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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2025年9月14日(ヨシュア記3:1~17 ヨルダン川を渡る 神の導きと現代への問い ヨシュア記3章から現代パレスチナ問題を考える)

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はじめに ヨルダン川を渡る瞬間
・皆さん、おはようございます。ヨシュア記2週目となりました。ヨシュア記3章は、
イスラエルの民が約束の地へと進むため、大きな障害であるヨルダン川を渡る場面を描いています。モーセ亡き後、ヨシュアが指導者となり、神の約束に応えて民を導く重要な転換点です。この出来事は単なる歴史的記述にとどまらず、信仰の旅路における
「越えなければならない川」を象徴しています。私たちもまた困難や葛藤に直面するとき、神の導きと約束に信頼して歩むべきことを思い起こします。

ヨシュア記3章の背景
・ヨシュア記3章では、イスラエルの民が約束の地カナンに入る直前、ヨルダン川という
大きな障害に立ち向かいます。川は収穫期で水かさが増し、人間の力では渡れない状況
でした。ヨシュアは祭司たちに契約の箱を担いでかついで川に進むよう命じ、神は約束通り、祭司の足が水に触れると流れが止まり、民は乾いた地面を渡ることができました。
・シュア記3章に記される「ヨルダン川渡河とか」と、出エジプト記14章の「葦あしの海うみ(紅海こうかい)の奇跡」。この2つの物語は、イスラエルの民の歴史の中で重要な転換点となる出来事であり、いずれも神の力と導きによって困難な境界きょうかい線を越えるこえる経験を描いています。
・出エジプト記14章は、奴隷状態にあったイスラエルの民がエジプトから脱出する際、神が海を分けて道を開き、民が無事に葦の海を渡る奇跡を行います。これは救いの物語の出発点です。一方、ヨシュア記3章は、荒野での長い旅路を終え、約束の地カナンへの入り口を前にヨルダン川という障害を神によって乗り越えます。ここでは救いの「成就」として、神の約束した土地への到達が強調されます。
・どちらの物語も、民の前に神の臨在が示されます。出エジプト記では、モーセが神の命令に従い杖を伸ばして海を分ける役を担いますにないます。ヨシュア記では、祭司たちが契約の箱を担いでかついでヨルダン川に足を踏み入れ、神の臨在の象徴である契約の箱が障害を乗り越える「鍵」となります。
・出エジプト記では、主がモーセに「出発させなさい」(出エジプト14:15)、と命じられる場面があり、ヨシュア記でも祭司たちが水に足を踏み入れることで川の水が止まり、道が開かれるという「信仰の実践」が強調されます。
・イスラエルの民にとって「水を渡る奇跡」は、神が歴史の中で自分たちのために働かれた証拠です。ヨシュア記3章の終わりには、12の石をヨルダン川から取り上げて記念碑とし、後世に神の救いを語り継ぐよう命じています。出エジプト記14章でも、神が民を守った出来事を記憶し、「主はわたしの救いとなってくださった」(出エジプト15:2)、という信仰を新たにしています。
・葦の海の渡航は「奴隷から自由」への転換点、ヨルダン川渡河は「流浪から定住」への転換点と読めます。共に、神の契約の民としてのアイデンティティを再確認する瞬間であり、信仰共同体の形成において重要な意味を持ちます。
・どちらの物語も、民自身の力では越えられない障害の前で、神の約束を信じることで新しい道が示されます。これは「神の恵みによる救い」の象徴であり、現代に生きる私たちにとっても、信仰の旅路における困難の意味を問い直す助けとなります。
・ヨシュア記3章と出エジプト記14章は、神の導きによって「越えがたい壁」を乗り越える物語として響き合います。信仰の共同体は、記憶を受け継ぎながら「過去の奇跡」を新しい課題の中で生き直す使命を持っています。現代を生きる私たちもまた、神の約束に信頼し、困難の中で希望と和解の道を探る歩みに招かれているのです。
・この奇跡は、神が困難の中でも道を開いてくださるという信仰の核心を示しています。
イスラエルの民は、荒野の長い旅と多くの試練の末に、神の約束への第一歩を踏み出したのです。
・このヨルダン川渡河とかの出来事は、信仰の共同体に対して「どのように未知の課題や境界線を越えていくのか」という問いを投げかけています。イスラエルの民は自分たちの力では乗り越えられない障害の前で、神の導きを信じて一歩を踏み出しました。その姿は、現代を生きる私たちにとっても、大きな壁や対立に直面した時に、いかに互いを尊重しつつ新しい可能性を模索できるかという課題と重なります。歴史の中で繰り返される争いや断絶を前に、私たちは神の約束を一方的な権利の根拠とするのではなく、いのちの尊厳や共存という普遍的な価値を見出し、そこから和解と平和への一歩を問い直す必要があるのです。

ヨシュアの時代をどのように理解すべきか
・ヨシュア記が記すカナン定住の物語は、神の約束と民の忠誠、そして土地への所有意識が密接に絡み合っています。しかし、現代の視点から見れば、そこには征服・定住・他者との対立という課題も浮かび上がります。
・聖書は神の正義と慈愛、そして悔い改めの物語です。ヨシュアの時代の背景には、
イスラエルの民が自らのアイデンティティを確立し、神への信仰を守るために困難な選択を迫られた事実があります。しかし同時に、カナンの民との争いや土地の所有をめぐる葛藤も生じました。聖書を現代に聴く私たちは、当時の物語を単なる「勝者の視点」からだけではなく、神の御心と人間の限界、そして共存の可能性を問い直すべきです。
・ヨシュア記の物語が示すのは、ただ歴史的な征服や定住の記録に留まらず、神の導きのもとで新しい価値観や共同体が形成されていく過程です。そこには、他者との関係性や共存への問いが常に伴い、信仰が単なる権利の主張から、より広い視野で和解と対話を求める力へと昇華されていきます。現代に生きる私たちは、ヨシュア記を通して、境界線や葛藤を前にした時に何を選択すべきかを考えさせられます。土地や民族への執着だけでなく、神のいのちの尊厳や隣人への思いやりを中心に据え、歴史を超えて続く平和への道筋を探ることが求められているのです。

現代パレスチナ問題とヨシュア記の関連
・現在のパレスチナ問題は、土地・民族・宗教が複雑に絡み合った争いです。イスラエルとパレスチナの双方が歴史的・宗教的アイデンティティや正当性を主張し、悲劇的な対立が
続いています。ヨシュア記の「約束の地」への到達は、現代の土地紛争にも繋がる象徴的なテーマです。
・しかし、聖書の物語は単なる歴史的正当化では決してありません。むしろ、神がすべての人に与えるいのちの尊厳や、和解と赦しへの道を示すものです。イエス・キリストは「平和を実現する人々は、幸いである」(マタイ5:9)、と語り、敵対する者への愛や赦しを教えました。私たちがヨシュア記を読むとき、現在の争いを「神の裁き」や「一方的な権利の主張」と捉えるのではなく、対話と共存、そして神の平和を求める使命として受け止めることが求められます。
・こうした現在の状況において、私たちに問われているのは、異なる立場や文化、歴史的背景を持つ人々と、いかに誠実に向き合い、対話を重ねていけるかということです。聖書が示す「他者との共存」や「赦し」は、現実の問題を直視しつつも、排除や断絶ではなく、和解と新たな関係性の構築へと私たちを導いてくれます。豊かな歴史を持つ地域や民族への敬意を忘れずに、私たち自身も新しい一歩を模索し続けることが、信仰の共同体としての責務であると言えるでしょう。
招詞・マタイによる福音書16章16節「シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた。」
・招詞にマタイによる福音書16章16節を選びました。ご一緒にお読みしたいと思います。
「シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた。」 ありがとうございます。
・ここで注目したいのは、ヨシュア記3章10節に記される「生ける神」という表現と、マタイ16章16節でペトロがイエスを「生ける神の子」と告白した場面です。ヨシュアは「生ける神があなたがたの間におられ」(3:10)、と語り、イスラエルの民に対して、歴史を超えて今もなお働かれる神の臨在を強調しています。この「生ける神」は、単なる遠い過去の存在や理念ではなく、障害を前にした民に具体的に関わり、道を開く働きをなされる神です。
・一方、マタイ16章16節でペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白します。ここでの「生ける神の子」とは、ヨシュア記で語られた「生ける神」そのもののいのちと力を、今やイエス・キリストが体現しているという信仰の表現です。すなわち「生ける神」が歴史の中でイスラエルを導いたように、「生ける神の子」であるイエスは、私たち一人ひとりの人生の旅路に寄り添い、困難や分断、葛藤のただ中で平和と和解をもたらす存在なのです。
・この二つの御言葉は、歴史を超えて響き合い、「生ける神」が時代と場所を越えて民とともに歩み、やがてイエス・キリストにおいて究極の和解といのちの希望を示されるという神の救いのドラマを指し示しています。困難や壁に直面する時、その背後に働く「生ける神」の臨在と、「生ける神の子」の愛と赦しを見出し、現代の私たちもまた神の導きと平和を求めて歩み続けることが求められているのです。
・ヨシュア記とマタイ福音書の両者が示す「生ける神」の臨在は、私たちにとって歴史を語る物語以上の意味を持ちます。それは困難や分断を前にしても、常に新たな始まりへの希望をもたらす神の働きを思い起こさせます。古代のイスラエルの民も、現代を生きる私たちも、個々の課題や社会の複雑な問題に直面する中で、「生ける神」が共におられるという約束に支えられて歩み続けることができます。私たちは過去の出来事を単なる教訓や警告として受け取るのではなく、時代を超えて響く神の声に耳を傾け、いまここで新しい関係と和解を築く勇気を与えられているのです。

信仰の旅路としての「ヨルダン川」
・ヨシュア記3章の奇跡は、神が「渡るべき川」を必ず導いてくださる約束の象徴です。
個人の人生も、教会や社会も、困難や障害に直面することがあります。ヨシュアや
イスラエルの民は、神の言葉に従い、祈りと信仰をもって一歩を踏み出しました。
・私たちもまた、先が見えない不安や、和解の道を探し続ける中で、神の導きに耳を傾けることが大切です。特に現在のパレスチナ問題のような複雑な課題に向き合うとき、ただ過去の物語を反復するのではなく、そこから「平和の架け橋」を築く使命が教会に託されています。
・私たちが人生の歩みにおいて新たな一歩を踏み出すとき、必ずしも道は平坦ではありませんが、神の導きを信頼し続ける姿勢こそが希望となります。ヨシュアと民が「見えない川」を渡ったように、私たちも不安や葛藤を抱えながら、他者との出会いと対話を重ね、和解と平和への道を選び取っていくことが大切です。祈りと忍耐をもって歩む中で、神は必ず新しい道を備え、分断ではなく共生への扉を開いてくださるでしょう。

神の導きと現代へのメッセージ
・ヨシュア記3章が示すように、神は民の歩みを見守り、困難の中でも道を開いてくださいます。今日のパレスチナ問題も、絶望ではなく希望と共存の可能性を信じて祈るべき課題
です。神は争いのただ中に平和への道筋を示し、私たちに隣人愛と赦しの心を求めています。
私たちはヨルダン川を渡るように、恐れや分断を乗り越え、神の約束に従い歩むべきです。その中で、過去の物語と現在の現実を誠実に受けとめ、争いではなく平和を選び取る信仰者としての日々を歩みたいと切に願います。

結び
・「ヨルダン川を渡る」という出来事は、歴史や土地の問題を超えて、神の約束と導き、
そして平和への希望を私たちに示しています。ヨシュアの物語は、現代のパレスチナ問題に対する単なる答えではなく、私たち一人ひとりが祈り、学び、平和の実現に向かう呼びかけです。
・主が与えてくださる希望を信じ、困難の川を渡る勇気と、分断を乗り越える愛を持って
歩み続けましょう。
・ヨシュア記3章の物語が示すように、神が備えてくださる道は、私たちの思いを超えた希望と勇気に満ちています。現代を生きる私たちにとっても、分断や対立を乗り越えるために必要なのは、過去に学びつつも、祈りと誠実な行いの中で平和の架け橋を築く姿勢です。どんな困難が目の前に立ちはだかっても、神の導きに信頼して歩むことで、共生の扉が大きく、そして広く開かれるのです。

 

祈り
・お祈りします。
恵み深い真の命の神さま、
あなたがヨシュアと共に歩まれ、民に約束の地への道を開いてくださったように、私たちの歩みにも豊かな導きと守りを与えてくださることを感謝します。困難の川を前にしたときも、あなたを信じて一歩を踏み出す勇気を私たちにお与えください。
どうか、争いや分断が絶えない現代社会にあっても、あなたの平和を求める心、隣人を愛し赦す心を深く私たちに注いでください。過去の物語から学び、いま自分にできる平和の実現に向かって誠実に歩むことができますように。
あなたの約束の言葉が、私たち一人ひとりの力となり、希望となりますように。主が与えてくださる希望と愛をもって、日々新たに歩み続けることができるよう、私たちを導いてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

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