1.ルカ福音書はイエス・キリストの誕生の時に、天から声があったと記す。
・「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2:14)。聖書はイエスが生まれられた時、天からこのような声があったと記す。「天に栄光、地に平和」有名な言葉であり、クリスマスカードにもよく書かれる。イエスは平和をもたらすために来られた。聖書はそのように記す。そのイエスが生まれられた時、地上の世界はどのような状況だったのだろうか。地に平和があったのだろうか。
・2:1−7にイエス誕生時の様子が描かれている。それによれば、両親が住民登録のために、ガリラヤのナザレから父ヨセフの本籍地であるユダヤのベツレヘムに行き、そこで生まれられた(ルカ2:4)。ガリラヤからユダヤまで120キロ、間に山あり谷ありの道である。身重の女性を連れての旅は1週間以上かかり、相応の難儀であったと思われる。しかも旅の目的は住民登録、即ち人頭税支払いのために登録せよとのローマの指示によるものであった。彼らは強要されて、ベツレヘムに行った。しかも、ベツレヘムについたら泊まる所もなく、マリヤは家畜小屋でイエスを生んだとされる。地には、平和がなかった。
・両親に住民登録を命じたのは、ローマ皇帝アウグストスであった(2:1)。ローマは彼のもとに世界帝国になり、その時代はローマの平和(パックス・ロマーナ)と称された。しかし、それは力による平和であった。力の均衡が崩れれば、すぐにも騒乱が起きる状況だった。彼の父ユリウス・カエサルは暗殺され、彼自身アントニウスや大勢の政敵を殺してローマ皇帝になった。彼の手も血にまみれている。彼の死後、多くの皇帝が立ったが、皆暗殺されたり戦死したりしている。ローマにも平和はなかった。
・ユダヤを統治していたのはヘロデだったが、彼はエドムの出身でユダヤ人ではなく、ローマに任命されてユダヤ王となった。ヘロデの政治基盤は弱く、いつ権力の座から追われるか解らない状況下にあった。そのため、彼は疑い深く、自分の地位を守るために、王家出身の妻を殺し、三人の子も彼の地位を狙ったとして彼自身の手で殺している。マタイ2:16以下によれば、イエスが生まれた時、王が生まれたとの噂に怯え、ベツレヘムの二歳以下の幼児を皆殺しにしたという。これが史実である確認されないが、そのような噂が流れたことは本当であろう。彼は自分の死に際して、人々が悲しむようになるために、各家族の1人を殺すように命じたと言う人物であったから(古代史17−181)。ユダヤにも平和はなかった。
・このような状況の中でイエスは生まれられた。その時、天から声があった。「地には平和あれ」と。イエスが来られることにより、平和が生まれたのか。歴史家は問う。「イエスの前には平和はなかった。それは確かだ。でも、イエスの後も人間は戦争を繰り返している。この2000年の歴史は戦争の歴史だ。イエスが生まれられても、状況は何も変っていないではないか。何処に平和があるのか。」と。私たちは何と答えれば良いのか。
2.平和(エイレネー)はヘブル語シャローム(平安)の訳語として、新約聖書で用いられている。
・新約聖書で「平和」と言う言葉は、ギリシャ語のエイレネーが用いられている。例えばルカ8:48がそうだ。12年間も出血を患う女を癒された後でイエスは言われた「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。出血を患う病は当時、汚れた病として忌み嫌われた。この女性は病の苦しみだけではなく、社会から村八分されて苦しんでいた。イエスはこの女性の病を癒されると同時に、社会の中でも平安に生きるように慰められた。「安心して行きなさい」、この安心がエイレネー=平和である。聖書に言う平和=エイレネーとは、単に戦争のない状態の平和ではなく、もっと積極的な意味の平和、シャローム=神の平安である。
・この平安は神との和解により生まれる。この平安なしに、人と人との間にも平和はありえないと聖書はいう。ヤコブ4章1−2節は次のように言う。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。」
・平和を妨げているのは人間自身の欲望、人間の根源的な悪、即ち利己―自分が良ければよいという人間の思いである。その利己が敵意を生み、敵意が争いを生む。従って、平和の実現のためには、この敵意が滅ぼされねばならない。聖書は、この敵意がイエスの十字架により、滅ぼされたと言う。エペソ書2:14−16は次のように言う。「 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」
・キリストの十字架により、神との和解がなされ、この和解を通して、人の敵意が滅ぼされ、人との平和が成立したと聖書は言う。しかし、人間の理性では、この十字架の意味は理解できない。イエスの弟子たちでさえ、わからなかった。イエスが十字架につけられた時、弟子たちは救い主と信じてきたこの人が実はそうではなかったと思い、失望してイエスを捨てた。そのイエスが復活して彼等の前に現れた時、初めてイエスが神の子であることを知った。疑い深いトマスは「イエスの手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れ、この手をわき腹に入れてみなければ、私は信じない」(ヨハネ20:25)と言った。彼はイエスが来られた時、「わが主、わが神」といって、イエスの前にひざまずいた。そして弟子たちは自分たちが経験したイエスの十字架と復活が、既にイザヤ53章3―5節に預言されていることを知った時、十字架の意味、十字架による赦しを知った。
「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」。
・この時、弟子たちは根底から変えられた。ペテロは自分の信仰を次のように告白する(第一ペテロ2:24−25)「(イエスは)十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」。トマスやペテロのように、私たちも復活のイエスに出会い、跪くことを通して、その存在が変えられる。
3.十字架を通して人は変えられる。
・キリストの十字架を通して許され、神と和解した人は、人との平和をも確立する。パウロは、ローマ教会の信徒たちへの手紙のなかで次のように述べている(ローマ14:1−3)。「 信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです」。何を食べても良い、全ては許されている。しかし、肉を食べるのは罪だと考えている人もいる。そういう人がいるならば、私も肉を食べるのを止める。何故ならば「食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。」(ローマ14:15)。
・人がこのように変えられた時、争いは消える。何故なら、彼が先ず、考えることは自分のことではなく、相手の利害である。彼は許されたから、彼も相手を許す。人が相手を赦し愛する時、争いは発生しない。しかし、人は問う。確かに聖書はそう教えるかも知れない。だが、その聖書の言葉を実行しているものはいるのか。もしいれば、現実社会の中で人間が憎みあい、殺し合うこともなくなるのに、現実は何も変っていないではないか。
・キリストの十字架を知る私たちは反論する「違う、私たちがいる。私たちは右の頬を打たれた時、怒りを持って相手に打ち返すことはしない。私たちは右の頬を打たれた時、怯えて下を向くこともしない。私たちは右の頬を打たれた時、左の頬を出す。何故なら、イエスがそうされたから。また、愛する人が襲われても私たちは報復しない。何故なら、イエスが十字架につけられた時、彼は自分を十字架につけたもののために祈られたから」。現実の場面で、私たちがこのように行動できるかわからない。しかし、行動したいと言う願いを持つ群れをイエスの十字架は生んだ。その群れの一つがこの教会に集う人々である。
・ゲルト・タイセンというドイツの聖書学者は「イエス運動の社会学」という本を書いた。イエスが来られることによって弟子たちがどのように変えられたかを分析した本である。その最期に彼は次のように書いた。
「(キリスト教がローマの国教になった時から)キリスト教は、次第次第に、愛と和解のヴィジョンを失っていった。しかし、このヴィジョンは、繰り返し、繰り返し、燃え上がった。いく人かの「キリストにある愚者」が、このヴィジョンに従って生きた。多くの人々は、彼らを宗教的「達人」の部類に入れる。多くの者は、こういう愛敵や無抵抗や無所有のエートスを世界史上の「日曜規範」の中に数え入れる。しかしこれらは、我々の社会的関係が次第に不安定になって来つつある時に「平日」にとって重い意味を持ってくるようになるかもしれない。」
・私たちは社会の中で、いろいろな共同体に所属して生きる。家族があり、会社があり、学校があり、地域があり、国家がある。私たちは週に一日だけ教会に来て、日曜規範を学ぶ。後の六日は平日規範の中で、すなわちこの世の論理の中で生きる。もはや、このような生き方は許されない時代に来ているのではないかとタイセンは問い掛ける。私たちは、地球を何回も破壊する規模の核兵器を持った。この核兵器を使う戦争が起これば、人類は破滅する。今、世界の平和は威嚇によって保たれている。各国が武装し、攻めて来たらやり返すと言う威嚇の中で、戦争のない状態としての平和が保たれている。このような平和はもろい、何故ならばそれはアウグストスの平和であり、ヘロデの平和である。その平和が崩れ、仮に第三次大戦が起きれば人類は破滅する。本当の平和、神との平安の中にある平和が来ない限り、未来はない。週一日だけでなく、残りの週六日も、イエスに従うキリスト者が求められているのではないかとタイセンは言う。誰があなたの王、誰があなたの主であるのか、キリストか、この世か、私たちがこの世を選んだら平和は来ない。それは確実だ。
・キリストにある愚者(愚か者)になろうと言う人々は、歴史の中で、次から次に現れた。そして、私たちもキリストにある愚者になりたいと願う。「地に平和」この言葉に命を賭けるものが、人類を破滅の中から守ってきた。そのような願いを人に起こさせる出来事がクリスマスの夜に起きた。「彼が刺し貫かれたのは私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめにより、私たちに平和が与えられた」(イザヤ53:5)。この言葉を今日、もう一度覚えたい。「地に平和」、キリストが死ぬことによって私たちは、神との平和を得た。今度は私たちが死ぬことによって、私たちの隣り人が神との平和を得られるように願う。