1.イエスの弟子たちへの顕現
・先週の日曜日、私たちはイースター礼拝(復活日礼拝)を持った。イエス・キリストが十字架に罹り、死んで葬られ、3日目に復活された、そのことが私たちの生死を決定する出来事であると聖書は主張する。今日は復活節第二主日、ヨハネ福音書20章を通して復活の意味を聖書から聞きたい。
・週の初めの日の夕方、即ちイエスの十字架から三日目、弟子たちは戸を閉じて家にこもっていた。イエスが十字架に殺されたことは弟子たちを絶望と恐怖の中に陥れた。救い主と信じた人が十字架で殺された絶望、自分たちも捕えられるかも知れないという恐怖の中で、彼等は震えていた。その彼等の只中に復活のイエスが現れたとヨハネ福音書は記す(20:19)。
・イエスは閉まっている戸を通り抜けて彼等のところに来られた。そして彼等に「平安あれ」と言われた。彼等はびっくりしたであろう。幽霊と思ったかも知れない。イエスは弟子たちに釘跡のついた手と刺し貫かれたわき腹をお見せになり、十字架にかかられたイエスと同じイエスであることを示された。弟子たちは「主をみて喜んだ」(20節)。弟子たちはその日の朝早く、婦人達が墓を尋ね、そこで復活のイエスに出会ったとの報告を受けている(18節)が、信じることが出来なかった。しかし、今、復活のイエスが直接に来られたことにより状況は一変する。「イエスは生きておられる。イエスは死に打ち勝たれた」、弟子たちはそれを見て、知った。故に彼等は喜んだ。
・恐怖に震えて戸を閉ざし、世との関係を遮断していた弟子たちが、復活のイエスに出会い、世に派遣されるものとなった。この派遣命令は部屋に閉じこもっていた弟子たちに与えられると同時に、教会の中に閉じこもっている私たちにも与えられている。ヨハネは記す「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」(21節)。イエスと出会うことによって、私たちもまた「自分は救われるのだろうか」と思い悩む存在ではなく、「救いは来た」と証言するものに変えられると聖書は言う。これは非常に重要な転換点である。
2.イエスはトマスのために再び、顕現された。
・イエスが3日目に甦り弟子たちに現れられた時、12弟子の一人であるとマスは一緒にはいなかった。他の弟子たちが「私たちは主を見た」(25節)といってもトマスは信じない。彼は言う「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」(25節)。トマスは観察し、実験し、実証されうるものでなければ決して信じない。これは私たちも同じだ。復活は理性で信じることはできない。
・ヨハネ福音書では復活を信じることが出来ないトマスのために、トマスのためだけにイエスが再度現れられたと記す。8日の後、つまり次の主日、イエスが再び現れ、トマスに対して「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい」(27節)と言われた。不信のトマスに対してイエスは言われた「おまえは見ずに信じることは出来なかった。おまえが信じるために必要なら私は再度十字架につく。この釘跡と槍の跡に触れても良い。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。トマスはイエスの言葉に圧倒され、イエスの前に跪く。そして言う「我が主、我が神」。教会の信仰告白の核心がもっとも弱い弟子において語られている。
・このトマス、デドモ(双子)と呼ばれたトマスはヨハネ福音書に3度登場する。最初は11:16である。危険な地であるエルサレムにあえて行こうとされるイエスに感動し、弟子たちに呼びかける「わたしたちも行って、先生と一緒に死のうではないか」(ヨハネ11:16)。トマスはイエスが危険の中に入られるなら自分も一緒に死ぬとここで宣言している。二回目は14:5で、捕えられる前の晩に、イエスが死んで天の父の元に行くと言明された時、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」(ヨハネ14:5)と言っている。トマスは非常に実務的である。理解できないことは信じない。そして3度目がこの場面、ヨハネ20章だ。トマスは最初はイエスのために死のうと思った。しかし、イエスが十字架にかかられた時、彼もまた怖くなって逃げた。そして今、イエスが復活されたことを知らされても信じることが出来ない。イエスが彼のためだけに再度現れ、「釘の跡、槍の跡に触れてみよ」と言われたとき、初めてイエスを十字架につけたのはイエスを信じることの出来なかった自分であることを知る。私たちは神から命を与えられ、以下されている、救いは命の根源である神を信仰することでしか来ない、イエスはそれをご自分の十字架という形で示されたことを今トマスは理解した。理解し、納得した故に、彼はイエスの前に跪いた。
・トマスは最初にイエスが来られた時に不在であった。そのため、復活のイエスに会うことが出来ず、イエスの復活を信じることが出来なかった。このことは弟子たちの群れ、即ち信仰共同体である教会を離れては信仰への懐疑を克服できないことを示す。トマスが信じることが出来なかったのは教会を離れていたためであった。しかし、また不信と懐疑の中にありながらもトマスは教会に戻った。そのため、遅れてであれ復活のイエスに出会うことが出来、信じることのできるものとされた。教会の外に救いなし、私たちが教会を離れる時、同時に信仰からも離れていくことを私たちはトマスの物語を通して知る。
・このトマスは最期にはインドにまで宣教に行ったと伝えられている。南インドに聖トマス教会があるがこの教会はトマスの伝道により建てられたという。復活を疑い、最も遅く信じたトマスが「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16:15)というイエスの宣教命令に最も忠実な者になったと伝承は記す。
3.私たちにとってイエスが復活されたとは何か
・弟子たちはイエスが十字架につけられた時、怖くなって逃げた。イエスが死なれた後もユダヤ人に捕えられることを恐れて家に閉じこもっていた。婦人達が復活の主に出会ったと証言した時も「愚かなこと」として信じていない(ルカ24:11)。私たちは復活を歴史的に証明することは出来ないし、また理性で理解することも出来ない。しかし弟子たちが「復活のイエスに出会った」と宣教し、そのために死んでいったことは歴史的事実である。今日、どの聖書学者たちも、弟子たちの最初の宣教がイエスの復活であったことを疑う者はいない。弟子たちが宣教したのはただ一点、この復活の出来事であった。弟子たちはこの信じがたい出来事、復活を命をかけて証言した。そして、多くの弟子たちはそれ故に十字架や石打により、死んでいった。この弟子たちの殉教、命を賭けた証言により、多くのものがイエスの復活を信じ、教会が生まれた。
・教会が最初に祝ったのもイエスの復活であった。復活のイエスに出会って初めて、イエスが人間の罪のために死なれたことを理解し、イエスの生誕が人間を救うために神が歴史に介入された出来事であったことを知った。弟子たちはまもなく週の最初の日を「主の日」即ち「主イエス・キリストが復活された日」として覚えるようになり、この日に礼拝を持つようになる。その礼拝の中でイエスの十字架と復活を記念して「パン裂き」の礼典、今日の主の晩餐式を持つようになる。そして毎年の春分の日が、主の復活の日、イースターとして祝われるようになる。日本ではイースターよりもクリスマスが盛大に祝われるが、歴史的にはイースターが先ず祝われ、後にクリスマスが祝われるようになる。クリスマスが教会の行事として祝われるようになったのは紀元4世紀、イエスの生誕から300年も経ってからである。このことからも初代教会がこの「主は復活された」という信仰をいかに大切にしたかが伺える。
・今日の招詞に1コリント15:12−14を選ばせてもらった。(新約274頁)
「さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。」
・復活なくして信仰なし、パウロが言うように「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい」ことになる。主は復活された、これが初代教会の信仰告白であり、また私たちの信仰の中心でもある。
・イエスはトマスに言われた「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」(ヨハネ20:29)。イエスの弟子たちは直接復活のイエスに出会って信じた。トマスもイエスに出会うまでは復活を信じていない。私たちもそうだ、人は見ずに信じることは出来ない。そのため、イエスはトマスのために現れてくれたように、私たちのためにも現れてくれた。私たちも十字架直後の弟子たちのように部屋に鍵をかけ、息を潜めて隠れていたことがあった。生きることはなんて苦しいのだろうかと思ったことがある。その苦しみの中で「神よ、あなたは何故このような苦しみを私に与えられるのですか」と叫んだことがある。そして神は私たちの叫びを聞かれた。私たちも復活のキリストに出会い、信じる者とされた。そして神を知るためにこの苦しみを与えられたことを知った。苦しみを通して祝福を受けた。ヨブ記36:15(旧約聖書740頁)を共に読んで終りたい。多くの人に慰めを与えた言葉である。
ヨブ記36:15「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、/彼らの耳を逆境によって開かれる。」