1、二つの物語
・イエスは今、エルサレムに向かって急いでおられる。エルサレムはそぐそこだ。イエスの為された数々の奇跡の評判は、イエスに従う群集の数を増やしていた。人々はローマの植民地支配から解放してくれるイスラエルの王を求めていた。そしてイエスこそ、聖書に預言されたメシヤであり、イエスがエルサレムに行かれるのは、そこで王として即位されるためだと思い始めていた(ルカ19:11)。その人々にイエスは言われる。「私は王になるためにエルサレムに行くのではない。エルサレムで待っているのは十字架で、私はそこで死ぬ。その十字架を通して神の国は始まるのだ」と。人々にはわからない、だからイエスは一つのたとえを話された。それが「ムナの例え」である。ここには二つの物語がある。一つは高位の人が王の位と王冠を受けるために遠い国に出て行くという話だ。もう一つは、その人が出かけるに当たり、僕たちにお金を預けていくという話だ。この二つの話が混在しているからわかりにくくなっている。二つの物語を分離して考える時、イエスが何を言われようとしているのが見えてくる。
・第一の物語は、実際の出来事を背景にしている。イエスが生まれられた時、ユダヤの王はヘロデだった。彼は紀元前4年に死ぬが、残虐な王であり、彼の死後エルサレムでは暴動が起きた。その時、ヘロデの子アケラオは暴動を鎮圧するために3000人の市民を殺した。アケラオが王位継承の承認を求めてローマに赴いた時、エルサレム市は60人の代表をローマに送り、アケラオの即位に反対した。最終的にローマ皇帝はアケラオの王位継承を認める。王に任職されてエルサレムに帰ったアケラオは、自分の即位に反対した60人を処刑した。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。・・・国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた」(19:12-14)、また「私が王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、私の目の前で打ち殺せ」(19:27)等の表現は、アケラオとエルサレム市民の対立を背景にしている。
・第一の物語を通して、イエスは聴衆に次のように語られている。「私は王冠を要求するためにエルサレムに向かいつつあるのではない。エルサレムで私を待っているのは十字架だ。私はそこで殺され、天に旅たつ。王冠をいただくのはその天においてだ。私はやがて帰ってくる。その時、神の国を拒否する者たち、私の言葉を受け容れなかった者にとって、人の子の訪れは喜びではなく、裁きになるだろう。王の任職に反対した者達が処刑されたように、信じない者にとって、終末は恐ろしいものになる。だから、悔い改めなさい。まだ、間に合うのだから」。これが第一の物語を通じたメッセージである。
・第二の物語は、王が僕たちにお金を預けると言う物語だ。王は出かける前に10人の僕を呼び、それぞれに1ムナの金を与え「私が帰って来るまで、これで商売をしなさい」と言って旅立った。1ムナは100デナリ、労働者の3ヶ月分の賃金だ。やがて王は帰り、僕たちに決算を求める。最初の僕が来て言った「御主人様、あなたの1ムナで10ムナもうけました」。王は喜び「良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう」と言った。第二の僕は1ムナを使って5ムナを儲け、同じようにほめられる。さて、第三の僕が来た。彼は、与えられたお金を投資して万一損を出したら、主人からどんなに怒られるかを恐れて、何もしなかった。彼は言う「御主人様、これがあなたの1ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです」。王はこの僕を怒って言う「悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。私が預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、私の金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに」(19:22-23)。
・この第二の物語は弟子たちに語られている。イエスはエルサレムで殺され、弟子達だけが残される。残された弟子たちは何をしたら良いのか、戸惑う。それぞれに信仰を与えられたが、それは安全に保管するように求められているのではなく、増やすように求められている。その時、何もしなかった怠惰な弟子は、持っているものも取り上げられ、既に豊かに持っている者に与えられる。その結果、「持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる」(ルカ19:26)ことになる。
2.私たちにとってムナとは何か
・イエスはエルサレムで十字架にかけられ、天に旅立たれる。彼が再び戻られるまで「与えられたムナで商売をしなさい」と言われる。このムナ=信仰あるいは信仰の証をする福音と考えてよい。商売をせよ、活用しなさいと言うことであり、具体的には生活の中で信仰の証し人として生きることである。福音はすべての人に平等に与えられている。問題はそれをどう生かすかだ。福音は大切にしまっているだけでは意味がなく、伝えられてこそ意味がある。それを自分だけのものとしてしまってしまう時、福音は力をなくすのだ。福音とはGospelすなわちGood Spell、良い知らせであり、誰にも伝えないではGood Spellでなくなるのだ。Good Spellでなくなった福音は、自分自身をも救わなくなる。信仰は使えば使うほど力を増していくが、使わなければ力を失い、やがて消えてしまう。第三の僕は、福音と言う宝を与えられたのに、それを死蔵して使わなかった。
・三番目の僕は「恐ろしかった」から、何もしなかった。それは福音を律法のように受け取り、聖書の教えを教条的にとらえるからだ。「敵を愛しなさい」という戒めがある。私たちがその戒めを「愛さなければならない」と義務的に受け取る時、嫌いな人を好きになることが出来ない自分に気づかされ、出来ない自分に罪を感じて暗くなる。そうではなく、敵を憎むとき、最も傷つくのは自分であり、人を憎むことによって良いものは何も生まれないことに気づかされた時、私たちは人を憎むと言う束縛から解放される。福音は解放の訪れ、喜びの知らせなのだ。私たちに福音が与えられたのは喜んで伝えるためであり、その時福音の種は「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」(マタイ13:23)。
3.今やるべきこと
・今日の招詞に使徒行伝1:10-11を選んだ。次のような言葉だ。
「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。』」
・弟子たちはイエスの十字架の死を体験して、信仰が揺さぶられた。しかし、復活のイエスに出会い、彼らの信仰は強められた。そのイエスが去っていかれる。弟子たちは昇天されるイエスを見上げながら、途方にくれていた。これまではイエスが導いてくれた、そのイエスはもうおられない、どうしたら良いのか。その弟子たちに神の使いは言う「何をぼんやりしているのか。あなた方はやるべきことがあるではないか」。この言葉に力づけられて弟子たちは福音の宣教を始める。
・私たちも同じ状況にある。神の国を待ち望むとは、地上のことに無関心になり、ただ天を仰いで待つことではない。「主よ、主よ」というだけではなく、具体的にやるべきことがある。まだ福音を知らない大勢の人がおり、彼らは福音を待っている、その人たちに福音を伝えることこそ私たちの使命だ。それがムナを増やすということだ。福音を伝えようとする時、福音は必ず道を開く。蓮見和男「聖書の使信」に次のような話が紹介されていた「ある病気の人が福音を聞いて信じるようになった。その感謝に何かをしたい。しかし、その人は寝たきりであり、外に出かけることは出来ず、プレゼントを買うお金もない。その人に出来ることは祈ることだけだった。その人は病床で一人一人のために毎日祈った。すると祈りがかなえられた。方法がなかったら銀行に預けていなさいと主人が言ったのは、こういうことではないのか」。私たちは福音を伝えるために、教会に集められているのだ。
・福音を与えられて、それを死蔵する人は、与えられたムナ=福音までも取り上げられてしまう。自分の救い、自分の平安だけを望んで、教会生活をする時、その生活は信仰を成長させず、逆に信仰を殺してしまう。福音を知らない人に伝えていく、その人のために祈り続けていく、その時ムナは増えていき「良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう」という言葉をいただくのだ。私たちは既にムナを持っている。私たちは宝物を預かっているのだ。それを増やしなさい。その時、神の祝福があふれるばかりに与えられるだろう。持っている者はさらに与えられるのだから。