝わっていかない。

・ミシェル・クオストというカトリックの司祭の書いた「神に聴くすべを知っているなら」という祈りの本がある。その中に次のような詩が書かれてある。「でんわ」という題だ。

「私は受話器を置いて考えた。何故彼は私に電話したのか。判らない。・・・
 ああ、主よそうでした。私はしゃべりすぎて聴こうとしなかった。
 主よ、お許し下さい。今のは対話ではなく、一方通行でした。
 私が自分の考えをしゃべりまくっただけで、彼の考えを聴こうとはしませんでした。
 私が聴こうとしなかったから、彼から何も得なかったのです。
 私が聴こうとしなかったから、彼を助けてやれなかったのです。
 私が聴こうとしなかったから、彼の心が通じなかったのです。
 主よ、お赦し下さい。せっかくつながっていたのに、私たちは切り離されてしまいました。」

・「せっかくつながっていたのに、私たちは切り離されてしまいました」。牧師をしていると、クオストがしたような後悔に囚われることが多い。無知から、あるいは過失から、多くの人を躓かせ、「つながっていた人が切り離されてしまう」経験を繰り返しする。自分は牧師に相応しくないと本当に思う。私たちはキリストでもなく、エリヤでもなく、預言者でもない。では、私たちは誰なのだろう。何を神から預かっているのだろう。

3.では私たちはだれか

・私たちは誰なのか。ヨハネは、「ではあなたは誰なのですか。」という質問に答えてイザヤ書40章3節を引いて答えた「私は荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」(ヨハネ1:23)。今日の招詞はそのヨハネが引用した言葉の前後を含めたイザヤ40章1―3節である。次のような言葉だ。「慰めよ、私の民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを、主の御手から受けた、と。呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、私たちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」

・この言葉の背景にはバビロン捕囚からの解放がある。イスラエルは約束の地を与えられ、ダビデ・ソロモンの時代には繁栄を誇ったが、一方で偶像礼拝に陥り、金持ちは貧乏人を搾取し、神の民にあるまじき罪を犯し続けた。その結果、北からバビロン軍が侵攻し、エルサレムは廃墟となり、国民は遠い異郷の地に流された。この捕囚によってイスラエルは国を亡くし、その苦しみの中で自分達の罪を知らされ、悔い改めた。捕囚から50年の時が流れ、望みを失くしていたその民に語られた開放の声が、イザヤの預言である。「慰めよ、私の民を慰めよ・・・苦役の時は今や満ち、その咎は償われた」と。バビロンが滅ぼされ、イスラエルが解放される時が来た、早馬を立ててこの知らせを故郷に伝えよ、神が先頭に立たれて民をイスラエルに連れ帰られる、だから道を整えよとの声である。ヨハネはこのイザヤ書を引用することにより、自分の使命は「来るべきメシア=解放者を証しすることである」と述べた。そしてヨハネは群集の中にイエスの姿を見た。そして言った「私は水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人は私の後から来られる方で、私はその履物のひもを解く資格もない。」(26-27節)。ヨハネはイエスを見つめながら続けて言った「この方が世に現れるために、私はこの方にバプテスマを授けたのだ」(31節)。

・神はバビロン捕囚を通じて、私たちに赦しを伝えられた。しかし、この世では赦しがない。私たちの社会では犯罪を行った者は刑を受け、服役するが、刑期が終わって釈放されても世間は忘れない。家族は受け入れを拒否し、元受刑者を雇う会社は少ない。だから彼はまた犯罪を行って刑務所に逆戻りする。この世は服役して罪を購えば社会に出ることを許すが、本当は許してはおらず、罪を忘れていないのだ。この世の持つ罪と罰の束縛を、神は断ち切られる。私たちも罪を犯すが、神はその罪を赦され、かつ記憶から拭い去られ、新しい出発を祝福される。私たちは、どのような罪を犯しても、購いをすれば、やり直すことが出来る。バビロン捕囚からの解放はそのしるしだ。ヨハネは私たちをバビロンから解放する方としてのキリストを指し示したのだ。

・私たちが与えられた役割も、このヨハネのように、イエスこそキリスト=解放者であると証しすることだ。私たちはある時罪の中に沈んで泣いた。その涙の中でキリストに出会い、赦すと言うキリストの声を聞いた。だから今、生きていることが出来る。今でも弱さのために罪を犯し続けるが、その罪もまた赦しの中にある。教会はこの社会の中で、唯一罪を赦し、かつ忘れることが出来る場所だ。私たちが神から預かっているものは、罪の赦しを可能にするキリストを証しせよとの命令なのだ。この方を証しするために、私たちはクリスチャンとしての召命を受けたのだ。日本ではクリスチャン人口は1%に過ぎない。私たちはマイノリテイー(少数者)だ。少数者だから、この世でクリスチャンとして生きるためには困難が伴う。しかし、私たちには何物にも替え難い宝がある。赦しの福音、この世の知らない宝だ。この宝を述べ伝えるために、私たちは召され、クリスマスの時を迎えるのだ。

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