1.三つの愛
・イエスは日曜日にエルサレムに入城された。エルサレムでは多くの人たちがイエスに論争を挑んで来た。パリサイ派は「皇帝(カイザル)に税金を納めるのは正しいのか」と論争を挑んで来た(マルコ12:13以降)。サドカイ派は「復活とは何か」と論争を挑んで来た(マルコ12:18以降)。その両者との論争にイエスが鮮やかに勝たれたのを見て、律法学者が質問してきた「全ての戒めの中でどれが第一のものでしょうか」。今日のテキストはこの律法学者の問いかけから始まる。
・イエスは「神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛しなさい」と答えられた。ここでは三つの者を愛しなさいと言われている。神と自分と隣り人と。これまで私たちは「人を愛するとは自分を捨てて愛することだ」と教えられてきた。そして、自分を愛する愛はエゴイズムとして否定されていると思ってきた。しかし、今回、説教準備で何回もこの個所を読むうちに、ここでは自分を愛することも肯定されていることに気付かされた。自分を愛する、自分が満たされないと他者を満たすことは出来ないとここでは言われている。今日はこの三つの愛、神を愛すること、自分を愛すること、人を愛すること、この三つがどのようにして一つになるのかについて、ご一緒に考えてみたい。
2.律法学者との問答
・律法学者はイエスに尋ねた「全ての戒めの中で、どれが第一のものですか」。ユダヤ人は神から与えられた戒め、律法を守ることで救われると考えてきた。律法とは例えば安息日を守るとか、割礼を受けるとかの戒めで、長い間に無数の戒めが出来て、どれが一番大事なものかがユダヤ人にさえ解らなくなっていた。それに対してイエスはただ二つのことを言われた。第一は「イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ」との教えであった。これは申命記6:4-5の引用で「シェマー(聞け)」と言われ、ユダヤ人はこの申命記の個所を最も大事な教えの一つとして朝晩唱える。イエスが言われた第一の戒めはユダヤ人にとっては納得できるものであった。
・しかし、イエスは続けて言われた「第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。これはレビ記19:18からの引用であるが、ユダヤ人には驚くべき内容を持っていた。隣人を愛することは大事なこととして教えられたが、それが神を愛することと同じくらいに大事な戒めとは考えなかった。神を愛するとは神のために犠牲を捧げたり、礼拝を守ることだと考えていた。まさか「神を愛することは人を愛することである」とは思いもしなかった。だからこの律法学者はイエスの教えに驚いて言う「神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛するということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」(33節)。
・燔祭、焼き尽くす献げもの、犠牲の動物を祭壇で火に焼き、神に捧げる。そういう献げものよりも、人を憐れみ、人に仕えることを神は献げものとしてお喜びになるとイエスは教えられ、律法学者もそれは正しいと思った。だからイエスは言われた「あなたは神の国から遠くない」と。あなたは正しい、神の国から遠くない、しかしまだ神の国には入れない。欠けているものがある、あなたは聞くだけで実行しようとしない。だからあなたはまだ神の国に入ってはいないのだ。マルコ12章の並行記事であるルカ10:28によればイエスは次のように言われている「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」(新約105頁)。その通り行いなさい、聞くだけではだめなのだと。
・ルカ福音書ではこの問答に続いて「良きサマリヤ人の例え」が語られている。隣人とは誰かと言う話だ。
「ある人が強盗に襲われて倒れている。そこに祭司が通った、彼は関わりあいになることを恐れて避けて行った。次にレビ人が通った、彼も知らん振りをして通る。次にサマリヤ人が通る。彼は倒れている人を見て気の毒に思い、介抱して宿屋まで連れて行った。誰があなたの隣人になったのか」。
・私たちは自分たちも良い隣人になりたいと願う。しかし、駅のホームで女性が男に絡まれているのをみる時、私たちは関わりあいになるのを恐れて横目で見ながら通り過ぎる。道端にホームレスの人が酔って寝込んでいるとき、私たちは自分に無関係の出来事としてその横を通る。私たちは日常生活において、祭司やレビ人と同じ行動をとり、サマリヤ人になれない。サマリヤ人になるには払う犠牲が多すぎるのだ。この話はエルサレムからエリコに下る道中で起きたとされている。暗く、さびしい道、強盗がまだそこにいるかもしれない。倒れた人を介抱すれば自分も強盗に襲われるかもしれないのだ。隣人になるとは自分も危険に巻き込まれかねない行為なのだ。人は無関係の他者の隣人にはなれないのだ。良心的なクリスチャンは、何故良いサマリヤ人になれないのかと自分を責めるが、なれなくて当然だ。当事者ではなく、傍観者だからだ。倒れている人の存在が自分に利害関係を持たない。倒れている人が自分の子供だったら、私たちはその横を通り過ぎたりしない。危険はあっても助ける。倒れている人が自分を助けてくれたことのある恩人だったら、同じ様に見捨てない。そしてこの話で倒れている人は恩人、かって自分を助けてくれた人なのだということを知った時、話は違ってくる。
・「私が歩いている時、暗がりから突然強盗が現れ、私を殴り倒し、身ぐるみを剥いだ。その時人の足音が聞こえたので、強盗は逃げた。ほっとしてみると祭司が歩いてくる、祭司は神に仕える人であるから私を助けてくれるだろう、そう思った時、祭司は私の方をチラッと見て反対側によけて行った。私は祭司を呪った。しばらくするとレビ人が来た。レビ人は神殿の雑事を担当する人、レビ人であれば同じ信徒として助けてくれるだろう。しかし彼もまた私をよけて行った。私は絶望した。するともう一人の人が来た。彼はサマリヤ人、私たちユダヤ人とは敵対関係にある人だ。彼は私を助けないだろう。ところがこのサマリヤ人は私のそばにより、私の傷にオリーブ油とぶどう酒とを注いで包帯をして、私をろばに乗せて宿屋まで運んでくれた。信じられない出来事が起こった。だれも助けてくれなかったのに、異邦人のサマリヤ人が助けてくれた。神様、感謝します。もし今後、サマリヤ人が困っていたら、私も必ずサマリヤ人を助けます」。
・そのサマリヤ人が今、ここに倒れているのだ。私もかって助けてくれたその人がここに苦しんでいるとしたら、私は危険があっても自分の最善を尽くす。助けられたから助けるのだ。人に関わるとは為されたことの恩返しなのだ。
3.愛されたから愛する
・今日の招詞にヨハネ第一の手紙3:16-17を選んだ。こういう内容だ。
「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。」
・私たちはかって傷つき倒れていた。そこにイエスが通りかかり、私の傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで介抱してくれた。イエスはその行為のために死なれた。その時、私たちは解った、良きサマリヤ人とはイエスなのだ。イエスは、危険を顧みず私を介抱してくれた。だから私も危険を顧みず他の人を介抱する。ここにおいて私たちはイエスの言葉「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛しなさい」の意味が解ってくる。「私があなたを愛したように、あなたも隣り人を愛しなさい」とイエスは言われている。多くの人たちがこの言葉を受けて応答を始めた。
・先週の週末、「いのちの電話」の相談員養成講座の合宿があり、礼拝をお休みさせていただいた。いのちの電話は元々イギリスの教会から始まった。多くの人々が相談する相手がなく、絶望して自殺していく情況の中で、教会は何が出来るのかを悩んだイギリス国教会の牧師、チャド・バトラーが教会堂の地下室に電話を数本用意し、何人かの同士と一緒に電話相談を始めた。このバトラーの運動「サマリタンズ」(サマリヤ人たち)がやがてヨーロッパ各地に広がって行った。日本で始まったのは1970年、ドイツ人の宣教師ルツ・ヘットカンプが東京で売春婦の厚生施設「望みの門」を開いたが、施設に来ることの出来ない女性もいるため、その相談窓口としてドイツのテレホン・ゼールゾルゲ(いのちの電話)に倣って電話相談を始めたのが最初である。アメリカのライフラインもそうで、いずれも教会の業として始まっている。
・いのちの電話は、イエスに出会うことによって命を与えられたクリスチャンが、その恵みに対する応答として始めた。いずれも「かって私も助けられたから、今助けるのだ」という信仰で始まっている。その原点は自分が愛されたことだ。自分を愛するから人を愛するのだ。私たちは自分が満たされてこそ、他者を満たすことが出来る。マザーテレサは自分たちの活動の原動力が朝晩二回行われるミサだと言った。だからどんなに忙しくてもミサを休まない。自分が愛されたという体験のある人だけが他者を愛することが出来る。だから私たちも自分が愛された、イエスに出会って救われたとの原体験を大事にし、それを教会の礼拝の中で繰り返し確認し、力をいただく。礼拝に来て満たされることこそが私たちに力を与えるのだ。
・その力をいただいて教会の外に出て行く。イエスは律法学者に言われた「聞くだけではなく行いなさい。あなたの目の前にいる人はみな私なのだ。高校生が不登校で苦しんでいる時、私が苦しんでいるのだ。母親が子供の発育を心配して悩んでいる時、私が悩んでいるのだ。私はあなたの助けを必要としているのだ」。私たちが目の前にいる一人一人こそ、イエスであり兄弟姉妹なのだとして受け入れるとき、即ち彼らの問題を私自身の問題とした時私たちは神の国に入っているのだ。