1.偶像礼拝の禁止
・十戒の第一の掟は「あなたは私をおいて他に神があってはならない」である。偶像礼拝は最大の罪、それを行った者は殺して共同体から排除せよと命じられる。
-申命記13:2-6「預言者や夢占いをする者があなたたちの中に現れ・・・『あなたの知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか』と誘われても、その預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない・・・その預言者や夢占いをする者は処刑されねばならない。」
・「預言者(ナビ)が、偶像礼拝にあなたを誘うことがある。その時には、その者の声に従うな。預言者でさえ、民の聞きたがる事を預言したがり、その時、彼は偽預言者となる」。捕囚の早期解消を唱えた預言者ハナンヤは一例である。彼は民が求める言葉を発したが、それは神から聞いたものではなかった。
-エレミヤ28:10-11「預言者ハナンヤは、預言者エレミヤの首から軛をはずして打ち砕いた。そして、ハナンヤは民すべての前で言った『主はこう言われる。私はこのように、二年のうちに、あらゆる国々の首にはめられているバビロンの王ネブカドネツァルの軛を打ち砕く』」。
・偶像礼拝は唯一の神に忠誠を尽くさず、他の神に惑わされることだ。夫ある妻は他の男に心惹かれてはいけない。妻ある夫は他の女に惑わされてはいけない。夫婦の契約を交わした以上、それを守り、他を振り向かない。それを破る時、死が臨む。
-申命記13:4-5「あなたたちの神、主はあなたたちを試し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたたちの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである。あなたたちは、あなたたちの神、主に従い、これを畏れ、その戒めを守り、御声を聞き、これに仕え、これにつき従わねばならない」。
・誘惑の多くは家族や親しい者から来る。そのような場合、悪を取り除くために「誘惑者を殺せ」と命じられる。厳しい戒めだ。
-申命記13:7-10「同じ母の子である兄弟、息子、娘、愛する妻、あるいは親友に『あなたも先祖も知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか』とひそかに誘われても、・・・誘惑する者に同調して耳を貸したり、憐れみの目を注いで同情したり、かばったりしてはならない。このような者は必ず殺さねばならない。彼を殺すには、まずあなたが手を下し、次に、民が皆それに続く」。
・一つの町が偶像礼拝の罪を犯したら、町全体を滅ぼし尽せと命じられる。
-申命記13:15-16「それが確かな事実であり、そのようないとうべき事があなたたちの中で行われたのであれば、その町の住民を剣にかけて殺し、町もそこにあるすべてのものも滅ぼし尽くし、家畜も剣にかけねばならない」。
2.今日の私たちはこれをどう受取るか
・新約においても、どうしても赦されない罪として、この偶像礼拝があげられている。
-マルコ3:28-30「『人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う』。イエスがこう言われたのは『彼は汚れた霊に取りつかれている』と人々が言っていたからである」。
・聖霊を冒涜する罪とは、神を神としない罪だ。パウロはコリント教会を惑わす巡回伝道者たちを、邪な者(ベリアル)、偽使徒(偽預言者)、偶像礼拝者とさえ呼び、彼らとの関係を断ち切るように求める。
-第二コリ6:14-16「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いなくびきにつながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。神の神殿と偶像にどんな一致がありますか」。
・イエスが言われたパリサイ人のパン種、パウロが言う不純なパン種も同じ意味であろう。
-ガラテア5:7-10「あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったい誰が邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、私は主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます」。
・偶像礼拝の危険があれば、それを取り除け。そうしないと悪が共同体全体を腐敗させる。現代の教会も、このことの意味をもう一度考える必要があろう(開かれた教会における悪の排除の問題)。
-第一コリ5:1-7「あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです・・・こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか・・・わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、私たちの過越の小羊として屠られたからです」。
3.偶像礼拝がイスラエルを滅亡させた
・エゼキエルはその第6章で「偶像礼拝」こそが、イスラエルを滅ぼした元凶であると述べる。エゼキエルは1,000kmも離れたイスラエルの山に向かって預言することを命じられる。「人々がその山々で偶像礼拝の罪を起したことにこそ、エルサレム破壊の理由がある」ことを示すためだ。
-エゼキエル6:1-3「顔をイスラエルの山々に向け、それに向かって預言して言え。イスラエルの山々よ、主なる神の言葉を聞け。主なる神は、山と丘、川と谷に向かって言われる。私は剣をお前たちに臨ませ、聖なる高台を破壊する」。
・カナンの人々は高台や丘の上に祭壇を設けて偶像の神々を拝んでいた。そこでは豊穣の神々に動物や人間の犠牲が捧げられ、神殿娼婦たちとの性的な交わりさえも神事とされていた。イスラエルの民はこの偶像礼拝に惹かれて行った。日本の伊勢神宮にも郊外に遊郭があり、遊女は1000人を超えていたという。
-イザヤ57:7-8「高い山の上に、お前は床を設け、上って生贄を捧げた。お前は扉と門柱の後ろにお前の像を置き、私に背いて裸になり、床を広くしてそこに上り、彼らと契約を交わし、床を共にすることを愛し、そのしるしを見た」。
・預言者は繰り返し偶像礼拝の罪を断じ、為政者も禁じたが、根絶できなかった。ヨシヤ王の宗教改革の記事によれば、エルサレム神殿の中にさえバアルやアシェラが拝まれていた。
-列王記下23:4「王は大祭司ヒルキヤと次席祭司たち、入り口を守る者たちに命じて、主の神殿からバアルやアシェラや天の万象のために造られた祭具類をすべて運び出させた。彼はそれをエルサレムの外、キドロンの野で焼き払わせた」。
・エゼキエルは、高台は破壊されるが、それは人間の改革によってではなく、全地に及ぶ外敵の破壊活動によってしかならないことを見通している。ここにエゼキエル書の主題「お前たちは私が主であることを知るようになる」が出てくる。人々は山々に投げ捨てられた偶像礼拝者の死体を見て、「主を知る」。
-エゼキエル6:4-7「祭壇は荒れ果て、香炉台は砕かれる。私は、お前たちの中の殺された者を、偶像の前に投げ捨てる。私はイスラエルの人々の死体をその偶像の前に置き、お前たちの骨を祭壇の周りにまき散らす。お前たちの住む所はどこにおいても、町は廃虚とされ、聖なる高台は荒らされる。祭壇も廃虚とされて荒らされ、偶像は粉々に砕かれ、こうしてお前たちの作ったものは一掃される。また、殺された者がお前たちの真ん中に倒れる。そのとき、お前たちは私が主であることを知るようになる」。
・偶像礼拝の本質は「神を自分の従僕にする」ことだ。自分を超える存在を認めない時、人は自分が神になり、敵対者を排除していく。歴史上、血の粛清を行った独裁者たちは(ヒトラー、スターリン、毛沢東等)、みな無神論から出ている。無神論の怖さは自己自身が道徳になることである。
-近藤剛・神の探求から「フォイエルバッハは語った『人間は人間にとって神である』。カール・マルクスは語った『宗教は民衆の阿片である』。ジグムンド・フロイトは語った『宗教は幻想であり、強迫神経症のようなものだ』。リチャード・ドーキンスは語った『神は妄想である』。神の掟から解放された自我は肥大し、人は自らを追い求めるエゴイストとなり、やがては人間自身が神になろうとする。ニーチェは『神は死んだ』と宣言した。神が虚構であるとすれば、人間の価値判断の基準も虚構になる。そこにおいては、何が善であり、何が悪であるのか、それを基礎づける絶対的な根拠が失われた。絶対性を失った倫理は相対化され、『人を殺すのが何故悪いのか』という問いにさえ、答えを無くしてしまう」。
・偶像礼拝の本質は「神を自分の従僕にする」ことであり、偶像礼拝は人間の欲望に基礎を置く。神なしの世界は恐ろしいことを認識すべきである。
-神の探求から「ニーチェが我々に教えたことは『人が生まれてきたことに何ら目的はなく、生きていることに何ら意味はなく、私たちの存在には何らの価値も与えられず、私たちの生存には必然性はない』ということだ。それが現実の在り方であるとすれば、私たちにとっては非常に過酷なことだ。私たちは、この事実に耐えることができるか。あるいは、この事実を前にして、健全な生を全うすることができるのか」。