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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2001年11月18日説教(マタイ5:43−48、キリストにある平和)

投稿日:2001年11月18日 更新日:

1.汝の敵を愛せよ。

・イエスはガリラヤ湖畔の丘の上で、弟子と群集を前にして、説教された。マタイ福音書は5章―7章にこの山上の説教を記す。その中でも、有名な言葉の一つが、今日の聖書個所「敵を愛せ」(44節)であろう。イエスは言われた。「隣り人を愛し、敵を憎めと言われている。しかし、私は言う、敵を愛し、迫害するもののために祈れと」。隣り人を愛せとはレビ記19:18に書いてある。「あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣り人を愛さなければならない。」
・ここには敵を憎めとは書かれていない。隣り人を愛せと書いてあるだけだ。しかし、多くの民族が狭い地域に混在して住む古代パレスチナの人々にとって、隣り人とは同じ民の人々、即ち同朋のことであり、同朋でないものは敵だった。人々は高い城壁をめぐらした町の中に住み、敵が攻めてきた時には、城門はいつでも閉めることのできる状況に置かれた。城門の内側にいる人だけが隣り人であり、そうでないものを愛することは彼らにとって身の危険を意味した。だから、聞いている人々はイエスの言葉にびっくりした。


2.敵を憎むのは人間として当然だ。

・敵を憎むのは人間にとって当然だ。46−47節にあるように「人間が愛するのは自分を愛してくれる人であり、人間が挨拶するのは自分の兄弟だけだ」。私たちの生活を見ても、私たちが愛するのは自分の家族であり、友人であり、尊敬する人である。敵は愛する範疇には入らない。当たり前ではないか。イエスもそれが人間として当たり前だと知っておられた。しかし、イエスは言われる「あなた方は私の弟子ではないか。私に従うと言ってくれたではないか。取税人でもすること、異邦人でもすることをして十分だとすれば、あなた方が私の弟子である意味は何処にあるのか」。
・イエスは言われる「あなた方は私を通して父なる神に出会った。そして、神の子となった。天の父が何を望んでおられるのか。父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる」(45節)。「父はあなた方が敵と呼び、悪人と呼ぶ人達も愛されている。だから、あなた方も父の子として敵を愛せ。父が完全であられるようにあなた方も完全であれ」(48節)。
・先に見たように、古代においても、またイエスの時代においても、敵を愛するのは危険だった。今日においても状況は変らない。多くの人々はキリスト者を含め、イエスの言葉はあまりにも理想主義的であり、非現実的だと考えた。人々は言う「愛する人が襲われた時、愛する人を守るためには暴力も止むを得ない。そうしなければ、この世は不正と暴力で支配されるだろう。悪を放置すれば、国の正義、国の秩序は守れない。悪に対抗するのは悪しかない。」
・この論理は現代においても貫かれている。軍隊を持たない国はないし、武器を持たない軍隊はない。その武器は人を殺すためにある。襲われたら、襲い返す。その威嚇の元に平和は保たれている。この場合、相手は襲うかもしれない存在、何をするか解らない存在、即ち敵である。そして敵は悪いものになる。悪に対抗するに悪で報いる時、敵対関係は消えず、敵対関係が続く限り争いは終らない。目には目を、暴力には暴力を、これが人間の論理である。この論理によって人間は有史以来、戦争を繰り返してきた。今も戦争を繰り返している。


3.しかし、イエスは敵を愛せよと言われた。

・イエスはこのような敵対関係を一方的に切断せよと言われる。今日のテキストの少し前、38節以下でイエスは言われる「 『目には目を、歯には歯を』と言われてきた。 しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」これは悪を放置することではない。悪は憎め、しかし、悪人は憎むな。何故なら、悪人もまた、父の子、あなたの兄弟であるから。
・しかし、人々はイエスを理解することが出来ない。カール・マルクスはこのように言った「あなた方はペテンにかけられても裁判を要求するのは不正と思うのか。しかし、使徒は不正だと記している。もし、人があなた方の右の頬を打つなら左を向けるのか。あなた方は殴打暴行に対して、訴訟を起こさないのか。しかし、福音書はそうすることを禁じている」。
・マルクスにとって、山上の説教は愚かな、弱い人間の教えに映った。彼は殴られたら殴り返すことが正義であると信じ、その正義が貫かれる社会を作ろうとした。そして、彼の弟子であるレーニンやスターリンはマルクスの意志をついで、理想社会を作ろうとしたが、それは化け物のような社会になってしまった。何故か。前に見たように、殴られたら殴り返すことが正義である社会においては、仲間以外は敵であり、敵とは何をするか解らない存在、信用の出来ない存在になる。人間がお互いを信じることができない時、平和は生まれない。
・右の頬を打たれたら左の頬を出す、それだけが争いを終らせる唯一の行為であると聖書は言う。敵を愛せよ、敵を愛することによって、敵は敵でなくなる。パウロはこのマタイ5章を受けて言う(ローマ12:19−21)。
「 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復すると書いてあるからである。むしろ、もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。」
・善を持って悪に勝て、敵にあなた方の信仰を示し、敵を変えよと、パウロは言う。

4.敵を愛する時、平和が生まれる。

・キリストを信じた時、何が起こるのか。エペソ書は次のように述べる(エペソ2:14−16)。
「 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」
・キリストの十字架が敵意を滅ぼす。平和が生まれないのは、敵が敵でありつづける為である。キリストを信じることによって、私たちはこの敵意と言う隔ての壁が取り除かれるのを見る。何故か、それはキリストが私たちのために死んでくれたためである。イエスはローマにより、十字架にかけられて死なれた(紀元30年)。しかし、イエスの弟子たちはローマに報復せず、伝道した。その結果、イエスの十字架から300年後、ローマはキリスト教を国教にした(313年、ミラノ勅令)。報復しなかった敗者が力を誇った勝者を征服した。「善をもって悪に勝て」パウロの言葉が世界史の中で、成就した。
・キリストにある平和はキリストの十字架により、贖い取られた。十字架を通して、私たちは神が世界を支配し、人間の歴史に介入される方であることを知った。知ったのであれば、私たちの安全、平和を神に委ねれば良いではないか。近年、現実の政治の世界でも、山上の説教を見直そうと言う動きが出ている。地球を何回も破壊する規模の核兵器を持った人類は、敵対関係を続けることが出来なくなってきた。戦争は、かっては、軍隊同士の争いだった。第二次大戦以降、戦争は否応なしに市民を巻き込むものになった。威嚇による平和がいかにもろいか、歴史が示す所であり、仮に第三次大戦が起きれば人類は破滅する。平和をもたらすためには敵対関係を解消するしかなく、そのためには一方的に報復を断念するしかないと聖書は言う。この聖書の言葉以外には本当の平和はもたらされないのではないかと人々は考え始めている。私たちはこの世が理想郷でないことは知っている。敵を愛すると言うことは、自分たちと違う価値観を持つ敵がいることを前提にし、危険を伴うものであることも知っている。それでもそうしよう、敵意の隔てを崩すのはそれしかないことを聖書は教え、また世界史も教えるから。


5.最期に

・最期に、この説教が語られた状況を見よう。イエスを囲んで弟子たちがいる。その弟子たちを取り囲むように群集がいる。イエスはこの説教を弟子たちに向けて語られた。しかし、群集も聞いており、その教えに驚いたと聖書は記す(マタイ7:28)。群集もまたイエスの言葉を聞くことを欲しており、弟子たちは人々に伝えるためにイエスの言葉に熱心に耳を傾けた。私たちも今日、集められてここに来た。そして聖書を通してイエスの言葉を聞いた。弟子たちが聞いた福音を携えて出て行くように、私たちも本当の平和はキリストを通してくることを伝えよう。
・イザヤ2章4節にこのような言葉がある(旧約P944)。
「 彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。」
この言葉は、NYの国連ビルの土台石に刻み込まれている。キリストにある平和、神は私たちキリスト者にその実現を委ねられる。

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