1.恵みに応えない民に対する告発の歌
・イザヤ5章は「ブドウ畑の歌」として有名です。神の恵みを受けたのにふさわしい実を結ばない民に対する告発の歌です。イザヤは歌います「私は歌おう、私の愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。私の愛する者は、肥沃な丘に、ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった」(イザヤ5:1-2)。イザヤはエルサレムの人々の不誠実をぶどう畑に例えて歌っています。「さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ、私と私のぶどう畑の間を裁いてみよ。私がぶどう畑のためになすべきことで、何か、しなかったことがまだあるというのか。私は良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか」(イザヤ5:3-4)。
・榎本保郎先生は「これは人々が収穫感謝のために集まって来た時、イザヤが即興で歌った歌であろう」と語られます(榎本保郎・旧約聖書1日1章から)。「ふさわしい実を結ばないぶどう畑は捨てられ、荒れるに任せられるだろう。あなた方はそのような状況にあることを認識しているのか」とイザヤは収穫を喜ぶ人々に語るのです。「さあ、お前たちに告げよう。私がこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ、石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ、私はこれを見捨てる。枝は刈り込まれず、耕されることもなく、茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、と私は雲に命じる。イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑、主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに見よ、叫喚(ツェアカ)」(イザヤ5:5-7)。
・榎本先生は解説します「人々が神に葡萄の実を捧げて『神様、ありがとうございます。私たちの勤労の実はこのように実りました』と言って喜んでいる時に、イザヤは『お前たちの結んでいるのは流血であり、裁きではないか。お前たちは種ばかり大きくて何も役に立たない野ぶどうを結んでいるのではないか。そういうぶどう畑は外国の軍隊に荒らされるままになる時が来るぞ」と預言した歌である」。主はエジプトで民の苦しみの叫びを聞き、彼らを救い出し、約束の地に植えられました。その恵に応える故に、民に公平(ミシュパト)を期待されたのに、そこには流血(ミスパハ)しかなかった。正義(ツェダカ)を待っておられたのに、貧しい民の叫び(ツェアカ)が聞こえてくる。これは何だと主は言われます。
・8節以下にその具体的な罪が告発されています。「災いだ、家に家を連ね、畑に畑を加える者は。お前たちは余地を残さぬまでに、この地を独り占めにしている。万軍の主は私の耳に言われた。この多くの家、大きな美しい家は、必ず荒れ果てて住む者がなくなる」(イザヤ5:8-9)。民の長老や支配者たちは土地を買い占め、ぶどうの収穫を貧しい人から奪って、自分だけのものにしている。主なる神はこのような不正を赦されないとイザヤは告発しているのです。
2.裁きの預言
・主はエジプトで民を贖い、人々は約束の地に導かれ、土地が与えられ、農耕がされ、収穫がなされます。すべての人が収穫を楽しみ、食べることができる土台が与えられました。それなのに支配者たちは土地を買い占めて貧しい者を苦しめています。それゆえ、支配者たちの住む家は荒れ果て、地は収穫を結ばず、10反のぶどう畑からわずか1パトの収穫、10ホメルの種を蒔いても1ホメルの収穫しかないであろうと預言されます(5:10)。「災いだ、家に家を連ね、畑に畑を加える者は。お前たちは余地を残さぬまでに、この地を独り占めにしている。万軍の主は私の耳に言われた。この多くの家、大きな美しい家は、必ず荒れ果てて住む者がなくなる。十ツェメドのぶどう畑に一バトの収穫、一ホメルの種に一エファの実りしかない」(イザヤ5:8-10)。
・実りのぶどう酒に満足できない人々は強い酒を求め、酒宴を朝から開きます。やがて彼らは外敵侵攻により囚われ人となるであろうと預言されます。「災いだ、朝早くから濃い酒をあおり、夜更けまで酒に身を焼かれる者は・・・主の働きに目を留めず御手の業を見ようともしない。それゆえ、私の民はなすすべも知らぬまま捕らわれて行く」(イザヤ5:11-13)。繁栄に酔いしれる者は、イザヤを通して与えられた主の警告をあざ笑います「北のイスラエル王国は滅びたかも知れないが、私たちユダ王国は滅びない」。そして預言者を嘲笑します「イスラエルの聖なる方を急がせよ、早く事を起こさせよ、それを見せてもらおう。その方の計らいを近づかせ、実現させてみよ。そうすれば納得しよう」。(イザヤ5:19)。
・彼らの嘲笑に応えて主は外敵を呼ばれます。アッシリアです。彼らは速やかに来て、あなた方を撃つであろうと預言されます。「主は旗を揚げて、遠くの民に合図し、口笛を吹いて地の果てから彼らを呼ばれる。見よ、彼らは速やかに、足も軽くやって来る。・・・彼らは矢を研ぎ澄まし、弓をことごとく引き絞っている。馬のひづめは火打ち石のようだ。・・・救おうとしても、助け出しうる者はない」(イザヤ5:26-29)。
3.聞こうとしない者に語り続けよ
・イザヤに「語れ」と命じられたのは「滅びの預言」でした。誰も滅びの預言など聞きたくありません。だからイザヤが主の言葉を語れれば語るほど、民に憎まれ、迫害されます。イザヤの召命の時に主が語られた言葉が残されています「主は言われた『行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めて癒されることのないために。』(イザヤ6:9-10)。何故滅びの言葉が語られても民は聞かないのか。それは自分たちが滅ぼされるべき罪人とは認識しないからです。ノアの洪水の時と同じです。イエスは語られます「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった」。(マタイ24:38-39)
・ロシアの文豪トルストイは「イワン・イリッチの死」という作品でで、死が目前に迫るまで、地上的な喜びにのみ生きがいを感じる主人公の死を描きます。死に直面して、彼が知ったのは、見たくないものを避けて生きてきた自分の半生でした。トルストイは語ります「過去現在においてお前の生活を形づくっていたものは、なにもかもみんな虚偽だ、お前の目から生死を隠していた機関(からくり)にほかならない。」(トルストイ「イワン・イリッチの死から」)。私たちは危機が目の前に見える形で来るまでは、それにふさわしい生き方をしようとはしないのです。だから危機が与えられます。
・アップルの創業者スティーブ・ジョブズは語りました「私は毎朝、鏡に映る自分に問いかけるようにしています『もし今日が人生最後の日だとしても、今からやろうとしていることを私はするだろうか』。『違う』という答えが何日も続くようなら、生き方を見直せということです・・・永遠の希望やプライド、失敗する不安、これらはほとんどすべて、死の前には何の意味もなさなくなる。本当に大切なことしか残らない。自分は死ぬのだと思い出すことが、敗北する不安にとらわれない最良の方法です」(米スタンフォード大卒業式スピーチから、2005年6月)。「もし今日が人生最後の日だとしても、このことをするだろうか」と問いかける時、人の生き方は真実なものになります。ジョブズは2003年に膵臓癌が見つかり、一旦は死を覚悟した人です。彼がipadやiphoneといった画期的な商品を開発するのはそれ以降です。死を覚悟した故に、彼は良い仕事をすることができたと思います。
・「民が聞かないのに何故遣わすのですか」とイザヤは尋ねます。主は「国が滅びた後に民は聞く」と答えられます。「私は言った『主よ、いつまででしょうか』。主は答えられた『町々が崩れ去って、住む者もなく、家々には人影もなく、大地が荒廃して崩れ去るときまで』。主は人を遠くへ移される」(イザヤ6:11-12)。人が満足している時、神の言葉は聞こえません。神の言葉は人が「限界状況」に、「破たん」に直面した時に、初めて響いてきます。ヨブ記はそのことを私たちに教えます「神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し、苦悩の中で耳を開いてくださる。神はあなたにも苦難の中から出ようとする気持を与え、苦難に代えて広い所でくつろがせ、あなたのために食卓を整え、豊かな食べ物を備えてくださるのだ。あなたが罪人の受ける刑に服するなら、裁きの正しさが保たれるだろう」。(ヨブ記36:15-17)
4.新しい葡萄畑の歌
・今日の招詞にイザヤ27:2-6を選びました。次のような言葉です「その日には、見事なぶどう畑について喜び歌え。主である私はその番人。常に水を注ぎ、害する者のないよう、夜も昼もそれを見守る。私は、もはや憤っていない。茨とおどろをもって戦いを挑む者があれば私は進み出て、彼らを焼き尽くす。そうではなく、私を砦と頼む者は私と和解するがよい。和解を私とするがよい。時が来れば、ヤコブは根を下ろし、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、地上をその実りで満たす」。イザヤ24-27章はイザヤ黙示録と呼ばれます。おそらくは紀元前2~3世紀の預言者がイザヤ書を再解釈し、ここに編入したのではないかとされています。イザヤはかつて、「実を結ばないブドウ畑」の歌を歌い、神に不実なイスラエルを批判しました。「良いぶどうを植えたのに、実ったのは酸っぱいぶどうであった」と(イザヤ5:1-7)。イザヤの後継者たちは、このぶどう畑が主によって回復されると預言します。「主に見捨てられて、茨やおどろが生い茂った畑が見事なぶどう畑に生まれ変わる」とイザヤの弟子たちは預言します。最初のイザヤの預言から500年後です。神の裁きと赦しは長い時間をかけて為されます。私たち人間は70年か、80年しか生きることができない故に、その裁きと赦しを目の前で見ることはできない。しかし私たちは歴史を通してそれを見ることができます。何故なら歴史は「History=His・Story」、神の支配下にあるからです。それを信じていくのが信仰です。
・イスラエルは主によって撃たれ、アッシリア帝国の属国となり、次のバビロニア帝国の時代に国を滅ぼされました。しかしイスラエルは回復します。他方、かつて栄華を誇ったアッシリア帝国やバビロニア帝国は回復することなく、捨てられました。主の恵みを見よと預言者は歌います。「主は、彼を撃った者を撃たれたように、彼をも撃たれたか。彼を殺した者を殺されたように、彼をも殺されたか。あなたは彼と争って、彼を追い立て、追放された。東風の日に、激しい風をもって、彼を吹き払われた。それゆえ、ヤコブの咎はこのようにして贖われ、罪が除かれる・・・城壁に囲まれた都は孤立し置き去りになり、見捨てられて荒れ野となる。子牛はそこで草をはみ、そこに伏し、また小枝をも食い尽くす。枝は枯れて折れ、女たちが来てそれを燃やす・・・造り主は憐れみをかけずその民を形づくられた方は恵みを与えられない」(イザヤ27:7-11)。
・預言者の言葉は国が滅びた時に、初めて聴かれます。人は滅びるまで自分の罪を知ることが出来ないからです。バビロン捕囚の民は流刑の地でイザヤの言葉を聴き直し、悔い改め、主は彼らから新しい国を造られました。「なお、そこに十分の一が残るが、それも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である」(イザヤ6:13)。バビロン捕囚こそ神の恵みでした。苦難を通して悔い改めが為されました。実を結ばない木は切り倒される、これがこの世の在り方です。しかしイエスは、私たちのために執り成しをされます。イエスは言われます「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」(ルカ13:8-9)。この執り成しにより、罪あるイスラエルは生存を許され、罪ある私たちもまた生存が許されているのです。