1.不正な管理人の例え
・イエスはしばしば例えを使って話された。「放蕩息子の例え」とか、「良きサマリヤ人の例え」とか、誰でも知っている例えも多い。その中で、今日これから読む「不正な管理人の例え」は、難解な、わかりにくい例えと言われている。物語そのものは難しくない。ある管理人が主人の金をごまかし、不正が露見しようとした時に、主人に負債のある者たちを呼び、その負債を免除することによって人々に恩を売り、自分が免職になった時に助けてもらおうとするという話だ。人間の常識では、この管理人は不正をしている、ずるい男だ。しかし、イエスはこの男をほめておられる。不正を犯した者が何故ほめられるのか、それが判らないから難しい。
・物語を詳しく見てみよう。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった」(16:1)。当時のユダヤでは土地の多くは都市に住む貴族や祭司が所有し、不在地主として、それぞれの土地を管理人に預けていた。物語の金持ちも、所有地を管理人に預けて、その収支を任せていたが、管理人が不正を行っていると告発する者があったため、管理人を呼び出し「会計報告を出しなさい。もし、不正をしているのであれば、もうお前に管理を任せるわけにはいかない」と言い渡した。
・それに対して、管理人は何の反論もしない。恐らくは、主人の金をごまかしていたのであろう。管理人は首になると聞いて、どうしようかと考え込んだ「主人は管理人の地位を取り上げるに違いない。その時どうするか。肉体労働をする体力は私にはない。物乞いをして生きるのは、私の地位と誇りが許さない」。困った管理人は窮余の策として、大胆な行動をとる。彼は主人に負債のある者たちを呼び出し、その負債を減免するという思い切った行為に出た。この負債とは地代であろう。当時は地代を金でなく、収穫物で納めることが普通だった。オリーブ油100バトスの債務者に対しては、50バトスを免じた。小麦100コロスの債務者には、20コロスを免除した。この免除した額は半端ではない。1バトスとは約23リッターであり、油100バトスとは20リッター入りオリーブ油100樽になる。この債務者はオリーブ油50樽分を免除されたのだ。また、小麦1コロスは230リッターであり、100コロスは23,000リッターになる。子麦袋で言えば1,000袋分になろうか。20コロスを減免されたとは、小麦200袋の減免だ。減免された人は喜び、管理人に感謝した。
・この管理人が行った事は不正だ。彼は主人の金を誤魔化して自分の物にした上に、今度は主人の財産を勝手に処分して、債務者に恩を売ろうとした。彼は二重の不正をした。それにもかかわらず主人は、つまりイエスは、この管理人をほめた。「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、私は言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」(ルカ 16:8-9)。管理人は不正をしているのにほめられる、そこが聞く人を混乱させ、イエスは何故このような例え話をされたのかがわからなくなる。だから、難しい、理解に苦しむ例えとされてきた。
2.私たちは不正をしていないだろうか
・私たちがこの例えを正しく理解できないのは、自分達はこのような不正をしていず、従ってこの管理人に同情できないと思うからだ。でも、私たちは本当に不正をしていないのだろうか。イエスは言われる「富は神の祝福だ、しかし、富を正しく用いないとき、富は呪いになる」。
・「世界が100人の村だったら」という本がベストセラーになっている。世界を100人の村に例えると、どのようになるかを書いた本だ。その中に次のような言葉がある「6人が全世界の富の59%を所有し、80人は標準以下の居住環境に住み、50人は栄養失調に苦しむ」。現代社会において、二人に一人は十分に食べられないのだ。何故、このような事態になるのか。世界の穀物生産は20億トンで、これは世界の人口60億人を養うことが出来る量だ。ところが穀物の半分は牛や豚の肉を生産するための飼料にされている。牛肉1キロを生産するには8キロの穀物が必要だ。つまり、豊かな人が肉を食べるために穀物を用い、その結果穀物が不足して、10億人が飢餓線上にある。肉を食べるとは、他方において、食べることの出来ない人を作り出している行為なのだ。聖書は言う。あなたが毎日肉を食べるとしたら、それは神のものである穀物を誤魔化している行為ではないのか、そのことによって飢餓を作り出しているとしたら、あなたと不正な管理人はどこが違うのか。聖書は肉を食べるなといっているのではない。肉がどのようにして生産されるかを考えて、感謝して食べよと言っているのだ。
・もっと身近な例を考えよう。人はそれぞれ能力が異なり、高い能力の人は多くのお金を稼ぎ、そうでない人は少しのお金しかもらえない。もし多くのお金を稼いだ人が「このお金は私が自分の能力によって得たものであり、どう使おうと私の自由だ」と思うとき、その人は思い間違いをしているとここで言われている。「あなたの高い能力、それは誰が与えたのか。あなたか、私か。もしあなたが、この能力は私が獲得したもので神は関係ないと言い張るならば、私はそうでないことを示そう。私があなたの健康を打ってあなたに病を与えたら、あなたは明日から働けなくなるのだ。そうすればあなたはこの管理人と同じく失業する。あなたは私からの賜物を預かっている管理人なのだ。その賜物を自分の物と思い込むときに、あなたはこの不正な管理人と同じ事をしているのだ」とイエスはここで言われているのだ。
・この管理人は自分が不正をしていることを認識していた。あなたは自分が不正をしていることを認識していない。とすれば、この管理人の方がまだ良いではないか。
3.蛇のように聡く、鳩のように素直に
・今日の招詞にマタイ10:16を選んだ。「蛇のように聡く、鳩のように素直に」、日本語の格言にもなっている有名な言葉だ。全文では次のようになっている「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」
・私たちは神の子とされたが、愚かであってはならない。「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」(ルカ16:8)。この管理人は主人から解雇されそうになった時、これからのことを真剣に考え、残された可能性をフルに活用して何とか生き残ろうとした。世の子らのこの熱心さこそ、光の子らは学ぶべきなのだ。この世の子らは金や地位を求めて熱心に活動する。あなたが同じ熱心さを持って神の国を求めたらどんなに良いだろう。あなたは庭いじりやスポーツや趣味に多くのお金と時間を払うが、教会のためには小さなお金と時間しか払わない。あなたは自分の仕事のために多くの時間と関心を払うが、自分の魂のためにはそれだけの時間と関心を払わない。何故なのか。蛇のように、世の子らのように熱心に、鳩のように、光の子のように素直に神の国を求めよ。
・物を所有する。財産を持つ。それ自体はなんら罪ではないが、大きな責任を伴っている。イエスは言われる「あなたがこの世で所有しているものは本当にはあなたの物でなく、あなたに委託されたものだ。死んだ時、あなたはそれを持っていくことが出来ない。それはただあなたに貸与されているだけであり、あなたはそれを管理する管理人なのだ。それは、その性質からいって、永久にはあなたのものになれないものだ。他方、天国においては、永遠に、本質的にあなたのものになるものを与えられるだろう。しかし、天国で何を得るかは、あなたが地上のものをどう用いるかにかかっている。あなたがこの地上において託されたもの(小さな事=ルカ16:10)に忠実であれば、父なる神は天上において永遠の命(大きなこと=同上)を任せて下さるだろう」と(W.・バークレーの注釈より)。
・最後にペテロ第一の手紙4:10を読んで終わろう「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」。