1.キリスト者と政治
・パウロは「人は皆、上に立つ権威に従うべきです」と勧める。上に立つ権威、国家や行政は神により立てられ、神の行為を代行する者だからだ。
-ローマ13:1-2「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう」。
・国家の役割は、地上において、神の僕として行為することだ。だから従いなさいとパウロは語る。
-ローマ13:4「権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです」。
・「キリスト者は世にあって神と共に生きる」。キリスト者は世のために尽くすという使命を持ってこの世に住む。その時、良き市民としての義務を果たすのは当然ではないかとパウロは言う。
-ローマ13:5-7「怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」。
・しかし、国家が神の委託に従わず、獣となった時、私たちはどうすべきか。国家が命令するのであれば、不法な戦争でも従うべきなのだろうか。やがてローマ帝国は皇帝礼拝を強要し、従わない者は弾圧するようになった。その時も従うべきなのか、人々は悩んだ。ヨハネ黙示録時代の人々は神の審判を求めた。
-ヨハネ黙示録19:20-21「獣は捕らえられ、また、獣の前でしるしを行った偽預言者も、一緒に捕らえられた。このしるしによって、獣の刻印を受けた者や、獣の像を拝んでいた者どもは、惑わされていたのであった。獣と偽預言者の両者は、生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。残りの者どもは、馬に乗っている方の口から出ている剣で殺され、すべての鳥は、彼らの肉を飽きるほど食べた」。
2.愛の掟
・世に対するキリスト者の考え方の基本は愛である。「愛は隣人に悪を行なわない。悪に対して善で対抗せよ」である。キング牧師の生き方もそうであった。彼は黒人差別を行う白人を敵ではなく隣人と考えた。
-ローマ13:8-10「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです・・・どんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」。
・パウロは言う「救いは近づいている。終末は近い。だから、緊張して、朝を迎えようではないか」。終末信仰に生きる時、何が大事で、何がそうでないかが明らかになる。世の在り方もまた相対化される。
-ローマ13:11-12「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、私たちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」。
・初代教会は終末信仰に生きた。私たちも「必ず死ぬ」存在であり、終末の生き方が大事だ。死が破滅だと考える人はこの世にいる間は精一杯楽しもうとする。しかし、それは愚かな金持ちの生き方だ。
-ルカ12:19-21「『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』。しかし神は『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、一体だれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
・私たちは終末信仰に生きる。死後、神の前に出て、地上でどのように生きたかを神の前に報告する。現在をどう生きるかが大事なものになる。
-マタイ25:31-33「人の子は・・・その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」。
・私たちはバプテスマを通してキリストを着た。キリストを着た者としての生き方をしよう。
-ローマ13:13-14「日中を歩むように品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いと妬みを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして肉に心を用いてはなりません」。
3.歴史の中でローマ13章を考える
・ローマ13章は「キリスト者と政治」について、後世の社会に大きな影響を与えた。パウロは紀元58年頃、ローマ帝国の首都にいるキリスト者たちに手紙を書き、その中で「上に立つ権威に従う」ように勧めた。世の権威は神によって立てられたものであり、支配者は世の秩序を保つために神から権威を与えられているのだから、「上に立つ権威に従いなさい」と勧める。
・具体的にはローマ帝国とその秩序に従い、「納めるべき税は納め、果たすべき義務は果たしなさい」と語る。この言葉の背景には、当時広がっていた自由に対する誤った考え方がある。福音はキリスト者の自由を説いたが、この自由を誤解する人々がいた。「自分たちは自由だ。だからもうこの世の秩序に従う必要はない」。ある人たちは国家からの自由を主張して、税や使役の支払を拒否するようになった。パウロは「キリストが与えて下さった自由はそのようなものではない。あなたがたは市民としての義務を果たしなさい」と人々を戒めた。
・初代教会の人々は、パウロの使信を受け入れた。紀元64年、ネロによるキリスト教迫害が始まった時、人々はパウロの言葉に従い、抵抗することなく殉教して行った。迫害は250年間続いた。しかし、キリスト教はやがてローマ帝国を征服し、ローマの国教となって行く。支配側に立った時、教会はローマ13章の解釈を根本的に変えた。教会はローマ13章を用いて教えた「政府は神により立てられ、全てのキリスト者は自分たちの政府に従うべきであり、国家の秩序を守るためであれば死刑も戦争も許される」と。この考え方がその後も継承され、国家に対する絶対服従を教えるものとしてローマ13章が用いられて行った。
・宗教改革者ルターも国家による秩序維持について従来の考え方を継承した。そのため近代に至っても、ローマ13章は国家に対するキリスト者のあり方の基本テキストとして用いられていく。ローマ13章の解釈が大きく揺らいだのは、1933年にナチスがドイツの政権につき、官憲として服従を要求した時である。多くの教会はルターの立場を継承し、ヒトラー政権を神の権威の基に成立した合法的政権として受け入れていく。その中で、改革派教会は「国家が神の委託に正しく応えていない場合、キリスト者は良心を持って抵抗すべきである」ことを主張し(バルメン宣言)、ナチスとの武力を含めた戦いを始める。
-バルメン宣言第五テーゼ「教会は、神がそれによって一切のものを支えたもう御言葉の力に信頼し、服従する。国家がその特別の委託をこえて、人間生活の唯一にして全体的な秩序となり、したがって教会の使命をも果たすべきであるとか、そのようなことが可能であるとかいうような誤った教えを、われわれは退ける。教会がその特別の委託をこえて、国家的性格、国家的課題、国家的価値を獲得し、そのことによってみずから国家の一機関となるべきであるとか、そのようなことが可能であるとかいうような誤った教えを、われわれは退ける。」
・キリスト者は社会の中で生きる。国家が戦争に参加するように求めた時、どうすべきかが問われる場合が出てくる。現在のアメリカでは多くのキリスト者がアフガニスタンやイラクで兵士として徴兵され、死んで行く。しかしキリスト者はこのような誤った常識を拒否する。
-グランド・ゼロからの祈り「復讐を求める合唱の中で、『敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい』と促されたイエスの御言葉に聞くことが出来ますように。キリストは全ての人のために贖いとして御自身を捧げられました。キリストはアフガニスタンの子供や女や男のために死なれました。神はアフガニスタンの人々が空爆で死ぬことを望んでおられません。国は間違っています。神様、為政者のこの悪を善に変えて下さい」(「グランド・ゼロからの祈り」、ジェームズ・マグロー、日本キリスト教団出版局)。
・戦争当事者の苦悩は大きい。ウクライナに住む若者は語る。「この2年半、ロシアもウクライナも犠牲者を出し続けるだけで何も生み出せていない。この戦争は無意味だ」。ウクライナ南部のザポロジエに住む23歳男性は語る。「戦いはいつまで続くのか、いら立ちは募る。2年後、まだ戦争が続いていたら軍に徴兵されて死んでいるかもしれない。正直戦争なんて行きたくない。僕は人を殺したくない。ゼレンスキー大統領が『奴隷として生きることよりも、自由のために戦うことを選ぶ』と言っていたことを覚えている。戦争を美化するのは良くない。だって、強制的に戦闘にかり出されて死んだら、それは、自由のために死ぬのではなく、ウクライナの奴隷として死ぬことなのじゃないか」。ウクライナの15歳以上の若者の3割以上がうつ病や心的外傷後ストレス障害(PTSD)を患っている可能性があるという(2024・09.04毎日新聞)。私たちはどうしたらよいのだろうか。