江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2002年1月13日説教(イザヤ42:1−9、しもべの使命)

投稿日:2002年1月13日 更新日:

1.イザヤ42章の時代背景

・イザヤ書は40章から後半になり、バビロンで捕囚になったイスラエルの民への解放の預言が詠われている。イスラエルは紀元前587年にバビロニヤにより、国を滅ぼされ、住民は捕囚として、バビロンに連れてこられた。それから、50年の年月が流れた。イスラエルを滅ぼしたバビロニヤもやがて国が傾き、前539年に新興のペルシャ帝国に滅ぼされてしまう。ペルシャ王クロスは翌年、イスラエルの民を捕囚から解放する。イザヤ書後半の預言はその歴史的背景の中でなされている。
・前回の宣教で、イザヤ40章を共に学んだ。イスラエルの民に、エルサレムに帰る日が来たとの慰めを伝える預言であった「慰めよ、わが民を慰めよ、・・・その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を/主の手から受けた」(イザヤ40:1−2)。
・解放が告げられてから、実際にエルサレムに戻り、神殿を再建するまでには、まだまだ多くの苦難があった。今日から、4回にわたって、バビロンからの解放と国の再建がどのようになされていったのかを、イザヤ書から見ていく。私たちの教会も苦しみの時が終わり、再建に向かって歩み始めたばかりである。イスラエルの民が経験したことを、これからこの教会も経験していく。イザヤ書を通して、多くのことを学ぶことができると思う。今日は、イザヤ書の二回目として、42章を学ぶ。「主のしもべの召命」として、有名な個所である。

2.主のしもべの召命

・解放の訪れを聞いた民に神の言葉が与えられる(42:1)。「私の支持するわがしもべ、私の喜ぶわが選び人を見よ。私はわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道をしめす。」
・イスラエルは神の支持する僕、神の喜ぶ選び人と呼ばれている。国を亡くし、希望を亡くして、50年もの間、屈辱の中に沈んできたイスラエルに、「私はあなたを捨てていない、あなたは私のものだ」と神が言われている。
・捕囚は苦しい体験であった。詩篇の中には、捕囚の苦しさを歌ったものがあり、137編もその一つである。
「われらは/バビロンの川のほとりにすわり、シオンを思い出して涙を流した。われらはその中のやなぎにわれらの琴をかけた。われらをとりこにした者が、われらに歌を求めたからである。われらを苦しめる者が楽しみにしようと、「われらにシオンの歌を一つうたえ」と言った。われらは外国にあって、どうして主の歌をうたえようか。・・・破壊者であるバビロンの娘よ、あなたがわれらにしたことを、あなたに仕返しする人はさいわいである。あなたのみどりごを取って/岩になげうつ者はさいわいである。」。
イスラエルにとって、捕囚とは、今、目の前で遊ぶバビロンの幼い子供たちの頭を岩にぶつけて粉々にしたいと思うほどの屈辱の日々であった。
・このような苦しみを経てきたものに、神は言われる「私はわが霊を彼に与え、諸々の国びとに道を示すため、あなたを選んだ」(42:1)と。神は、諸国民が神を知るようになるために、イスラエルを選ばれた。そして、イスラエルは本当の神の民になるために試練を与えられた。それが国の滅びと民の捕囚であったとイザヤは理解した。

3.しもべの使命

・しもべは、神の義と愛を諸国民に示すために立てられる。どのようにして示すのかが2―3節で述べられる。「彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせる事もない」
・古代は力と力のぶつかり合う世界である。武力に優れたものが力で諸国民を制圧し、新しい支配者は彼の意志を使者に大声で叫ばせる。「支配者は叫び、声を上げ、その声をちまたに聞こえさせる」(42:2)。誰もそれに異議を唱えることはできない。支配者の意志は、その武力を背景にし、逆らうものは殺されるだけだ。バビロニヤもそうであったし、新しく支配者になろうとしているペルシャ王クロスもそうであった。前章41:25にクロスと見られる王の支配が描かれている。「わたしはひとりを起して北からこさせ、わが名を呼ぶ者を東からこさせる。彼はもろもろのつかさを踏みつけて漆喰のようにし、陶器師が粘土を踏むようにする」。
・この世の王とは、他の競争者を踏みつけて漆喰のようにし、陶器師が粘土を踏むように人々をねじ伏せる。預言者は、神がペルシャ王クロスを使って、イスラエルの民をバビロンから解放されることを予期している。事実、クロス王が前539年にバビロニヤを滅ぼすことによって、イスラエルは捕囚から解放された。しかし、イスラエルの使命はクロス王のように、力で人々を制圧し、大声を上げて、その意志を強制することではない。
・彼は「傷ついた葦を折ることなく、ほの暗い灯心を消すこともなく、真実を持って道を示す」(42:3)。傷ついた葦=苦難の中で弱り衰えた人々、ほの暗い灯心=希望の光をまさに失おうとする人々、そのような人々に道を伝えるためにイスラエルは立てられた。何故ならば、イスラエルそのものが50年間の捕囚を通して、傷ついた葦、ほの暗い灯心にされた。人々は疲れ果て、希望を亡くし、神の愛さえ信じることが出来なかった。彼らは捕囚の間、つぶやいていた「わが道は主に隠れ、わが訴えは神に顧みられない」(40:27)と。この苦しみ、悲しみを知ったからこそ、イスラエルに新しい使命が与えられる。「傷ついた葦を慰め、ほの暗い灯心を励ます」神の心を伝えよとの。
・この世にあっては、折られたもの、消えつつあるものは死ななければならない。古代世界にあっては、戦争で敗れた国の民は殺されるか、奴隷として敵国に連れて行かれた。預言者の属するイスラエルもバビロニヤに滅ぼされ、民は捕囚として連れて行かれた。現代においても、競争に敗れたものは敗残者として捨てられる。子供たちは捨てられまいとして、必死に受験勉強を行い、いい大学、いい会社を目指す。大人たちも捨てられまいとして、必死で会社や家庭にしがみつく。しかし、競争あるところ、必ず敗者が出、敗者は落ちこぼれとして捨てられる。東京では、毎日のように人身事故で電車が止まる。大半が鉄道自殺者である。電車が止まるたびに捨てられた人々の怨念が聞こえてくる。これは、神の望まれる世界ではない。神は全ての人が、人間としての尊厳を以って生きられる社会を望まれている。
・故に、神は人々の苦しむ声を聞かれる。イスラエルの民に神は言われる「あなた方は、捕囚の民として、敗残の苦しみを味わった。苦しみを知ったからこそ、他の苦しむ者のために道を示すことができる。その使命を果たすためにこそ、あなた方は捕囚を経験したのではないか」。
・マタイ福音書は、イエスが片手のなえた人を癒された後に、このイザヤ42章の預言を引用されたと伝える(マタイ12:9以下)。「イエスはそこを去って、彼らの会堂にはいられた。すると、そのとき、片手のなえた人がいた。・・・そしてイエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、ほかの手のように良くなった。・・・これは預言者イザヤの言った言葉が、成就するためである、「見よ、わたしが選んだ僕、わたしの心にかなうもの・・・彼は争わず、叫ばず、またその声を大路で聞く者はない。彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない」。片手のなえた人、当時の社会において、どうでも良い、むしろ目障りな人。イエスは片手のなえた人が、病で苦しむと同時に、社会の中で受入れられない苦しみをも持つことを、憐れまれた。マタイがイエスの癒しの行為の中に、イザヤの預言の成就を見たように、私たちもこの教会の出来事の中に、イザヤの預言の成就を見ていきたい。


4.私たちへのメッセージとしてイザヤ42章を聴く。

・イザヤ42章の言葉を、この教会に語られた言葉として聞く時、何が聞こえてくるのか。この教会は江戸川地区の教会として立てられた。そして、地域に伝道したが、より良き民として、訓練されるために、教会が分裂し、牧師が去り、大勢の教会員も去ると言う出来事を負った。牧師のいない1年半を通して、この教会に残ったものは強くされた。神の民に相応しいものにされた。この地域にも、傷ついて折れようとしている人、絶望してその炎が消えようとしている人がいる。その人たちに向かって、語るために私たちが選ばれ、訓練された。私たちは苦しんだ、故に、苦しんでいる人々に語ることが出来る。それは、華々しい行いではなく、忍耐のいる行為である。呼びかけても答えがないこともあろう。失望があり、落胆がある。しかし、待ち望まれている(42:4)。「彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。海沿いの国々はその教を待ち望む。」
・5節以下でイスラエルに与えられた使命が改めて述べられる(42:5―7)。
「わたしはあなたの手をとり、あなたを守った。わたしはあなたを民の契約とし、もろもろの国びとの光として与え、盲人の目を開き、囚人を地下の獄屋から出し、暗きに座する者を獄屋から出させる。」
・神がこの天地を創造し、今も、支配しておられる。バビロニヤもペルシャも、神の器にしか過ぎない。あなたがたこそ、諸国民の光となるように選ばれた。それは、「あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった」(申命記7:7)からである。あなた方はバビロニヤやペルシャのような強国ではない。弱小の民族であり、それ故に苦しみ、悲しみを知る民族であった。だから、あなた方を選んだ。あなた方を通して、私の義と愛とを伝えるためにと主は言われる。
・この教会の使命も同じである。この教会も弱さを知った。弱さを知るものだけが、苦しむ人、悲しむ人を慰めることができる。慰めの訪れを語るためにこの教会に苦難が与えられたとイザヤ42章は告げるのではないか。

5.預言は成就する。

・私たちは、世界史を通じて、このイザヤ42章の預言が成立したことを知る。バビロニヤを滅ぼしたペルシャはギリシャのアレキサンダーに滅ぼされる。アレキサンダーの帝国も分裂し、ローマが成立する。そのローマも今はない。政治的に無力で弱かったイスラエルの民は2500年経った今も健在である。そして、今、私たちはそのイスラエルに語られた神の言葉に耳を傾けている。大声で呼ばわった強者たちは全て滅び、弱いと思われた神のしもべだけが生き残った。これは神の摂理、不思議な御業ではないか。
・最期に、今日の招詞である詩篇126編を共に読もう。この詩篇は、イスラエルの民が捕囚から解放されて、エルサレムに帰還する様を歌ったものだ(詩篇126:5−6、旧約864P)。
「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。」
・苦しみの中にあるものに解放の時が来た。その時、「涙をもって種まく者は、喜びの声を持って刈り取り」、「泣きながら国を出た者は、喜びの声をあげて国に帰ってくる」。イスラエルの民がこの解放の訪れ、福音を近隣諸国に伝えたように、私たちも、この地域に喜びの福音を伝えたい。そうすれば、何時の日か、この教会堂が主を賛美する人の群れで満たされだろう。歴史に起こったことは、再び起こる。何故なら、国々はその教えを待ち望んでいるからである。

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