江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年6月5日祈祷会(ローマの信徒への手紙6:1-14、バプテスマ、罪に死にキリストに生きる)

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1.罪に死にキリストに生きる

 

・パウロは5章後半で「律法の役割は罪を明らかにすることだ」と述べ、「罪の増したところには恵みもあふれる」と語った。

-ローマ5:29「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、私たちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」

・しかし反対者は批判する「罪が消えるから何をしても良い、そうであればしたいことをしても許されるのか」。その人々にパウロは「決してそうではない」と述べる。

-ローマ6:1-2「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中に留まるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。」

・同じ主題が6:15にも繰り返されている。罪は悪であり、絶対に斥けなければならない。

-ローマ6:15「では、どうなのか。私たちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。」

・パウロは「罪からの解放」とは、罪自体が効力を失うことによって生じるのではなく、逆に私たち自身が「罪に対して死ぬ」ことによって生じると説く。そのことの象徴が洗礼(バプテスマ)である。罪を悔い、新しい命を望む者は、洗礼を受ける。洗礼(バプテスマ)の語源はバプテゾー(浸す)である。水の中に沈む時キリストと共に古き自分に死に、水から出る時キリストと共に復活する。バプテスマを通して、私たちはこの世に死に、キリストにあって生きる者となる。

-ローマ6:3-5「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。私たちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」。

・「罪に対して死んだ者が以前と同じ罪の生活を続けられようか、出来るはずがないではないか」とパウロは言う。死んだ者はもはや訴追されない。

―ローマ6:6-8「私たちの、古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は罪から解放されています。私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」。

 

2.律法の下ではなく恵みの下に生きる

 

・パウロは「キリストの生と死がキリスト者の生活の原点である」と説く。

-ローマ6:9-11「そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」

・それにも関らず、私たちの日常生活は前と変わらない。世の人々はいう「バプテスマを受けて何が変わったのか。あなたのどこが救われたのか」。バプテスマを受けて私たちは原罪から救われたが、肉の体を持つ限り、個々の罪を犯し続けていく。義とされたが体は元のままだから、肉の欲はなお私たちを襲う。しかし、キリストが肉の欲に勝たれたように、私たちも既に勝利の中にある。

-ローマ6:12-14「あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。罪はもはやあなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」。

・ここで問題になるのは、罪が赦された後、私たちが依然と同じ状態のままでいてはいけないということだ。罪の赦しは聖化、あるいは清めを伴わなければいけない。バプテスマを受けて、聖化は始まっている。肉の体は日々衰え、霊の体は日々成長している。私たちの生涯とは「約束の地」を目指してこの世を旅する寄留人のようなものだ。

-第二コリント4:16「だから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの『外なる人』は衰えていくとしても、私たちの『内なる人』は日々新たにされていきます」。

・クリスチャンの生活は、家庭生活・職業生活・教会生活(信仰生活)のトライアングルの中で営まれている。通常、私たちは家庭生活、職業生活という個人の生活を基礎に置き、その上に神との交わり、教会生活を立てる。だから家庭生活ないし職業生活が不安定化すれば、教会生活も揺らぐ。しかし、聖書が私たちに語るのは、人生の基礎を教会生活、神との関係に置きなさいということだ。神との平和が確立すれば、人との平和も確立する。この世の問題(家庭生活、職業生活)は父なる神に委ね、「まず神の国と神の義を求めなさい、今この時を生かされている意味を考えなさい」と言われている。

 

3.バプテスマの意味

 

・世の現実の中では、死の力が私たちを捕らえ、支配している。しかし、キリストの復活は、死に打ち勝つまったく別な力が、この宇宙に存在することを啓示する。パウロがローマ6章前半で説くのは、バプテスマ(洗礼)による「霊的死」からの「霊的復活」なのである。私たちの罪にまみれた自我はバプテスマ(洗礼)によって水の中で死んで葬られ、水の中から立ち上がり新しい命に復活する。その時、私たちは、罪による死の支配から解放され、永遠の命を得る。この喜びと希望をパウロは語る。

・神学者・喜田川信はその著『約束の言葉の信仰』の中で「洗礼」について語る。「洗礼を受けたからといって私の行いがすっかり変わってしまうとか、魔術的に罪が消されてしまうとか起こるわけではありません。では単に洗礼はキリスト信者になったというしるしなのでしょうか。そうではありません。パウロが言うように、洗礼において、私たちがキリストと共に死に、キリストと共に蘇る、罪と律法の世界から自由と生命と希望の世界に移されるという出来事が起こったことを象徴的に示す行為なのです。」

・同じく神学者・北森嘉蔵は、その著『ローマ書講話』でバプテスマについて述べる。「バプテスマというのはキリストと共に死ぬという象徴として、水の中にいっぺん体がすっかり入るのです。けれども、キリストのよみがえりを象徴するかのように水から引き上げられる。引き上げられるということは蘇るということ、これは改変されるということです。新しい命に変えられるということです。」

・スコット・マクナイトは「福音の再発見―なぜ“救われた”人たちが教会を去ってしまうのか」という本の中で語る。「福音が語られ、救われた人々が起こされているはずなのに、教会の命が衰弱し、多くの人が教会を離れていく現実がある。なぜ多くの受洗者が、バプテスマ後数年を経て教会を去ってしまうのか」。イエスは「神の国は来た」との福音を語られ、多くの人が福音を信じて、神の国の建設のために働いていった。ところが16世紀に宗教改革がなされ、信仰義認が説かれ、信仰があれば救われるとの理解が広がって行き、そこに福音に対する誤解が生じた、救いが個人化してしまった「罪びとはいかにして救われるのかが教会の中心課題となり、福音が救いのための手段となってしまった」。そしてその救いとは、「死後に天国へ行く」ことと誤解された。

・しかし本来のバプテスマの意味は、「イエスの弟子になる」決意である。パウロは語る「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました」(ローマ6:3-4a)。そして「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです」(6:4b)。バプテスマを受ける最大の意味は、「キリストの弟子として今をどう生きるか」なのに、死後の救いを強調することによって、「今をどう生きるか」の視点が欠落してしまった。だから教会に行く意味がない、なぜならばすでに救われたからだと多くの人は誤解してしまった。ここに現代の教会の衰退の原因があると著者は強調する。

・新しい命に生きる生き方は「新生」と呼ばれる。それは今まで自分中心で生きていた人生が、「隣人と共に生きる」あり方に変えられて行くことだ。「あなたがたは、私が空腹であった時私に食べる物を与え、私が渇いていた時私に飲ませ、私が旅人であった時私に宿を貸し、私が裸の時私に着る物を与え、私が病気をした時私を見舞い、私が牢にいた時私をたずねてくれた」(マタイ25:35-36、新改訳)。

・「隣人と共に生きる」ためには、一度古い自分に死ななければならない。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)。「一粒の麦のままに生きる」とは、自分の姿を残す生き方、自己実現を目指す生き方だ。その生き方は多くの実を結ぶことはない。他方、「一粒の麦として死ぬ」生き方は、イエスが十字架で死ぬことによって多くの命が生まれて行ったように、私たちもこの世に対して一度死ぬ生き方だ。「人は生きているのではなく、生かされている」、そのことに気づいた時、人は新しく生れ、神の国建設のための働き人にされていく。

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