1.序:招詞─ミカ書6章5節の響き
・「 わが民よ、思い起こすがよい。モアブの王バラクが何をたくらみ/ベオルの子バラムがそれに何と答えたかを。シティムからギルガルまでのことを思い起こし/主の恵みの御業をわきまえるがよい。」(旧約聖書1455,1456)
・おはようございます。篠崎キリスト教会の兄弟姉妹の皆さん、本日の礼拝冒頭の招詞、預言者ミカのこの言葉を心に刻みたいと思います。ミカは神の民に「思い起こすがよい」と呼びかけます。それは、イスラエルの民が直面した絶体絶命の危機の中で、神がいかにして民を守り、導かれたかを忘れないためです。
・この「思い起こす」という営みは、単なる回顧や記憶の作業にとどまりません。神の民としての歩みを振り返ることは、神の恵みと義の御業が過去も現在も、そして未来にもつながっていることを確認し、信仰を新たにすることです。神の御言葉は、今を生きる私たち一人ひとりにも及び、慰めと希望を与えてくださいます。
・私たちは、日々の生活の中で、多くの困難、試練、また予期しない逆境に直面します。そんな時こそ「主の恵みの御業をわきまえる」過去の神の導きを思い起こし、そして今この時も神が共に歩んでくださっていることを信じていきましょう。
シッティムからギルガルに至るまでの出来事、イスラエルの荒野の旅路と神の御業
・「シッティムからギルガルに至るまで」(ミカ書6章5節)は、イスラエルの荒野の旅が最高潮を迎え、約束の地カナンに入る直前の重要な時間と場所を示しています。この期間は、神の恵みと導き、そして民の信仰が大きく問われた出来事に満ちています。
・シッティムは、荒野の旅の終着点で、ヨルダン川の東側、モアブの平野に位置し、カナン侵入直前のイスラエルの宿営地でした(民数記25章、ヨシュア記2章1節)。
・ここで民はバアル・ペオルの事件(民数記25章)を経験します。これは、イスラエルの一部がモアブの娘たちと交わり、偶像礼拝に陥った深刻な出来事です。神の怒りが下りますが、ビネハス(アロンの孫)の行動によって疫病が止められます。
・この地から、ヨシュアの指導のもと、約束の地に向けて最後の準備がなされます。
ヨルダン川渡河(とか)の奇跡
・ヨシュア記3章では、イスラエルの民がシッティムから出発し、ヨルダン川の岸辺に宿営します。
・神の指示に従い、契約の箱を担いだ祭司たちが先導し、川の流れがせき止められるという奇跡が起こります。民は乾いた地面を歩いてヨルダン川を渡ります(ヨシュア記3章15-17節)。
・この出来事は、出エジプト時の紅海渡渉(としょう)と並ぶ「救いの記念」として語り継がれています。
・ギルガルは、新たな出発の地。ヨルダン川を渡った後、民が最初に宿営した場所(ヨシュア記4章19節)です。
・ヨシュアは各部族から一つずつ石を取り、ヨルダン川から取り出した十二の石で記念碑を築きます。これは神の力強い御業を後世に伝えるためでした(ヨシュア記4章20-24節)。
・ギルガルでは、荒野で途絶えていた割礼が再び行われ(ヨシュア記5章2-9節)、過越の祭りも祝われます。これにより、エジプトの「恥」が取り除かれ、民は新たな民として約束の地で出発します。
・シッティムからギルガルに至る出来事は、イスラエルの民が過去の罪と向き合いながら、神の憐れみと導きによって新しい歩みを始める大きな転換点でした。神の奇跡的な介入、契約の更新、そして民のアイデンティティの再確認は、私たちにも信仰を新たにして歩む力を与えてくれます。
Ⅰ. バラクの策略と神のご計画
・民数記23章は、イスラエルの民が約束の地カナンに進む中、ヨルダン川の向こう岸、モアブの地にさしかかった時の出来事を描いています。イスラエルの民は、エジプトを脱出し、荒野を40年さまよった末、ついにカナンの入り口に到着しました。その勢力と繁栄、そして神の驚くべき導きを目撃したモアブの王バラクは、恐れと不安に捉えられました。
・聖書はしばしば、人間の恐れから生まれる策略や計画が、神のご計画の前では無力であることを描きます。バラクは、自国の存亡を懸けて異邦の預言者バラムを招き、イスラエルに呪いをかけさせようと画策しました。ここには、人間の限界や、自分の力で乗り越えられない現実の中で、神の民に嫉妬し、恐れる異邦の王の姿があります。
・しかし神は、バラムという異邦の預言者を用いてバラクの策略を超え、むしろ祝福の言葉をイスラエルに与えるのです。これは、神の主権とご計画が、いかに人の悪しき意図や策謀(さくぼう)をも超えて働くかを示しています。
・バラムは決して聖人でも、完全な信仰者でもありません。彼は報酬と名誉に心を動かされつつも、神の啓示には逆らうことができませんでした。民数記22章では、バラムが主のみ使いによって進路を阻まれる場面が描かれています。彼のろばが突然言葉を発し、バラムが神の計画を悟る場面は、神の強い介入と人間の限界を象徴しています。
・バラムはバラクに対して、「 主がわたしの口に授けること、わたしはそれだけを忠実に告げるのです。」と明言します(23:12)。この従順の態度は、私たちの信仰生活にも大きな教訓を与えます。誘惑や外的な圧力があっても、私たちは何よりも神の御心に従うことが求められています。
Ⅱ.犠牲と祈りの意味としての祭壇の準備
・バラムはバラクに命じて、七つの祭壇を築き、そこに雄牛と雄羊を一匹ずつ捧げさせます(23:1-2)。「七」という数字は聖書において完全さや神聖さを象徴しています。バラムは、形式的な祭儀を通じて神の啓示を求め、祈りの態度をもって主の御心を聞こうとします。
私たちも、人生に困難や敵意が押し寄せるとき、どこに立脚点を置くべきでしょうか。バラムが祭壇を築いたように、私たちも自らの内に「祈りの祭壇」を築き、日々神に立ち返ることが大切です。
・詩篇50篇14-15節にはこうあります。「 告白を神へのいけにえとしてささげ/いと高き神に満願の献げ物をせよ。 それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって/お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」(旧約聖書883,884P)
・困難の只中で祈り、神の御心を求める時、主ご自身が導いてくださいます。
宗教的な儀式に意味があるのは、私たちの心が神に向かっているときです。形式や慣習の中だけにとどまらず、本当に神との関係の中で、祈りと献身の態度を新たにしていきたいと思います。
Ⅲ. 神の主権─呪いを祝福に変える御力
・バラムは、バラクの願いを受けてイスラエルを呪おうとしますが、神の霊が彼の上に臨み、口から出たのは呪いではなく祝福の言葉でした(23:5,8~10)。「 神が呪いをかけぬものに/どうしてわたしが呪いをかけられよう。主がののしらぬものを/どうしてわたしがののしれよう。」(23:8)
・この言葉には、神の絶対的な主権と、そのご計画の確かさが語られています。いかに人間が悪意をもって策略をめぐらせても、神はそのすべてを祝福へと変えてくださいます。ローマ8章28節「 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(新約285P)
・バラムの第一の託宣は、イスラエルが他の国々と異なる「特別な民」として神に選ばれていることを高らかに宣言しました。「 わたしは岩山の頂から彼らを見/丘の上から彼らを見渡す。見よ、これは独り離れて住む民/自分を諸国の民のうちに数えない。」(23:9)
・私たちもまた、神の目に尊い者とされています。ペトロの第一の手紙2章9節「 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」(新約430P)
・神はご自身の民を特別に選び、守り、祝福してくださいます。
Ⅳ. 神の民のアイデンティティー数や力でなく、神の約束に立つ
・イスラエルの民は、決して人口や武力、目に見える資源によって他国と並ぶ存在ではありませんでした。しかし、神は彼らをご自身の特別な民として選び、その歩みに約束を与えてくださいました。バラムの第一の託宣でも、「 わたしは岩山の頂から彼らを見/丘の上から彼らを見渡す。見よ、これは独り離れて住む民/自分を諸国の民のうちに数えない。」(23:9)と語られるように、神の民は数や力に依らず、神の選びと契約に根ざしたアイデンティティを持っています。
・新約聖書でも、「 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(ローマ8:31)とあるように、信仰者の真の強さは、外的な状況や評価ではなく、神が共におられるという約束の確かさにあります。困難の中でも、私たちは神の約束を信じ、恐れや不安に左右されないアイデンティティを持って歩むことが求められています。
Ⅴ. バラムの従順─神の御言葉を語る者の姿勢
・バラムはバラクから繰り返しイスラエルを呪うよう求められましたが、彼は終始「 主がわたしの口に授けること、わたしはそれだけを忠実に告げるのです。」(23:9)との一貫した姿勢を貫きました。バラムの従順は、たとえ権力者の期待や圧力があったとしても、神の御言葉に対する絶対的な忠誠と畏れを示しています。
・神の言葉を託された者は、自己の利益や周囲の評価に動かされず、ただ神の真理を証しする僕でなければなりません。ここに、現代の私たちにも通じる霊的な原則があります。日々の歩みや選択の中で、世間の声や自分の思いではなく、神の御声に耳を傾け、従順に応答する者でありたいと願います。
・主の御心を第一にすることを選び取りましょう。イエス・キリストは荒野の試みの中で「 人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ4:4)と宣言されました。
Ⅵ. ミカ書6章5節が示すもの─主の正義と恵みの記憶
・本日の招詞にミカ書6章5節を選びました。皆さんと共にお読みしたいと思います。
「 わが民よ、思い起こすがよい。モアブの王バラクが何をたくらみ/ベオルの子バラムがそれに何と答えたかを。シティムからギルガルまでのことを思い起こし/主の恵みの御業をわきまえるがよい。」(旧約聖書1455,1456) ありがとうございます。
・ミカは、「主の恵みの御業をわきまえるがよい。」と私たちに呼びかけています。モアブの王バラクとベオルの子バラムの物語は、人間の悪意や策略の只中にあっても、神の正義と恵みが確実に現れることを証ししています。
・私たちが人生の荒野を歩むとき、不条理や理解しがたい現実に直面したとき、主の御業を思い起こすことは大きな慰めと希望となります。詩篇103篇2節「 わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。」
・神の義は、私たちの思いを超え、時には敵さえも用いて、最終的な祝福をもたらします。神の恵みの記憶を持つことは、試練の中にあっても希望を見失わず、感謝と信仰をもって歩む力となります。
Ⅶ. 現代の私たちへのメッセージ─呪いをも祝福に変える神の愛
・バラムによるイスラエルの祝福は、古代の物語でありながら、現代を生きる私たちにも豊かな示唆を与えています。神は、敵の呪いさえも祝福へと変えてくださる主です。ヨセフの物語では、兄たちの悪意によってエジプトに売られながらも、ヨセフは「 あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」(創世記50:20)と告白しています。
・私たちの人生にも、思いがけない逆境や他者の悪意、困難が訪れるかもしれません。しかし、そのすべての上に、神のご計画と愛が働いています。どんな状況にあっても神を信頼し、キリストの十字架と死、そして復活の恵みに立つとき、呪いは祝福へと変えられます。
・また、神の民としてのアイデンティティは、外から与えられる評価や状況によってではなく、神の選びと約束の中にあります。イザヤ書43章1節「 ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」
結び─神の御言葉に生きる祝福の道
・最後にもう一度、バラムの物語とミカ書6章5節の御言葉を心に刻みましょう。神の御言葉は、いかなる時代、いかなる状況にあっても、私たちの歩みを導き、守り、祝福してくださいます。
・今日、神の民として集う一人ひとりが、どんな困難や逆風の中でも、主の御言葉に従い、主の祝福の中を歩んでいくことができますように。私たちの人生の歩みが、神の正義と恵みの証しとなり、世に光を放つものとなることを祈ります。
お祈りします。
恵み深い真の命の神のみ名を賛美します。
神様、あなたが私たち一人ひとりを選び、導き、大いなる祝福のうちに置いてくださっていることを心から感謝いたします。
たとえ困難や敵意に囲まれても、あなたの御手が私たちを守り、呪いを祝福に変えてくださることを信じます。どうか、日々の歩みの中で、あなたの御言葉に従うことができますように。お導き下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。