江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2002年10月6日説教(マルコ14:53-65、私がそれである)

投稿日:2002年10月6日 更新日:

1.ゲッセマネから大祭司の邸へ

・イエスは木曜日の深夜、オリーブ山のふもとにあるゲッセマネの園で捕縛され、大祭司の邸に連れて行かれた。そこには祭司長、長老、律法学者が既に集まり、イエスの裁判が始まったとマルコ福音書は記す(14:53-55)。祭司長、長老、律法学者はユダヤ人議会(サンヘドリン)の構成員であった。当時のユダヤはローマの植民地下にあり、ローマ総督の監督の下にユダヤ人議会が自治権を与えられて統治し、議会の議長は大祭司であった。イエスはその大祭司の命令によって捕えられ、その大祭司が議長を務める議会で裁かれた。捕えた者が裁くのであれば、最初から有罪は決まっていた。裁判の席には裁判官と告発者だけがおり、弁護者も群衆もいない。そのような中でイエスは裁かれた。
・多くの者がイエスの罪を明らかにする為に偽証する中で、イエスは沈黙を守られ、一言も弁明されなかった。しかし大祭司が「あなたは神の子、キリストであるか」と尋ねた時には、はっきりと「私がそれである」と答えられた。イエスが自分は神の子、キリストであると公に認められたのはこれが始めてである。そしてイエスが神の子、キリストであるとすれば、人間は神を被告席につけて裁いたことになる。神が人間によって裁かれ、有罪とされ、十字架で処刑されるという出来事が起こったと聖書は主張する。それは、何故、どのようにして起こったのか。今日はイエスの裁判を通して、何があったのか、それが現在の私たちにどうかかわるのかをご一緒に考えて見たい。


2.イエスの裁判

・イエスが捕えられ連れていかれたのは大祭司カヤパの邸であり、そこには祭司長たちや律法学者たちがイエスを待ち受けていた。彼らは前から自分たちの権威に従わないイエスを殺そうと図っていた(14:1)。従って裁判の結論は既に決まっていた、死刑である。しかし、モーセの律法は死刑にする為には二人以上の証人が必要であると決めていた(申命記17:6「二人の証人または三人の証人の証言によって殺すべき者を殺さなければならない。ただ一人の証人の証言によって殺してはならない。」)。それは裁判を公平に行い、誤審を防ぐ為であった。祭司長たちは既に有罪と決めているのに形式上の公正さを踏む為に、次から次に証人を立てて来た。
・イエスが告発された罪名の一つは神殿冒涜罪であった。先にイエスはエルサレム神殿の崩壊を預言された「あなたは、これらの大きな建物をながめているのか。その石一つでもくずされないままで、他の石の上に残ることもなくなるであろう」(マルコ13:2)。さらにヨハネに依れば「この神殿をこわしたら、私は三日のうちに、それを起すであろう」(ヨハネ2:19)とも言われている。これはエルサレム神殿こそ神の宮であり、神がそこに住まれると信じる祭司長たちには許すことの出来ない言葉であった。だから祭司長たちは告発した「私たちはこの人が『私は手で造ったこの神殿を打ちこわし、三日の後に手で造られない別の神殿を建てるのだ』と言うのを聞きました」(マルコ14:58)。三日で再建する、それはイエスが十字架で死に、三日目に復活するとの予言であったが、支配者たちにはその真意はどうでも良かった。死刑にする為の裁判であったから。
・もう一つの罪は神名詐称である。イエスは大祭司の「あなたは、ほむべき者の子、キリストであるか」との問いに「私がそれである」と言われた。ユダヤ人たちは神の名を口にするのをはばかるほどに神を恐れていた。だから彼らは神の名を直接に言わずに「ほむべき者」と敬って言った。その彼らにイエスは「自分こそ神の子である」と明言された。これはユダヤ人にとっては許すことの出来ない神への冒涜と映る。目の前にいる貧弱な体つきの、田舎者の大工の子が自らを神の子と名乗る。許せない、イエスの言葉を聞いた大祭司は衣を引き裂いて怒りを表した「どうして、これ以上、証人の必要があろう。あなたがたはこのけがし言を聞いた。」(14:62-63)。
・モーセは律法で「主の名を汚す者は必ず殺されるであろう。全会衆は必ず彼を石で撃たなければならない」(レビ記24:16)と定めている。ユダヤ人議会は、この律法の規定に従ってイエスに死刑の判決を下した。彼らは形式手には律法の定める所に従い、イエスを有罪とした。しかし、最初からイエスを死刑にすることは決まっており、裁判官と告発者のみの偽りの裁判であった。


3.人間の権威と神の権威

・イエスは「おまえはキリストか」と問われ「私がそれである」と答えられた。これが直接の証拠となり、イエスは死刑を宣告される。イエスの後、弟子たちもまた同じ様な一方的な裁判にかけられて、有罪を宣告されている。
・今日の招詞使徒行伝4:18-20がその一つだ。
「そこで、二人を呼び入れて、イエスの名によって語ることも説くことも、いっさい相成らぬと言いわたした。ペテロとヨハネとは、これに対して言った、『神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。私達としては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない』」。
・イエスの十字架の後、弟子たちは「あなた方が殺したイエスを神は死人の中からよみがえらせた。私たちはその事の証人である」(使徒3:15)と宣教し、ユダヤ当局に捕えられ裁判にかけられた。当局は言った「今後イエスの名によって語ることも説くことも相成らぬ」(使徒4:18)。イエスの十字架の時、自分たちも捕えられることを恐れて逃げた弟子たちであればこれくらい脅せば十分だろうと当局は考えた。ところが、ペテロは言った「人間に従うよりは神に従うべきである。殺したければ殺せ。私たちは体を殺しても魂を殺すことの出来ないものは恐れない」(マタイ10:28)。
・イエスの逮捕の時逃げ、大祭司の中庭で「おまえもイエスの仲間だろう」と言われて三度イエスを知らないと言ったペテロが、何故このように勇敢になれるのか、聖書はペテロが復活のイエスに出会って変えられたからだと言い、私たちもそう信じる。イエスが裁判を受けて一方的に有罪にされたように、ペテロもまた有罪とされた。そして歴史の中でこのような裁きは繰り返し行われた。ペテロはこの時は処罰を許されたが、やがてローマで捕えられ、皇帝ネロによって有罪とされ処刑されたと伝承は伝える。日本でも同じような出来事は十六世紀のキリシタン迫害において見られたし、私たちの時代にも見られた。
・先週の説教の中で、戦前の日本において、ホーリネス教会が治安維持法違反として迫害を受けたことを述べたが、その指導者の一人菅野(スゲノ)鋭牧師については当時の予審調書が残されている。それに依れば検事とのやり取りは以下の通りである(岩波新書「宗教弾圧を語る」173-174頁より)。
―係官「聖書を読むと全ての人間は罪人だと書いてあるがそれに相違ないか」
―菅野「それに相違ありません」
―係官「では聞くが天皇陛下も罪人なのか」
―菅野「国民として天皇陛下のことを云々することは畏れ多いことですが、ご質問に答えます。天皇陛下が人間であられる限り、罪人であることを免れません」
―係官「聖書の中には罪人はイエス・キリストによる十字架の贖罪なしには救われないと書いてあるが、天皇陛下が罪人ならば天皇陛下にもイエス・キリストの贖罪が必要だという意味か」
―菅野「畏れ多い話でありますが、先ほど申し上げましたとおり、天皇陛下が人間であられる限り、救われるためにはイエス・キリストの贖罪が必要であると信じます」
・戦後の私たちから見れば信じがたい問答であるが、「天皇は神の子孫であり、神聖にして犯すべからず」と言われた戦前において、天皇も人間である以上キリストの贖いが必要であると明言した菅野牧師の言葉は命がけの言葉である。それはペテロの信仰と同じであり、その根源はマルコ14章62節のイエスが言われた言葉「私がそれである」にまで遡る。
・私たちはイエスの裁判は2千年前の出来事であり、ペテロが経験したことも菅野牧師が経験したことも私たちには無縁の出来事と思うかも知れないが、本当にそうか。今、ここに朝日新聞10月1日の朝刊がある。5日前の新聞だ。そこには兵庫県の西宮冷蔵社長の水谷洋一さんの記事が載っている。水谷さんは自社の倉庫で雪印食品の牛肉偽装が行われている事を知り、兵庫県警に告発した。それをきっかけに丸紅や日本ハムの食品偽装も明らかになり、社会の不正が正された。彼は、零細企業が顧客の大企業を告発すれば売上に響き、また告発も握りつぶされるかも知れないと危惧しながらもあえて行った。行わなければならないと思ったからである。しかし、その結果は厳しいものであった。事件後、他の食品メーカーからも取引を打ち切られ、売上は半分になった。さらに国土交通省から、雪印の指示で在庫証明書を改ざんしたのは倉庫業法違反に当たるとして営業停止処分の通告を受けた。日本において内部告発をすることは裏切り行為であり、告発をした者は例えその告発が正しくとも制裁を受ける。水谷さんがクリスチャンであるかどうか私は知らない。しかし、彼の行為はクリスチャン的である。私たちも同じ様にイエスの弟子として生きようとした時に「神に聞き従うのか、人間に聞き従うのか」と問われる時が来る。その時「私がそれである」と答えるには勇気がいる。
・イエスは言われた「あなた方はこの世のものではない。・・・だからこの世はあなた方を憎むのである」(ヨハネ15:19)。もし私たちがこの言葉を自分に言われた言葉としてを真剣に受け止めるならば、イエスが受けられ、ペテロが受け、菅野牧師が受けたような困難がやがて私たちにも来るであろう。しかしイエスは仮にそのような世の裁きがあっても恐れるなと言われる。何故ならばイエスは既に世に勝っておられるからである(ヨハネ16:33)。これが、私たちがイエスの裁判から学ぶ信仰である。
・大祭司はイエスを冒涜の罪で告発し、議員たちは死刑に価するという判決を下した。大祭司の下役たちはイエスをあざ笑い、弟子のペテロはイエスを知らないと言った。こうして神の子は十字架で死んでいった。イエスは私たちの救い主である、何故ならばイエスは私たちのために自分を捨てたからだ。イエスは私たちの主である、何故ならば私たちの悪をイエスは自分の身に担われたからだ。イエスは私たちの裁き手である、何故ならば私たちを裁くのではなくご自分を裁かせるからだ。この事を十字架と復活という出来事を見て知ったペテロはもう逃げずに「人間に従うよりは神に従う」と大祭司の前で宣言した。2000年後、十字架と復活を聞いて信じた菅野鋭牧師は「天皇も人間である以上、キリストの贖罪なしには救われない」と検察官の前で明言した。このような信仰を継承して私たちが今日ここに集められていることを覚えたい。

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