1.新しく生まれるとは何か
・クリスマス礼拝の時を迎えました。今日はヨハネ福音書から御言葉を語らせていただきます。読んでいただいた聖書箇所ヨハネ3:14-21は「ニコデモとイエスの対話」の後半部分です。最初に前半のニコデモ物語を簡単に見ていきます。ヨハネは書きます「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」(ヨハネ2:23)。ユダヤ教の教師で、議員であったニコデモは、イエスの為された病の癒し等の不思議な業を見て、イエスを訪ねます「ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った」(ヨハネ3:1)。ニコデモは言います「ラビ、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」(3:2)。ニコデモはファリサイ派に属し、ユダヤ教の指導者であり、また最高法院の議員でもありました。彼は熱心に神の道を求め、社会的にも尊敬され、生活にも何不自由は無かった。しかし満たされなかった。だから、神の業としか思えない不思議な力を示されたイエスを彼は訪問しました。この人なら、答えを持っているかも知れないと思ったのです。
・しかし、彼がイエスを訪れたのは、昼間ではなく、「夜」でした。最高法院の議員という身分ある者が、とかくの評判のあるイエスを昼間に公然と訪れるわけにはいかない。だから、人目を忍んで、夜、こっそりとイエスを訪ねました。イエスはニコデモを見て、彼の問題がわかりました。彼はまだ地上の地位や栄誉から解放されていなかった。イエスは彼に言われます「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」(3:3)。ニコデモは反論します「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(3:4)。「新たに=アノーセン」という言葉は「上から、神から」の意味を持っています。イエスは霊的再生のことを言われましたが、ニコデモは肉的再生のことを考えています。ですから「もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と疑問を呈します。
・イエスはニコデモの誤解を解くため、霊から生まれることの意味を説明されます「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(3:5-6)。「肉から生まれる」、人間の側の行為や努力では人間の限界を乗り越えることが出来ない。あなたは善行を積み、律法を守るという自分の力で救いを得ようとするから躓くのだ。救いは「霊から」、すなわち命の源である神から生かされることによって来るとイエスは言われます。
・ニコデモは理解できません。イエスは続けて言われます「あなたがたは新たに生まれねばならないとあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆その通りである」(3:7-8)。風も霊もギリシャ語では同じ言葉「プニューマ」です。風は見えませんが、風の働きを音で聞いて、その存在を知ることが出来ます。神の霊も同じで、信じることによって人の心の中に変化と確信が起こる。しかし、ニコデモは理解できず、反論します「どうして、そんなことがありえましょうか」(3:9)。
2.イエスの言葉を通したヨハネの信仰告白がここにある
・イエスとニコデモの対話は10節で終わり、11節から物語後半が始まります。後半部分ではイエスの言葉に合わせて、ヨハネの教会の信仰告白が為されています。11節から突然、「私」という主語が「私たち」に、「あなた」と言う目的語が「あなたがた」に代わります。「私たちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたは私たちの証しを受入れない」(3:11)。「私たち」とはヨハネの教会であり、「あなた方」とは教会を迫害しているユダヤ教徒たちです。ヨハネの教会はユダヤ教の迫害下にありました。キリストの教会は十字架で死んだイエスをメシア(救い主)として信仰します。しかしユダヤ教徒は、処刑された者は神に呪われた者であり(「木にかけられた死体は神に呪われたもの」申命記21:23)、そのような者がメシアであるはずがないと批判していました。それに対するヨハネ教会の反論が11節以下に為されているのです。ヨハネは語ります「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」(3:13-14)。ここに「上げる=ヒュプソオー」が用いられています。
・「モーセが荒れ野で蛇を上げた」、エジプトを脱出したイスラエルの民は、荒野での困難な旅に耐えられず、つぶやき始めます「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。荒れ野で死なせるためか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまう」(民数記21:5)。神はエジプトで奴隷として苦しめられていた民を救うために、モーセを遣わしてイスラエルの民を救出されました。エジプト軍が追ってくると、紅海の奇跡を通して、助けられました。水がなくなると水を与え、食べ物が無くなればマナが与えられました。しかし民のつぶやきは終わりません。そのかたくな民に神は憤られ、炎の蛇を送り、多くの者が死に、民は助けをモーセに求めます。モーセは主に祈り、主はモーセに命じられます「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る」(民数記21:8)。モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げ、蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得たという物語です。
・蛇は人間を苦しめる罪と悪の象徴です。しかし神はその蛇をして人を救うものに変えてくださった。同じように、呪いと死の象徴である十字架も、神が御子を上げる(ヒュプソオー)ことによって、救いの手段となりました。人は十字架上に自己の罪が裁かれているのを見て救われるのだとヨハネは語っているのです。復活によって神の子とされた方が、地上で十字架に死なれたのは何故か、その意義を証しして世に告げ知らせることこそが、ヨハネの教会にとって最も大事なメッセージだったのです。
3.ヨハネの独白が示す福音証言
・16節以下もイエスの言葉ではなく、ヨハネ教会の宣教の言葉です。ヨハネは書きます「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(3:16-17)。「御子を信じる者は一人も滅びない」、神は私たちをどこまでも捜し求めてくださるからです。マタイやルカが描く「一匹の羊をどこまでも捜し求める主人の姿」こそ、イエスの姿そのものです。信じる者を救うためにどこまでも私たちを愛された主は、終にはその命を私たちにお与えになりました。
・ヨハネの手紙は別の形でイエスを証しします「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に示されました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償う生贄として、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(第一ヨハネ4:9-10)。ヨハネは十字架のイエスの中に、「愛の極限」を見ています。十字架に愛の極限を見たものはもう前のような生き方をすることは出来ません。
・ニコデモも「新しく生まれ変わる」ために、イエスの十字架を仰ぐ必要がありました。ニコデモはヨハネ福音書のなかに3回出てきます。最初が今日の個所、2回目は最高法院でのニコデモ(ヨハネ7:45-52)です。イエスの人気が高まり、当局として放置できなくなり、イエスを捕らえて殺すと計画を始めますが、この時、ニコデモは「相手の言い分を聞いてからでなければ、逮捕するのは不当だ」とイエスを弁護します。しかし、「あなたはイエスの仲間なのか」と問われて黙り込みます。まだ、ニコデモは新しく生まれていません。
・今日の招詞にヨハネ19:39-40を選びました。ニコデモが3度目に登場する箇所です。「そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ」。3度目のニコデモは、最高法院が死刑を宣告し、ローマ軍によって処刑されたイエスの遺体引取りを当局に申し入れ、公然とイエスを埋葬しています。「ユダヤ当局が死刑を宣告し、処刑された人間の遺体を引き取って埋葬する」、これは勇気のいる行為です。議員という高い地位や律法の教師という名誉が失われる危険性があったからです。
・紀元200年頃に書かれたとされる新約偽典に、「ニコデモの告白」という資料があります。誰がどのようにして作成したかは不明ですが、その中にニコデモの気持ちを代弁している部分があります。「(イエスの十字架の日)、私は隠れて遠くから彼の十字架の姿を見に行った。彼が死んだ後、民衆は過越祭が始まると縁起が悪いからといって、彼の死体を共同墓地の穴の中に投げ捨てようとしているのがわかった。私は、これだけは見過ごせないと思った。彼は未来永劫にわたって呪いから浮かばれないのだ。私は前から同じように彼に惹かれていた同僚議員のアリマタヤのヨセフを誘って彼の死体を貰い受けてきた。(中略)既に変形し硬直した体を運ぶのは辛かった。それを持ってきた没薬と沈香で覆い、最後は亜麻布で包んで差し上げた。ヨセフも私も、ほとんど終始無言であったが、私は心の中で『御免なさい。赦して下さい』と唱え続けていた。こうして夕暮れになる頃、埋葬し終わった」。1回目にイエスを訪ねた時のニコデモは「自分の立場を失うのが怖くてそれ以上ついていけなかった」と告白しています。2回目のニコデモもイエスの弁護をしますが、まだ及び腰です。その同じ人がこのたびは、社会的地位を失うことを恐れもせずに、イエスの遺体引き取りを行います。最初にイエスによって蒔かれた種がニコデモの中で、芽を出し、成長して、やがて実をつけました。ニコデモはやっと「新しく生まれる」ことが出来たのです。
・クリスマスはイエスの生誕を祝う時です。ニコデモと同じように、イエスは私たちに「新しく生きる」ように語られます。新しい命に生きる生き方は「新生」と呼ばれます。今まで自分中心で生きていた人生が、「隣人と共に生きる」あり方に変えられて行くことです。イエスは語られます「あなたがたは、私が空腹であった時私に食べる物を与え、私が渇いていた時私に飲ませ、私が旅人であった時私に宿を貸し、私が裸の時私に着る物を与え、私が病気をした時私を見舞い、私が牢にいた時私をたずねてくれた」(マタイ25:35-36、新改訳)。「隣人と共に生きる」とはそういう生き方です。そのためには一度古い自分に死ななければなりません。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)。自己に死んで隣人のために生きる者にされた時、そこに何かが生まれます。「人は生きているのではなく、生かされている」、ことに気づいた時、人は新しく生れます。そして神の国建設のための働き人にされていきます。
・日本でも多くの人々が貧困や差別の中で苦しんでいますが、彼らは教会に救済を求めません。救いが教会にあるとは思わないからです。人々は語ります「神は愛だと言うけれど、いったい神は私のために何をしてくれるというのか。神は何もしてくれないではないか。愛の神の存在などとても信じられない」。このような人々に、私たちはキリストの福音を伝えます。人生の危機に直面した時、キリストの言葉が私たちを立ち上がらせた体験をしたゆえに、キリストの福音を持ち運ぶ者になります。
・現代の私たちは利害損得(お金)を宗教としていますが、聖書は利害を超えるもの、神を愛するように隣人を愛することを求めています。何故ならば、そこにしか人間が救われる道はないからです。私たちは「聖書は人生の困難を乗り切る力を持つ」ことを伝えます。多くの人は受け入れないでしょう。マハトマ・ガンジーは語りました「見たいと思う世界の変化にあなた自身がなりなさい」。私たちが本気で相手のことを祈り始めた時、事態は変わりうるのです。私たちが一粒の麦として自己に死んだ時に、私たちは「キリストの香り」(第二コリント2:14)、「キリストの手紙」(同3:3)になり、本当のクリスマスが私たちに訪れます。