江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2002年6月30日説教(マルコ8:14-21、まだ悟らないのか)

投稿日:2002年6月30日 更新日:

1.パンの奇跡の後で

・イエスと弟子達は異邦の地での伝道を終え、ガリラヤに戻る為に舟に乗られた。その時、イエスが「パリサイ人のパン種だねとヘロデのパン種に警戒しなさい」と言われた。弟子達はパンを持ってくることを忘れ、残りが一つしかなかったので、それではみんなの分としては足らないではないかとお叱りになったのだと思った。それに対しイエスは、「まだわからないのか、まだ悟らないのか」とお嘆きになった。それが今日の聖書個所である。
・一つのパンではイエスと12人の弟子たちが食べるのには不足である。しかし、イエスがそのことを叱られたのではないことは明らかだ。なぜなら舟に乗り込む直前に、イエスは7つのパンで4千人の人たちに食事をお与えになっている。もし7つのパンで4千人が食べることが可能であれば、1つのパンで13人が食べるには十分である。イエスがお嘆きになったのは、7つのパンで4千人が養われる奇跡を目の前に見たにも関わらず、まだ1つのパンでは13人には不十分だと考える弟子たちの無理解であった。
・だから言われる。「5つのパンを裂いて5千人を養った時、拾い集めたパンくずはいくつの籠になったのか、7つのパンを裂いて4千人を養った時拾い集めたパンくずはいくつになったのか」と(マルコ8:19-20)。神は5つのパンで5千人を養い、7つのパンで4千人を養うことがお出来になるのに、まだパンが一つしかないと騒いでいるのか。愚か者よ、まだ悟らないのか。

2.パリサイのパン種

・ここでイエスは三つの愚かさを嘆いておられる。第一の愚かさはパリサイ人の愚かさだ。「パリサイ人のパン種に警戒せよ」(マルコ8:15)。パリサイ人もイエスが7つのパンで4千人を養われる場にいた。彼らはそれを見た。それにもかかわらず彼らはイエスに更なるしるしを求める。「パリサイ人たちが出てきて、イエスを試みようとして議論をしかけ、天からのしるしを求めた」(マルコ8:11)。7つのパンで4千人を養うのは物理的には不可能なことだ。7つのパンであれば7人が食べれば終わりだ。それを4千人の人が食べ、そのパンくずでさえ7つの籠に一杯になったという奇跡を彼らは目の前に見た。不可能を可能にされる神の業を今彼らは見た。しかし、彼らはさらなるしるしを求める。「あなたが神から遣わされたのであればその証拠を見せよ」とパリサイ人は求める。イエスは答えられた「なぜ、今の時代はしるしを求めるのだろう。よく言い聞かせておくが、しるしは今の時代には決して与えられない」(マルコ8:12)。彼らはイエスを受入れなかったナザレの群衆と同じだ。律法の教育も受けず、按手礼も受けていないイエスの言葉に彼らは耳を貸さない。
・パリサイ人は律法、神の戒めを守れば救われると考えた。そのため彼らは律法の規定を細かく厳格に定めた。その規定を守らないものを「地の民(アム・ハーレツ)」として軽蔑した。彼らの名前、パリサイとはペリッシュ(分離する)というアラム語から来る。彼らは様々の汚れから自分たちを分離し、身を清く保とうとした。自分を正しいとするものは何を見ても感動しない。イエスが食べるものも無い人々を見て「この群衆がかわいそうだ、彼らは三日間も食べていない」と憐れまれて、手元にあった7つのパンを裂いてそれで4千人を養われても彼らはそれを天からのしるしと見ていない。彼らにとって自分が救われることが最大の目的なのであって、地の民の4千人がお腹をすかしていようが関係がないのだ。
・私たちの中にもこのパリサイ人のパン種がある。今、この教会に汚い服装のホームレスの人が来たら私たちはどうするのか、「早く教会から出て欲しい、ここは神を求める正しい人が集まる聖なる場所であり、汚い身なりの人が来るところではない」、私たちがそう思うとき、私たちもパリサイ人なのだ。私たちが主よ主よと自分の救いのみを求め、お腹をすかしている4千人の存在を無視したら、私たちもパリサイ人と同じではないかとイエスは言われている。私たちは現代においては、数千人どころか数万、数十万の人が餓えで死につつあることを知っており、ユニセフやその他の団体が支援活動を行っていることを知っている。しかし、それは私たちの視野にはない。「パリサイ人のパン種に警戒しなさい」というイエスの言葉は私たちに言われている。


3.ヘロデのパン種

・私たちはマルコ6章でヘロデ・アンテイパスについて学んだ。彼はガリラヤの領主であり、多くのものを持ちながら、それ以上のものを欲した。兄ヘロデ・ピリポの妻ヘロデヤの美しさに惹かれ、自分の妻を離別し、兄からヘロデヤを奪った。それを「正しくない」と批判したヨハネを捕え、その首をはねた。
・ヘロデのような生き方は現代にも多くある。日本でも最近は離婚が増えてきたが、その原因の大半は不貞である。配偶者がありながら他の異性を欲しくなる。聖書では姦淫するなと教えるが、それは姦淫が隣人をむさぼる行為だからだ。離婚して別の異性と結婚することは、離別される配偶者とその子供たちを苦しめる。不倫相手との再婚は多くの場合破綻する。他人の不幸の上に自分の幸福を求めても神はそれを許されない。
・イエスは神がお与えになった戒めは二つしかないとお教えになった。
「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」(マタイ22:37-40)。
・神を愛するとは人を愛することであり、人を愛するとは人をむさぼらないということだ。神は言われる「わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる」(マラキ3:10)。自分の利益ではなく他者の利益を求めよ、その時どのような祝福があなたにあるか私を試してみよと神は言われている。良い羊飼いは羊のために命を捨てる、医者が患者のために命を捨てる時、弁護士が依頼人のために命を捨てる時、そこに何が生まれるか。それが神の国であり、あなた方はそれを求めよといわれる。「ヘロデのパン種に警戒しなさい」、自分のことだけを求めた時私たちは他者をむさぼる、だから警戒しなさいといわれる。

4.愚かな弟子たち

・三番目の愚かさはもちろん弟子たちの無知である。弟子たちは7つのパンで4千人が養われるのを見た。乏しいものでも分け与える時、多くの祝福が与えられるのを見た。それにもかかわらず、今手元にパンが1つしかなく、これでは13人は食べることが出来ないと騒いでいる。この愚かさは私たちの内にもある。神は私たちを養ってくださることを教えられながらなお、子供の教育費はどうしたらよいのか、家のローンの支払いは大丈夫か、このままでは老後が心配だ、私たちの毎日はこのようなわずらいに満ちている。イエスが「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。・・・あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。」(マタイ6:31-32)と言われても私たちは、うわの空で聞き流し、本気で実行しようとしない。自分の生存を神に委ねようとしない。だから私たちも思い切って自分のパンを裂いて他者に与えることが出来ず、「パンは一つしかないではないか、これではみんなが食べるには足らないではないか」と騒いでいる。人間の目から見ればパンの欠乏は大きな問題である。しかし、神の目から見れば必要なものは与えると約束しているのに何故信じないのかという問いかけになる。委ねてみよ、主の恵みを試してみよと私たちは問われている。

5.分かち合いの豊かさ

・今日の招詞にイザヤ58:10-11を選んだ。
「飢えた者にあなたのパンを施し、苦しむ者の願いを満ち足らせるならば、あなたの光は暗きに輝き、あなたのやみは真昼のようになる。主は常にあなたを導き、良き物をもってあなたの願いを満ち足らせ、あなたの骨を強くされる。あなたは潤った園のように、水の絶えない泉のようになる。」
・私たちが幸福になりたいのであれば、今手元にあるパンを二つに割って一つを他者に与えよとイザヤは言う。ユダヤには二つの湖がある。北に位置するガリラヤ湖はヘルモン山の雪解け水を受けて満々と水をたたえ、この湖からヨルダン川が流れ出で、250キロの砂漠を越えて、最期は南の死海にまで至る。ガリラヤ湖とヨルダン川の周囲には緑があふれ、正に砂漠の中のオアシスを形成する。他方、死海は海面下400メートルの低地にあり、ここから水はどこにも流れ出ず、蒸発によって量を保つ。従って水中の塩分が非常に濃く、生き物は住めず、周りには塩の塊があるだけの荒涼たる景色である。死海は取り込むだけだからそこには命は生まれず、魚一匹、植物一つ無い。しかし、ガリラヤ湖とヨルダン川は与えられた水を豊富に周辺に与え直すから、そこには花が咲き乱れ、多くの生き物を生かす。人間も同じだ、取り込むばかりの人は何も生まない。しかし、多く与える人は豊かな実りをもたらす。
・食べるものが無く4千人が餓えていた時、弟子たちが持っている7つのパンを差し出せばそれは4千人を養うに足るパンになる。それを自分たちだけで食べようとする時、7つのパンは7人しか養わない。私たちはこの真理を本当に知っているのかが問われている。「なぜ、パンがないからだと論じ合っているのか。まだわからないのか、悟らないのか。あなたがたの心は鈍くなっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞えないのか。まだ思い出さないのか」(マルコ8:17-18)。
・この教会に赴任して3ヶ月が経った。たった3ヶ月、しかし神の祝福を知るには十分な3ヶ月だったと思う。今、この教会は神の祝福のうちにあると思う。礼拝出席の方が少しずつ増やされてきた。祈祷会に出席される方も増やされてきた。「教会を離れておられる兄弟姉妹が戻されますように」という祈りを皆さんが祈るようになった。今、私たちは心を一つにして、自分のためはなく神の国を求めて活動しているからだ。この祝福をいただき続ける為にはこのイザヤ58:10の言葉を私たちは心の板に刻みこむ必要がある。「飢えた者にあなたのパンを施し、苦しむ者の願いを満ち足らせるならば、あなたの光は暗きに輝き、あなたのやみは真昼のようになる。」

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