江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年12月3日(イザヤ7:1-14、その名はインマムエル)

投稿日:2023年12月2日 更新日:

 

1.シリア・エフライム戦争の危機の中で語られたインマヌエル預言

 

・アドベントの時を迎えました。クリスマスの中心的な言葉はインマヌエル(神共にいます)です。この言葉は聖書に4回登場します。第一は今日の聖書個所イザヤ7章です。「それゆえ、私の主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ7:14)。2回目、3回目も同じくイザヤ書で、8章です。「それゆえ、見よ、主は大河の激流を、彼らの上に襲いかからせようとしておられる。すなわち、アッシリアの王とそのすべての栄光を。激流はどの川床も満たし至るところで堤防を越え、ユダにみなぎり、首に達し、溢れ、押し流す。その広げた翼はインマヌエルよ、あなたの国土を覆い尽くす」(イザヤ8:7-8)。「諸国の民よ、連合せよ、だがおののけ。遠い国々よ、共に耳を傾けよ。武装せよ、だが、おののけ。武装せよ、だが、おののけ。戦略を練るがよい、だが、挫折する。決定するがよい、だが、実現することはない。神が我らと共におられる(インマヌエル)のだから」(イザヤ8:10)。4回目はマタイ福音書1章です。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(マタイ1:23)。今日の主題は「インマヌエル」で、マタイはこの言葉をイエス生誕の預言と受け取りました。それは何故かを、イザヤ書とマタイ福音書を通して見ていきます。

・「インマヌエル」という言葉が最初に聖書に登場するがイザヤ7章と8章です。背景にあるのは前734年に起こったシリア・エフライム戦争です。イザヤの時代、アッシリアは世界帝国としてパレスチナに勢力を伸ばし、諸国を制圧し始めていました。その中でシリアと北イスラエルは反アッシリア同盟を結び、ユダにも参加を呼びかけましたが、ユダはこれを拒絶し、両国から攻撃を受けます。隣国シリアとイスラエルの攻撃にユダは動揺しました。「ユダの王アハズの治世のことである。アラムの王レツィンと・・・イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。しかし、アラムがエフライム(北イスラエル)と同盟したという知らせは、(ユダの)ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も森の木々が風に揺れ動くように動揺した」(イザヤ7:1-2)。

・歴代誌を見ますと、戦争の緒戦でユダは負け続け、多くの死者と捕虜を出しています(歴代史下28:5-8)。アハズ王は動揺し、事態打開のために、アッシリアの支援を求めようとします。この動きにイザヤは反対し、アハズ王と面会します。「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。アラムを率いるレツィンと(イスラエルを率いる)レマルヤの子が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない」。(イザヤ7:3-4)。「主に信頼して委ねれば、主は緒戦の敗退を挽回し、勝利を与えられる。逆に外国の軍隊に頼れば国を滅ぼす。そのことをアハズ王に語れ」とイザヤは命じられました。「アラムがエフライムとレマルヤの子を語らって、あなたに対して災いを謀り、『ユダに攻め上って脅かし、我々に従わせ、タベアルの子をそこに王として即位させよう』と言っているが、主なる神はこう言われる。それは実現せず、成就しない・・・信じなければ、あなたがたは確かにされない」(イザヤ7:5-9)。

・「信じなければ確かにされない」、あなたが信じるために、主は「しるし」を与えられるゆえ、それを求めよとイザヤは語ります。そのしるしがインマヌエル(=主は共にいます)預言です。神が人間の歴史に介入されるとの宣言です「私の主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで、彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる」(7:14-16)。「おとめが身ごもって、男の子を産む、その子が生まれて乳離れする前に、あなたを責めているシリアとイスラエルは滅ぶであろう」とイザヤは預言します。だから外国であるアッシリアではなく、主に寄り頼めとイザヤは主の言葉を伝えます。

・しかし、アハズ王は聞かず、アッシリアに支援を要請します。アッシリアの軍隊はパレスチナに侵攻し、シリアを征服し、イスラエルを滅ぼし、ユダの当面の脅威は去りました。しかしアッシリア王はユダに従属を求め、以降ユダはアッシリアの属国として重い税を課せられ、国力が衰退していきます。イザヤは預言します「主は、あなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライムがユダから分かれて以来、臨んだことのないような日々を臨ませる。アッシリアの王がそれだ」(7:17)。そして8章においてアッシリアの軍隊がイスラエルを蹂躙するさまが描かれます。「この民はゆるやかに流れるシロアの水(エルサレムの川)を拒み、レツィンとレマルヤの子のゆえにくずおれる。それゆえ、見よ、主は大河の激流(メソポタミヤの川)を、彼らの上に襲いかからせようとしておられる。すなわち、アッシリアの王とそのすべての栄光を。激流はどの川床も満たし、至るところで堤防を越え、ユダにみなぎり、首に達し、溢れ、押し流す。その広げた翼は、インマヌエルよ、あなたの国土を覆い尽くす。」(イザヤ8:6-8)。

 

2.インマヌエル預言

 

・シリア・エフライム連合軍がユダに攻め入った時、イザヤは「アッシリアではなく、主に頼れ。主が撃退して下さる」と預言しました。しかし、アハズ王は主を信ぜず、アッシリアに援軍を求めました。アハズ王に失望したイザヤは新しい王の出現を待望する預言を行います。それが「インマヌエル(主は共におられる)預言」です。「それゆえ、私の主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ7:14)。さらにイザヤは9章で預言します「一人のみどりごが私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」(イザヤ9:5-6)。

・旧約の時代背景の中で考えれば、イザヤの語るインマヌエルとはアハズの子として生まれたヒゼキヤ王を指します。ヒゼキヤは前728年に父に代わって王となり、9章のメシア預言(一人のみどりごが私たちのために生まれた)はヒゼキヤ王の即位を喜ぶイザヤの言葉です。アハズ王はアッシリアに頼り、ユダはその属国となり、アッシリアの神々を神殿に祭りました。しかし子のヒゼキヤ王はアッシリアとの関係を絶ち、神殿から偶像を放逐します(列王記下18:5-7)。そのような時代背景の中でイザヤの預言を読むと、言葉の意味は明らかになります。アハズ王の要請でパレスチナに来たアッシリア軍はシリアを滅ぼし、北イスラエルの領地を奪い、ユダに重税を強います。それはユダが主の恵み(シロムの水)に頼らず、激流(チグリス・ユーフラテスから来たアッシリア)に頼り、飲み込まれたのだとイザヤは語ります(イザヤ8:5-8)。

・アッシリアはやがてユダを飲み込むべくエルサレムを包囲します(前701年)。しかしヒゼキヤ王は悩みながらも主により頼んだので、主はアッシリアを退けられます。「諸国の民よ、連合せよ、だがおののけ。遠い国々よ、共に耳を傾けよ。武装せよ、だが、おののけ。武装せよ、だが、おののけ。戦略を練るがよい、だが、挫折する。決定するがよい、だが、実現することはない。神が我らと共におられる(インマヌエル)のだから」(イザヤ8:9-10)。エルサレムを包囲していたアッシリア軍に突然に疫病が発生し、彼らは軍を引きます。ペストではなかったかと推測されています。アッシリア王は軍を引いて帰国し、その後、反乱によって殺されました(前701年)。そこからインマヌエル預言が国を救うメシア預言とされて行きます。

 

3.この預言をマタイは主イエスの降誕の中に見た

 

・初代教会はイザヤ7章のインマヌエル預言の中にイエス・キリスト生誕の意味を見出しました。救い主である神の御子が生まれたと理解したのです。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。このこと・・・は、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』。この名は、神は我々と共におられるという意味である」(マタイ1:21-23)。イザヤはアッシリアに奪われた北イスラエルの領土回復を預言しました(イザヤ8:2-9:1)。マタイは、イエスがガリラヤに生まれたことにより、新しい神の国が始まったと理解しました。マタイは記します「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった『ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ』」(マタイ4:12-16)。ガリラヤは異邦人の地、失われた地とされていました。そのガリラヤから神の子キリストが生まれられたことを、マタイはイザヤ預言の成就と理解したのです。

・今日の招詞にマタイ28:18-20を選びました。次のような言葉です「イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。復活されたイエスは弟子たちに世界伝道をお命じになりました。そしてイエスは「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と語られたことを伝えます。「いつもあなたがたと共にいる」(28:20b)とは、イエス生誕の時にも用いられている「インマヌエル」です。それは、ヘブライ語で「神は私たちと共におられる」という意味で、マタイはこの言葉をイエス生誕時の受胎告知の中で用います「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(1:23)。「インマヌエルと呼ばれる方がお生まれになる」という約束がイエス生誕の時に為され、その方が「いつまでもあなたがたと共にいる」と約束して、天に昇られた。マタイ福音書は「インマヌエル」という言葉で始まり、「インマヌエル」という言葉で閉じられています。

・私たちはマタイ福音書を通じて、「インマヌエル、共にいる」方こそ、私たちの主キリストだと信じています。キリストは私たちに最後の言葉を残されました「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:18-20)。このイエスの宣教命令を受けて初代教会は伝道を始めました。その中核にあるのは、どのような時にも、「イマヌエルなる方が共におられる」との信仰でした。新約聖書は旧約聖書の預言の再解釈の書です。そして私たちは再解釈された預言を、「私たちに語られた言葉」として聞き直し、どう生きるべきかの指針とします。

・そこで明らかになることは、「救いとは死んで天国に行く」ことではないということです。聖書の語る救いとは、「現在を神により生かされ、将来の死は神に委ねる」ことです。何故ならばキリストは「いつでも共におられる」からです。同盟基督教団の広瀬薫牧師は語ります「日本のキリスト教会の一つの印象は、『どうしたら救われるか』を非常によく教えてくれるが、『救われた後をどう生きるか』をあまり教えてくれない。すると、日曜日の礼拝の価値観と週日の生活の価値観が分離して、『聖俗二元論』に立った生き方になりがちだ。日曜日は『神の民』だが、週日は『この世の民』と変わらぬ生き方に流されてしまう。つまり、『信仰を持つ』だけで停滞し、『信仰に生きる』ところまで進まないのである。価値観が分離した生き方を長く持続することは難しい。その結果、日本の教会は、大量の信徒の『教会離れを』を招いてきた…鍵は救われた後、信仰を持つだけではなく、生きるための土台となるキリスト教世界観を持つことだ」(日本同盟基督教団)。「信仰を持つ」だけでは不十分であり、「信仰に生きる」生きることが必要です。そのための土台となる世界観こそ「共におられるインマヌエル」なのです。

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