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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2026年6月14日 テモテへの手紙二 2:1~13「キリストの恵みによって」

投稿日:2026年6月18日 更新日:

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招詞 イザヤ書 40章29~31節

「疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
若者も倦み(うみ)、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る(のぼる)。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」

 

・皆さん、おはようございます。主の日の礼拝に共に招かれ、

こうして御前に集うことができましたことを感謝します。本日も、主が御言葉をもって私たちを養い、励まし、新しく立たせてくださることを信じて、心を合わせて御言葉に聴いていきたいと思います。

・本日の御言葉は、困難の中にいる信仰者(神を信じる者)に向かって、
「あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。」(2:1)と語りかけています。
今朝この礼拝に集っている私たちにも、この言葉はそのまま向けられています。
私たちは「強くなりなさい」と聞くと、つい、自分を奮い立たせること、気力で乗り切ること、
弱さを見せずに前へ進むことを思い浮かべます。けれども、パウロがテモテに語った強さは、
そのような無理を重ねる強さではありません。それは、
キリストの恵みの中に身を置くことで与えられる強さです。ですからこの言葉は、
元気な人への励ましであるだけでなく、今まさに弱さを覚えている人への福音でもあるのです。

・先程、招詞としてイザヤ書40章29~31節を聴きました。
「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる」
「主に望みをおく人は新たな力を得る」。この御言葉は、今日の主題である
「恵みによって強められる」ということと、深く響き合います。主は、
もともと強い人をさらに強くするお方としてではなく、疲れた者に力を与えるお方として御自身を現されます。信仰の歩みは、私たちの能力から始まるのではありません。主の憐れみと真実から始まります。
そのことを心に留めながら、主が今朝私たちに何を語ってくださるのか、共に聴いていきます。

 

起 恵みによって強くされるとは何か

・パウロはまず、「あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい」と語ります。ここには、信仰生活の大切な順序があります。私たちは、まず自分が頑張って、その足りないところを神様に補っていただく、と思いがちです。けれども福音は逆です。先に恵みがあり、その恵みの中で私たちは立ち上がらされるのです。キリスト者の強さは、性格の強さでも、経験の多さでも、立場の安定でもありません。主イエスがすでに与えてくださった救いにより頼み、その恵みの中で今日を生きるところに、本当の強さがあります。

・テモテは、何も恐れない豪胆な人物として描かれているわけではありません。むしろ、若さゆえのためらい、周囲からの圧力、教会の混乱、そして福音のために苦しむ現実の中で、心細さを覚えていたであろう若者です。そんなテモテに向かって、パウロは「もっとしっかりしなさい」とは言いませんでした。「恵みによって強くなりなさい」と語ったのです。ここに福音の優しさがあります。主は、私たちの弱さを知らずに命じておられるのではありません。弱さを知っておられるからこそ、恵みの中にとどまりなさいと招いてくださるのです。私たちも同じではないでしょうか。
家庭の責任、仕事の重圧、人間関係の痛み、教会の奉仕、将来への不安、老いへの戸惑い、病の苦しみ。その一つひとつが、心を細らせます。そして私たちは、信仰者なのだから動じることはないはずだ、もっと祈れるはずだ、もっと立派であるべきだと、自分を責めることがあります。けれども御言葉は、まず自分を強くしなさいとは言いません。恵みの中に帰って来なさい、と招くのです。
私たちが神の前に立つことができるのは、自分の努力によってではなく、キリストの十字架と復活によるからです。

・そして二節でパウロは、「わたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。」(2:2)と語ります。ここで示されているのは、ただ一人の信仰の励ましではなく、教会に託された大切な使命です。恵みによって強められる人は、その恵みを自分の内に抱え込むだけでは終わりません。福音を受け取り、福音に養われ、さらに次の人へと手渡していく人へと整えられていくのです。
信仰は独占するものではなく、受け継がれていく賜物です。教会が教会であり続けるのは、立派な制度があるからではなく、福音が着実に、しかも忠実に受け継がれてきたからです。今日、私たちがここで御言葉を聴いているのも、先に歩んだ人々が次の人に福音を託し続けてくれたからです。ですから、恵みによって強くされるとは、ただ自分が支えられることにとどまりません。主から受けたものを、祈りとことばと生活を通して、次の人へ手渡していけるようにされることでもあるのです。立派な制度があるからではなく、福音が忠実に受け継がれてきたからです。今日、私たちがここで御言葉を聴いているのも、信仰の先輩たちが次の世代へ福音を託し続けてくれたからなのです。ですから、恵みによって強くされるというのは、気分が高まることでも、問題がすぐに解決することでもありません。むしろ、主が共にいてくださるという確かさの中で、今日なすべきことを静かに続けていけることなのです。大きな声で自分を励ますのではなく、主の約束に支えられて一歩を踏み出すことです。礼拝に集うこと、祈ること、御言葉を聴くこと、誰かのために心を配ること。そのような一見小さな営みの中に、恵みによって強められた信仰の姿が現れてくるのだと言えるのです。

 

承 苦しみの中で与えられる召し

・三節以下でパウロは、兵士、競技者、農夫という三つのたとえを用いて、信仰の歩みを語ります。

「兵士は自分を召集した者の気に入ろうとします。」(2:4)、「競技者は規則に従って競技をしないならば、栄冠を受けることができません。」(2:5)、「農夫は労苦し、最初に収穫の分け前にあずかるべきです。」(2:6)。この三つに共通しているのは、どれも忍耐と集中を必要とするということです。
キリスト者の歩みも同じです。思いつきや気分だけで続いていくものではありません。主に召され、主の定められた道に導かれ、主が与えてくださる実りを待ち望みながら歩む道なのです。

・同じように、信仰者も主の恵みに支えられているからこそ、忍耐することができます。恵みは、苦しみをたちまち消してしまう魔法ではありません。しかし恵みは、苦しみの中で折れてしまわないように、つまずいても再び立ち上がることができるように、私たちを支える神の力です。

・この三つのたとえは、遠い昔の特別な人たちの話ではありません。現代に生きる私たちにも、よく分かる姿として受け取ることができます。現代の兵士とは、使命を第一にして生きる人です。たとえば、災害の現場に向かう人や、誰かの命や生活を守るために責任を担う人は、自分の都合よりも託された務めを優先して働きます。そこには、心を一つにして与えられた務めに向き合う姿があります。また現代の競技者とは、近道ではなく、節制と誠実さの中で歩む人です。競技の世界に限らず、日々訓練を重ね、決められた道筋を守りながら、自分を整えていく人の姿です。
そして現代の農夫とは、すぐに結果が見えなくても、地道な労苦を続ける人です。種を蒔いても、その日のうちに実りは見えません。それでも季節を信じ、実りを待ちながら働き続けます。

・パウロは、まさにそのような姿を通して、信仰者の歩みを語ろうとしています。キリスト者もまた、主に召された者として、何を第一にすべきかを見失わずに歩むように招かれています。
気分や周囲の評価に振り回されるのではなく、主を喜ばせることを願って生きるのです。また競技者のように、ただ結果だけを求めるのではなく、主の前に正しい道を大切にします。目立つ成果や早い答えを求めて焦るのではなく、御言葉と祈りの中で整えられながら歩むのです。そして農夫のように、今はまだ見えない実りを信じて、与えられた務めに忠実であろうとします。祈りも、奉仕も、証しも、すぐに実を結んでいるように見えないことがあります。それでも主は、むだな労苦をお命じになる方ではありません。

・ですから、この三つのたとえは、「もっと頑張りなさい」と私たちに強さを求めるためのものではありません。
むしろ、主に召された者として心を定め、主の道に従って整えられ、主が備えてくださる実りを信じて忍耐する、そのような歩みへと私たちを招くものです。そして大切なのは、そのすべてが自分の力だけで成り立つのではないということです。兵士にも、競技者にも、農夫にも、それぞれ支える秩序と与えられた目的があります。同じように信仰者も、キリストの恵みに支えられているからこそ、苦しみの中でも折れずに歩み続けることができます。ここに、恵みによって強められる信仰の具体的な姿が示されているのです。

・そしてパウロは、この三つのたとえの中心を、八節の一言によって明らかにします。「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。」(2:8) 兵士の集中も、競技者の節制も、農夫の忍耐も、それ自体が目的なのではありません。信仰の歩みを支える中心は、私たちの頑張りではなく、私たちが思い起こすべきキリスト御自身なのです。信仰の持久力は、自己暗示からは生まれません。キリストを思い起こすことから生まれます。
しかもここで語られる主イエスは、「ダビデの子孫」であり、「死者の中から復活された」方です。つまり、歴史の中に来られたまことの救い主であり、死に打ち勝たれた復活の主です。
信仰は抽象的な考えに支えられているのではありません。十字架につけられ、葬られ、よみがえられた主に支えられているのです。しかもこの言葉を語っているパウロ自身は、安全な場所から教えを述べていたのではありません。福音のために苦しみ、鎖につながれた獄中から、なおこの主を証ししているのです。しかし彼は言います。
「しかし、神の言葉はつながれていません。」(2:9)何と自由な告白でしょうか。人は縛られても、福音は縛られない。宣教者が閉ざされても、神の言葉は前へ進んでいく。ここに教会の希望があります。
私たちは、自分の限界や状況を見て、もう先へは進めないと思うことがあります。けれども主の働きは、私たちの条件の中に閉じ込められません。私たちの手が届かないところにも、神の言葉は届いていくのです。
このことは、礼拝を守り続ける私たちにも大きな励ましになります。自分の働きは小さい、祈っても何も変わらない、証ししても伝わらない、そう感じることがあるかもしれません。しかし神の言葉は、私たちの感覚や評価よりも、はるかに自由に働きます。今日読まれる一つの聖書の言葉、ささげられる一つの祈り、交わされる一つの慰めの言葉を通しても、主は人の心に触れてくださいます。
ですから私たちは、結果を急ぎ過ぎず、主の御業を信じて忠実に歩み続ければよいのです。

 

転 恵みと力の逆説――弱さの場に現れるキリストの真実

・ここで、招詞として読まれたイザヤ書40章と、テモテへの手紙二2章1~13節との響き合いを、少し丁寧にたどってみたいと思います。イザヤ書は、「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる」と語りました。ここで大切なのは、神の力が、人間の充分さの上に少し付け足されるものとして語られていないことです。そうではなく、枯渇したところ、限界にぶつかったところ、もうだめだと思うところに、神の力が注がれるのです。同じように、パウロが言う「恵みによって強くなりなさい」という言葉も、すでに強い人をさらに補強する言葉ではありません。自分では立っていられない者が、外から与えられる恵みによって立たされる、そのことを語っています。
ここには、聖書に一貫して流れている大切な逆説があります。私たちはふつう、力があるから耐えられる、資格があるから任される、正しいから受け入れられる、と考えます。けれども福音は逆を語ります。
恵みによって立てられ、赦されたから委ねられ、愛されたから従うことができるのです。
律法的な考え方では、命令が先にあり、それを守れた人だけが認められます。しかし福音では、まずキリストにおいて受け入れられ、その受け入れの中から新しい従順が生まれます。
ですから「強くなりなさい」という言葉も、重荷を増やす命令としてではなく、恵みの現実にとどまりなさいという招きとして受けとめる必要があります。

・さらに十一節以下の「次の言葉は真実です」という信仰告白は、この逆説をもっと深く示しています。
この真実な言葉には、慰めだけでなく厳粛さもあります。「わたしたちが耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。わたしたちがキリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。」(2:12) ここには、主に結ばれて歩むことの重みが語られています。恵みは安価な慰めではなく、私たちを真実な主への従順へと招く恵みです。しかしその厳粛さのただ中で、なお十三節は大きな慰めを語ります。私たちが揺らぐときにも、主は御自身を否む(いなむ)ことがなく、真実であり続けてくださるのです。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。」(2:11)ここでは、命が死を通して与えられると語られています。つまり、自分自身を拠り所とする古い人が砕かれ、キリストに結ばれる新しい命に生かされるのです。イザヤが語る「疲れた者に力を与える神」と、パウロが語る「死と復活のキリスト」は、別々の話ではありません。同じ福音を別の角度から語っているのです。神は、強い者だけを用いて御業を進めるのではなく、むしろ弱い者、疲れた者、打ちひしがれた者を恵みによって生かし、その人を通して御栄え(みさかえ)を現されます。

・そしてこの流れは、十三節の「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる」という言葉に至って頂点を迎えます。ここで聖書は、人間の信仰の揺らぎを見ないふりはしていません。
私たちは誠実であり続けられないことがあります。祈りが細り、恐れに呑まれ、語るべきときに黙り、黙るべきときに騒いでしまうことがあります。しかしそれでも、キリストの真実は揺らぎません。なぜなら、「キリストは御自身を否む(いなむ)ことができないからです。」(2:13)救いの最後の土台は、私たちの信仰の強さではありません。主の真実の確かさです。ここに、恵みによって強くされる信仰の中心があります。私たちは、自分がどれほどしっかり主をつかんでいるかによってではなく、主がどれほど確かに私たちをつかんでいてくださるかによって支えられているのです。
ですから、主に望みをおくというのは、ただ気持ちを前向きにすることではありません。主に望みをおくとは、主の真実が自分の不真実よりも大きいと認めることです。キリストの恵みが、自分の疲れや弱さや罪責(ざいせき)の現実よりも深いと信じることです。イザヤは、主を待ち望む者が新たな力を得ると語りました。その新しさは、古い自分を少し改良した程度のものではありません。キリストにあって与えられる、新しい存在の力です。
ですから信仰者は、倒れない人なのではなく、倒れてもなお主によって立ち上がらされる人なのです。
ここで私たちは、信仰を「自分がどこまでできるか」という尺度で測る習慣から、少し自由にされたいと思います。礼拝を守れたか、充分に祈れたか、立派に証しできたか、それらはもちろん大切です。けれども、それが救いの土台ではありません。土台はいつでもキリストです。だから私たちは、自分の足りなさに気づいたとき、そこで終わるのではなく、そこから主の恵みに立ち返ることができます。弱さに気づくことは、負けではありません。むしろ恵みの必要に目が開かれる恵みの始まりなのです。

 

結 教会と私たちの歩みへの励まし

・「キリストの恵みによって強くなりなさい。」この御言葉は、今日(こんにち)の教会にも深い慰めと方向を与えてくれます。私たちは、ともすると教会の力を人数や活動量や目に見える成果で測ってしまいます。けれども本当の力は、キリストの恵みにとどまるところから始まります。福音を託され、福音に支えられ、福音を次の人へ渡していくこと。それが教会のいのちです。もし私たちが、自分たちの工夫や実績ばかりを誇るなら、やがて疲れ果ててしまうでしょう。しかし、キリストの恵みによって強められるなら、たとえ小さく見えても、誠実に歩み続けることができます。
またこの御言葉は、私たち一人ひとりの日常にも向けられています。今、すでに疲れている方がいるかもしれません。祈る言葉を失っている方、信仰に自信を持てない方、何度も同じところでつまずいて自分に失望している方がいるかもしれません。そのような私たちに主は言われます。
「恵みによって強くなりなさい。」それは、「自分で何とかしなさい」という声ではありません。
「わたしのもとに来なさい。わたしの恵みの中で立ちなさい」という主の招きです。
弱さを抱えたまま、主のもとへ行けばよいのです。そこでこそ、主は新しい力を与えてくださいます。

・私たちは、キリストと共に死に、キリストと共に生きる者とされました。ですから、目の前の苦しみが最後の現実なのではありません。主にあって忍耐する歩みの先に、主の栄光が約束されています。兵士の労苦も、競技者の節制も、農夫の忍耐も、決して空しくありません。なぜなら、復活の主が生きておられるからです。神の言葉は、今もつながれていません。
だから教会は希望を失わず、私たちもまた、今日ここからもう一度主に望みをおいて歩み出すことができるのです。私たちの信仰の土台は、私たちの熱心さではありません。私たちの決意の強さでもありません。
キリストの恵みであり、キリストの真実です。主は疲れた者に力を与えられます。
主に望みをおく者は新たな力を得ます。そして、たとえ私たちが誠実でなくても、主は常に真実であられます。この主がおられるからこそ、私たちは失望の中に沈み込まず、再び立ち上がることができます。
今週もまた、自分の力に頼るのではなく、キリストの恵みにより頼みながら、それぞれの歩みへと遣わされていきたいと思います。そしてもう一つ覚えたいのは、恵みによって強められる歩みは、いつも一人きりの歩みではないということです。
テモテはパウロから福音を受け取りました。私たちもまた、誰かから祈られ、支えられ、導かれて今日ここに立っています。そして今度は、私たちが誰かを支え、祈り、福音を手渡していく番です。教会とは、強い人だけが集まる場所ではありません。恵みを必要とする人たちが、同じ主のもとで共に支えられながら歩む場所です。その交わりの中で、主は私たちを静かに、しかし確かに強めてくださいます。
その主の前に、今、私たちの弱さも願いもすべて携えて、共に祈りをささげましょう。

 

お祈りします。

恵み深い真の命の神様。今、御前に心を合わせて祈ります。私たちは弱く、疲れやすく、しばしば恐れにとらわれます。しかしあなたは、そのような私たちを見捨てず、御子イエス・キリストにあって恵みを与え、真実をもって支えてくださいます。本日の御言葉を感謝します。どうか私たちが自分の力に頼るのではなく、キリストの恵みによって強められる者となります様に。苦しみの中にあるときも、福音の言葉はつながれていない自由であることを覚えさせてください。教会が、忠実に御言葉を受け継ぎ、次の世代へと手渡していく群れとされますように。
疲れている者には新しい力を、迷っている者には道を、悲しむ者には慰めを、罪を悔いる者には赦しの確かさをお与えください。私たちが誠実でなくても、主が常に真実であられることに信頼し、今週も主と共に歩ませてください。
私たちの救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

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