1.イエスの惜別の言葉
・イエスは捕えられる前の晩に弟子たちと最期の食事をとられた。食事の後、イエスは弟子たちにお別れの言葉を述べられる。その言葉が13章31節から16章の終わりまで続く。「わたしは、新しい戒めをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」(13:34)。イエスが世を去られるにあたり、弟子たちに与えられた惜別の言葉は、そして最も大切なものとして伝えられたことは「愛し合いなさい」と言う戒めであった。復活節第四主日の今日、このイエスが残された戒めである「愛し合いなさい」という御言葉の意味を共に考えてみたい。
・イエスは新しい戒めを与えると言われた。しかし、「愛し合いなさい」という戒めは既に旧約聖書にもある。それは釈迦も教えるし、ソクラテスも言う。「愛し合いなさい」と言う戒めは決して新しくない。イエスは何故新しい戒めを与えると言われたのだろうか。何が新しいのか。
・主なる神はイスラエルを自分の民として立てられたとき、民と契約を結ばれ、その具体的内容として十戒を中心とする律法を与えられた。十戒の第一戒は「あなたは私のほかに何者も神としてはならない」、即ち主なる神を愛せであり、第十戒は「あなたは隣人の家を貪ってはいけない」、即ち隣人を愛せである(出エジプト記20章)。本来の律法とはこの十戒に明らかなように神を愛し、人を愛することである。神が人間を生かし、愛してくださる。その神に対する感謝が隣人に対する愛の行為を生む。これが本来の律法の趣旨である。しかし、何時の間にか人間は律法の本質である愛を忘れ、戒めの外形だけが残り、律法は守らなければ裁かれるものとされてしまった。守らなければ裁かれる、人が神を審きの神と理解する時、裁かれないために戦々恐々となり、その結果、律法は小事にこだわる形式主義と条文の具体的適応をめぐる詮索に陥り、負い切れない重荷を人々に課すようになる。同時に救いが神の恵みではなく、人間の方が律法を守ることによって与えられると言う自己義認の考え方が蔓延し始めた。それに対し、イエスは律法の根幹である愛にもう一度戻れと言われた。律法の中で何が一番大切かとの問いに対しイエス答えて言われた「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」(マルコ12:28−31)。神を愛し、人を愛せよというのが父なる神の望んでおられることであり、この律法の原点に返れとイエスは言われた
・ではどうすれば人は神を愛し、隣人を愛することが出来るのか。そもそも人は自分以外のものを本当に愛せる存在なのだろうか。聖書は、人間はそのままでは、他者を愛することは出来ない存在と見る。
2.人間の愛
・人間の愛の姿を典型的に示すのが、創世記2−3章のアダムとエバの物語ではないかと思われる。人(アダム)を創造された神は、人が一人でいるのを見て言われた「人が一人でいるのは良くない。彼のために相応しい助けてを造ろう」(創世記2:18)。そしてアダムのあばら骨からエバを造られた。アダムはエバを見て言った「これこそ、ついにわたしの骨の骨、/わたしの肉の肉。男から取ったものだから、/これを女と名づけよう」(創世記2:23)。
・人はその妻を自分の分身として、いとおしみ愛した。しかし、そのエバが罪を犯し、そのためにアダムが神から責められた時、アダムは言う「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」(創世記3:12)。
アダムは言う「悪いのは私ではなく、あなたが一緒にして下さったあの女です。あの女が木から取って食べるように呉れたので私は食べました」。「私の骨の骨、肉の肉」とよんだ愛するものが、ここではあの女になっている。人が人を愛するとはこのようなものだと聖書は語る。人間の愛は、ギブアンドテイクの愛であり、自分にとって都合の良い時は愛するが、都合が悪くなれば、あるいは自分が不利益を受ける可能性があればこれを捨てる。私たちも日常生活の中でこのような愛の裏切りを目の当たりにし、失望し悲しむ。聖書は人間は本質的に自分以外のものを愛せない存在ではないかと問い掛ける。その人間が自分を捨てて人を愛せるようになるためには、神の愛に触れて変えられる必要があると聖書は言う。
・人間の愛に対し、神の愛は裏切り続けるものを絶対に捨てない愛である。ヨハネは言う「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである」(1ヨハネ3:16)。聖書は神の愛に触れた者はこのように変えられるという。でも、このような愛が可能であろうか。歴史上、神に出会って変えられた多くの人々がいる、カトリックの司祭であったマキシミリアン・コルベもその一人だ。
3.コルベ神父の示したもの
・マキシミリアン・コルベは1894年にポーランドで生まれ、24歳でカトリックの司祭になった。36歳の時、日本に来て長崎で宣教した後、故国のポーランドに帰るが、1939年ポーランドはナチス・ドイツに占領され、彼は捕えられてアウシュヴィッツ収容所に入れられる。アウシュヴィッツ、100万人ものユダヤ人が殺された強制収容所として有名であるが、当初はナチスに非協力的なポーランド人を収容するために作られた施設であった。強制的に収容された人々は機会があれば自由を求めて脱走する。収容所では脱走事件が続出したため、防御策として、一人の囚人が脱走して捕まらない時には、見せしめに同じブロックの10人の囚人を処刑することにした。1941年7月、脱走事件があり、身代わりとして10人の囚人が餓死刑に選ばれた。その時、指名された囚人の一人が泣き叫んで言った「私には妻と二人の子があり、私の帰りを待っている」。看守はかまわず彼を連れて行こうとした時、囚人の一人が進み出て、その男の身代わりとして刑を受けたいと申し出る。コルベだった、彼は言った「彼には奥さんと子供がいる。私はカトリックの司祭で独身だから」。こうしてコルベはその男ガヨビニチェクの代わりに餓死刑を受け、17日間水も食べ物も与えられない地下室の中で生き、最期に石炭酸を注射されて息を引き取った。助けられたガヨビニチェクは奇跡的に生き残り、3年後に収容所から解放され、初めてこの出来事が明らかになり、コルベの名前をみんなが知るようになる。ガヨビニチェクはコルベが代わりに死んでくれたことにより生きるものになった(この物語は曽野綾子著「奇跡」に詳しい)。
・これがキリストの私たちに示された愛の行為である。ヨハネ13:34「互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」。イエスは言われる「私があなた方を愛したように」、即ち「私はあなたの身代わりとして死に、その死によって神があなたをどのように愛されているかを教えるから、私に倣って愛し合いなさい」と。ガヨビニチェクはコルベが自分のために死んでくれたことによって自分が生かされていることを知った。そして、生涯、コルベの物語を証する者となった。私たちもあるとき、キリストが私のために死んでくれた事実を知る。その時、私たちはイエスの前に跪き告白する「我が主、我が神」。その時、旧い人間が死に、新しい人間が生まれる。
4.新しい生き方
・イエスが私たちのために死んでくれた、それほど私を愛してくれた、この愛の応答としての行為が生まれる。そしてイエスは言われる。私を愛するとはあなたの隣り人を愛することであると。そのことを、マタイは次のように表現する。
「あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれた」。・・・『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』」(マタイ25:35−40)。
・「愛する」とは感情ではない。愛するとは道徳でもない。「愛する」とは慈善でもない。愛するとは、神が私たちを愛してくださったから応答として愛するのであり、赦すとは、神が私たちを赦してくださったから、応答として赦すのである。神はそれを御子キリストの命を賭けて私たちに示されたから、私たちも命を賭けて愛する。ヨハネ15:13は言う「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」。
・これがイエス・キリストに出会って根底から変えられたものが行う行為である。信仰という見えないものが、愛の行為という見えるものになって結実する。それが可能になることをイエスは世を去るにあたり、弟子たちに示された。「互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。愛し合うことが何故新しい戒めなのか。それはイエスがご自分の死を賭けて示されたからこそ、今までになかった新しい戒めなのである。
・今日は教会総会の日である。本年度の主題聖句として第二コリント3:3を選ばせていただき、今日の総会に提案する。それは今日の招詞の一部でもある。
「わたしたちの推薦状は、あなたがたなのである。それは、わたしたちの心にしるされていて、すべての人に知られ、かつ読まれている。そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている」。
パウロはコリントの教会員に対し、あなた方がその教会にいて礼拝を守っていることこそが私がキリストの使徒であることの推薦状なのだと言う。コリント教会はパウロの開拓伝道により、生まれたが、争いの絶えない教会であった。信仰熱心な者はそうでない者を蔑み、あるものはパウロの教えに従うが、別の者は二代目牧師のアポロの方が良いといい、争いを繰り返していた。それにもかかわらず、コリント教会は価値がある。何故ならばキリストが彼等のためにも死んでくれたからである。この篠崎教会も人間的な争いの中で人が散らされていった。それにもかかわらず、少数の者が残され、礼拝を守りつづけてきた。この篠崎教会こそキリストの手紙であるとパウロは言う。
・旧い掟はモーセの律法として石の板に書かれた。新しい掟はイエスの愛として私たちの心の板に書かれる。神の愛に触れて変えられた者の生き様がキリストを証するものになる。先に見たマキシミリアン・コルベは次のような言葉を残している「誰もが天才になれるわけではないが、聖性の道は全ての人に開かれている。聖人は私たちとは違う人たちだというのは正しくない。聖人は試みに引き合わされ、誘惑に屈し、そして再び立ち上がるのだ」。