1.良い羊飼いの譬え
・ヨハネ福音書を読み続けています。ヨハネはイエスの降誕物語を象徴的に記します「言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ1:4)。「イエスの恵みと真理」にふれた人々は教会を形成していきますが、社会の多数派のユダヤ教徒たちはイエスが「神から来られた」ことを認めません。ヨハネは書きます「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(1:10-11)。信じない人々、イエスを認めない多数派の人々は、イエスを信じたキリスト者を異端として迫害し、会堂から追放し、捕らえて殺すことさえしました。ヨハネ福音書はユダヤ教からの激しい迫害の中で書かれています。そのような迫害者に対し、ヨハネは、「イエスこそ本当の羊飼いである」と主張します。それが今日読みます「良い羊飼いの譬え」の場面です。
・10章から展開される良い羊飼いの譬えは、9章からの繫がりの中にあります。9章では生まれつきの盲人がイエスによって目の障害を癒されますが、その癒された日が安息日であったため、ファリサイ派の人々は「イエスは、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」として、目が癒やされた人に「イエスを否定する」ように迫ります(9:16)。それに対して癒やされた人は抗議します「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もお出来にならなかったはずです」(9:32-33)。ファリサイ人たちは彼を会堂から追い出します。
・ファリサイ人たちは盲人の目が癒やされたことを喜ぶのではなく、その日が安息日なのにその掟を破ったと批判しています。その彼らにイエスが語られたのが、良い羊飼いの譬えです。ユダヤ社会の指導者であったファリサイ派の人々は、救いは人間が神から与えられた戒め=律法を守ることによって為されると説きました。そのため、律法の細部に至るまで守ることを求め、律法違反をしないかどうかを監視するようになりました。律法は本来的には「神を愛し、人を愛しなさい」という福音ですが、時代が経つに従い、規定だけが先行するようになっていました。「神を愛するためには一日3回祈らなければならない」、「安息日を守らない者は神を愛さない者だ」等、人間的な思いで、神の戒めが曲げられていき、人々を幸せにするはずの律法が、人々に重荷を負わせるものになっていきました。盲人の目が癒やされるという素晴らしい神の業が為されたのに、それが安息日に為された故に喜ばない人々がそこにいた。
・そのような人々に向かって、イエスはこの譬えを語られています「私は羊の門である。私より前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった」(10:7-8)。パレスチナでは羊が野獣や強盗に襲われるのを防ぐために、夜は石を積んだ囲いの中に羊を休ませます。羊飼いは朝、羊を囲いから連れ出し、牧草地に導いて草を食べさせ、夜は囲いの中に休ませます。他方、泥棒や強盗たちは柵を乗り越えて羊を奪い、これを奪おうとします。イエスは、羊を飼う役割を与えられながら、羊を貪り、弱めるファリサイ人たちを、「盗人であり、強盗である」と批判されています。
・イエスは言われます「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。私が来たのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」(10:10)。社会の指導者であるべきファリサイ人たちが自分たちの利益だけを求めるゆえに、人々が「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」(マタイ9:36)とイエスは批判されたのです。そして言われます「私は良い羊飼である。良い羊飼は、羊のために命を捨てる」(10:11)。雇い人の羊飼い、お金のために羊を預かる者は、狼が来ると羊を捨てて逃げます。羊より自分の事のほうが大事だからです。しかし、良い羊飼い、本当の羊飼いは群れを守るために命がけで戦います。
・イエスは言われました「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(10:15)。良い羊飼いとは「羊のために命を捨てる」者です。荒野では獣が羊を狙い、襲ってきます。羊飼いは杖で獣と戦い、羊を守り、場合によっては命を落とします。良い羊飼いの関心は自分ではなく羊ですから、羊のために命を捨てます。イエスは言われました「私は良い羊飼いである。群れの羊を救うために自ら十字架につく。だから父は私を愛して下さる」(10:17-18)。良い羊飼いとは、群れの羊一匹のために自分の命さえも差し出す者です。だから聖書はイエスを「羊の大牧者」(ヘブル13:20)、あるいは「魂の牧者」(第一ペテロ2:25)と呼びます。
・現代の羊飼いである牧師は教会の群れのために命を捨てなさいと命じられています。しかし、現実の牧師は教会のために、あるいは信徒のために、命を捨てることは出来ず、そのために、羊である信徒が散らされる出来事が生じています。現在、日本の多くの教会は財政的危機を抱えています。信徒が10-20人の小さい教会が多く、そのような教会では信徒の献げる献金の大半が牧師給に消えてしまいます。信徒が10人以下になれば、牧師給を払えないため、教会は無牧、牧師不在になって衰えていきます。バプテスト連盟には316の教会・伝道所がありますが、そのうち66教会は経常献金300万円以下で、無牧になっている場合が多いのが現実です。「イエスは、人々が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(マタイ9:36)とマタイは書きますが、そのような状況が現在、あちらこちらの教会で生じています。どの牧師も自分を雇われ牧師とは考えないし、羊のことを気にかけています。それにもかかわらず、俸給の支払われない教会の牧師を務め続けることは難しい。牧師もまた生活者として自分のことを考える存在だからです。牧師もまた良い羊飼いになれないという限界の中に地上の教会は立てられています。
2.ヨハネ教会の置かれた苦難
・ヨハネの教会はユダヤ教からの迫害の中にありました。「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていた」(9:22)とあります。ヨハネ福音書が書かれたのは紀元90年頃ですが、20年前のユダヤ戦争によって神殿を滅ぼされたユダヤ教はファリサイ派を中心にして再形成され、彼らはキリスト教徒を異端としてユダヤ教会堂から締め出すことを決定していました(シェモネ・エスレ第12祈願「ナザレ人たちと異端の徒を瞬時に滅ぼし給え」)。そのため、ヨハネの教会の中で、会堂から追放される(村八分になる)、あるいは捕らえられることを恐れて、教会から脱落する人たちが出たようです。ヨハネはその人々に「あなたたちが教会から脱落したら残された羊である信徒はどうなるのか。それでは自分自身の利益のために羊を飼う、雇われ羊飼いと同じではないか」と警告しているのです。
・現代の教会分裂の多くは牧師と執事の間の教会運営に関する意見の違いが原因で起こります。多くの場合、その根底には経済問題があります。納得できないとして反牧師の執事たちが教会を出る時、多くの場合、同調した信徒の人も連れて出ます。ヨハネの教会でも、そのような事例があったと推測されますし、私たちの教会でもかつてそのような事がありました。そこでは、教会の本当の牧者(羊飼い)はキリストであり、一人一人がキリストから羊飼いとして使命を託されていることが忘れられています。
・イエスはまた言われます「私には、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(10:16)。「囲いの外にいる羊を探しに行く」。「囲いの外」、神の民=ユダヤ人ではない人々を指すのでしょう。ユダヤ教から迫害を受けていたヨハネの教会が、異邦人伝道に積極的に取り組んでいった事情を背景にした言葉です。その異邦人伝道の結果、私たちの教会がこの日本の地に立てられました。
3.囲いの外にいる羊のために
・囲いの外にいる羊とは誰か、その意味を考えるために、招詞として、ルカ15:4を選びました。次のような言葉です「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」。見失った羊の話はマタイとルカにありますが、両福音書の記事は微妙に異なります。マタイでは教会から迷い出た羊がいたら、九十九匹を安全な所に残して羊を探しに行きなさいとあり、主体はあくまでも迷わない多数派の九十九匹です。ところが、ルカでは取税人や罪人がイエスと食事をすることを批判したファリサイ派の人々に対して、喩えが語られています。つまり、ルカの九十九匹は自分を正しいと批判するファリサイ派の人々で、「九十九匹を野原に残してでも見失った一匹を探しに行く」のです。「野原」とは「荒野」であり、ルカでは「自分は正しいと主張する九十九匹を荒野という危険な場所に残してでも、失われた羊である罪人や取税人を探しに行く」という意味になります。多くの聖書学者はルカの方が原意に近いと考えています。私たちの社会は一匹を見殺しにしても九十九匹を大事にする多数決社会ですが、「あなたたちの間ではそうではないはずだ」、「一匹を大事にするはずだ」とイエスは問われています。
・ここにおいて、「囲いの外に出る」ことの意味が、明らかになります。単に伝道するのではなく、「飼う者のない羊のように弱り果て、倒れている」人たちを、囲いの外に探し出しに行くことです。私たちの社会は「九十九匹が優先され、一匹が切り捨てられる」社会です。社会の中で多くの人々が疎外され、困窮し、排除されています。例えば非正規労働者が働く人全体の4割を占める社会は異常であり、養育費も支払われずに放置されているシングルマザーのお母さんたちは助けが必要です。命からがらで祖国から逃れてきたクルドの人々も救済を求めています。しかし今、特に支援を必要とする方たちは能登地震の被災者の方たちです。住む家を失くし、職を失い、途方に暮れているこの方たちこそ、私たちの隣人です。私たちの教会では被災支援献金を1月だけでなく、2月~3月も継続する方向で検討しています。イエスは言われました「私が飢えていた時に食べさせてほしい、私ののどが渇いていた時に飲ませてほしい、旅をしていた時に宿を貸してほしい、裸の時に着せてほしい、病気の時に見舞ってほしい、牢にいる時に訪ねてほしい」(マタイ25:35-36)。
・キリストが羊のために命を捨てられたように、他の人々のために働く決意をした人たちがいる場所が教会です。そのためには、私たち一人一人が、自分を養わないで、群れを養う牧会者になるように期待されています。皆さんの一人一人が、「良い羊飼いの譬え」が自分たちに向けて語られていることを知った時、この教会は変わって行きます。私たちそれぞれに羊飼いとしての使命が与えられています。私たちの役割は「羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるため」(10:10)に、働くことです。自分はもう羊ではなく羊飼いだ、教会のゲストではなく、ホストだと知ることです。ホストになるとは、洗礼を受けて教会員となり、教会のために働くことです。その決意を皆さんに是非持っていただきたいと思います。