江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年6月14日祈祷会(使徒言行録19:1-40、エフェソ教会の成立)

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1.エフェソでの宣教

 

・パウロはコリントで1年半宣教し、その後、エフェソに来た。そのエフェソで彼は、「未成熟な信仰」を持つ信徒たちに出会った。彼等はヨハネのバプテスマを受けていたが、イエスのバプテスマを知らず、聖霊の存在とその働きも知らなかった。

-使徒19:1-3「アポロがコリントにいた時のことである。パウロは内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、彼らに、『信仰に入った時、聖霊を受けましたか』と言うと、彼らは、『いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません』と言った。パウロが、『それなら、どんなバプテスマ(洗礼)を受けたのですか』と言うと、『ヨハネのバプテスマ(洗礼)です』と言った。」

・エフェソではアポロが活動していた。アポロは「ヨハネのバプテスマしか知らなかった」(18:25)。洗礼者ヨハネは罪の悔い改めを強調したが、悔い改めても、新しい命をいただかないと、本当の救いにはならない。エフェソの信徒たちが聖霊を知らなかったのも、このアポロに導かれたためだった。パウロは彼らに教え、バプテスマを授けた。その後、パウロが彼らの頭の上に手を置くと、彼らに聖霊が降った。

-使徒19:4-7「そこでパウロは言った。『ヨハネは自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めのバプテスマ(洗礼)を授けたのです。』人々はこれを聞いて主イエスの名によってバプテスマ(洗礼)を受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、この人たちは異言を話したり、預言をしたりした。この人たちは、皆で十二人ほどであった。」

・パウロは2年間エフェソで伝道した。その結果エフェソの多くの者たちが福音に接した。しかし律法の実行こそ救いの要件だと考えるユダヤ教保守派の人たちは、パウロの教え(信仰が人を救う)に反発した。そのためパウロはシナゴークを離れ、新しい会堂で語るようになった。キリスト教会の成立である。

-使徒19:8-10「パウロは会堂に入って、三か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした。しかしある者たちが、頑なで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちを退かせ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた。このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者はユダヤ人であれギリシア人であれ、誰もが主の言葉を聞くことになった。」

・信仰者とそうでない人を分けるのは、その生活に信仰の実があるかどうかだ。信仰の実とは、罪を赦された喜びを持って、新しく生きることだ。過去の罪が赦されただけでなく、新しい命に生かされることがなければ、過去と同じ罪を犯す。救いは水のバプテスマだけでなく、霊のバプテスマも必要だ。もし私たちが、バプテスマを受ける前と受けた後の実際の生活が変わっていなければ、その信仰には問題がある。

-第一ヨハネ3:17「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう」。

 

2.ユダヤ人の祈祷師たち

 

・19章11節からルカは、「パウロの行った様々な奇跡が人々を驚かした」と記す。パウロの奇跡的な癒し活動はあったであろうが、ここではルカの誇張表現が見え隠れする。

-使徒19:11-12「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身につけていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気は癒され、悪霊どもも出て行くほどであった。」

・エペソにはアルテミス神殿があった。神殿は世界の七不思議と呼ばれたほど有名で、多くの参拝客が集まり、神殿で発行されるお守りは、旅行者には安全を保証し、子供のない者には子供を授け、病気の者は癒され、商売繁盛を願う者にはそれがかなえられるという触書で、人々は競って、呪文と魔よけを書いたお守りを手に入れた。エペソは異教的迷信、魔術の中心地であった。パウロが病気の者を癒すのを見て、人々はパウロの信じる神の威力はすごいと思い始めた。当然、それを自分のために使おうとする人々が出て来る。

-使徒19:13-14「ところが各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師の中にも、悪霊どもに取りつかれている人に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、『パウロが宣べ伝えているイエスの名によって、お前たちに命じる』と言う者があった。ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた」。

・癒しの奇跡はいつも人の心を動かす。人々はパウロの奇跡を見て入信したとルカは記す。

-使徒19:17―20「このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いに崇められるようになった。信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した・・・このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。」

・多くの人が病の癒しを求めて教会に来るが、癒されないと教会を去る。これも魔術を求める信仰の一つだ。魔術の背景にあるものは、救いを求める叫びだ。その意味で誰でも魔術や癒しを求める。また、癒されて治ることもある。病は気からというように、信じた時に自然治癒力が働いて病気が治ることは周知の事実だ。しかし、聖書は魔術を禁じ、魔術の本は焼けと命じる。末期癌の患者が病気からの回復を求めるのは当然だ。誰でも死にたくない。しかし、癌からの癒しを神に求めることは、他の面から言えば、神の力を自分のために使いたいと言う願望だ。神は必要であれば病を癒して下さるし、そうでなければ命を召されるだろう。「御心のままに」と言う言葉を伴わない、癒しの祈りは魔術を求める信仰と同じだ。

・神の言葉から離れて、病気の癒し等の現世利益だけを求め始めた時、信仰は魔術化する。もし、私たちが病の癒しを求める時、「御心に従う」ことを第一にするならば、聖書が教える祈りになる。

-キリスト者の祈り「神様、私の病を癒してください。健康になって再びあなたのために働ける身となさせて下さい。しかし、もし、私の病を癒さないことがあなたの御心であれば、この病を通して、あなたが何をしようとしておられるかを教えて下さい」。

 

3.エフェソでの騒動

 

・アルテミス神殿の銀細工を販売している者たちは、パウロの宣教によって、商売が邪魔されたとパウロを告発する。ある人々にとっては神殿の銀細工販売は生計の手段であり、妨害者は排除される。

-使徒19:24-27「デメトリオという銀細工師が、アルテミス神殿の模型を銀で造り、職人たちにかなり利益を得させていた。彼は、この職人たちや同じような仕事をしている者たちを集めて言った『諸君、御承知のように、この仕事のお陰で、我々はもうけているのだが、諸君が見聞きしている通り、あのパウロは「手で造ったものなどは神ではない」と言って、エフェソばかりではなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。これでは我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるばかりでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう。』」

・デメトリオの言葉により、町中が大混乱に陥り、収拾がつかなくなる。

-使徒19:28-32「これを聞いた町の人々はひどく腹を立て、『エフェソ人のアルテミスは偉い方』と叫び出した。そして、町中が混乱してしまった。彼らはパウロの同行者であるマケドニア人ガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって野外劇場になだれ込んだ。パウロは群衆の中へ入っていこうとしたが、弟子たちはそうさせなかった・・・群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった。」

・騒動は町の書記官の冷静な判断で収まった。

-使徒19:35-40「そこで、町の書記官が群衆をなだめて言った『エフェソの諸君、エフェソの町が、偉大なアルテミスの神殿と天から降って来た御神体との守り役であることを知らない者はないのだ。これを否定することはできないのだから、静かにしなさい。決して無謀なことをしてはならない・・・デメトリオと仲間の職人が、だれかを訴え出たいのなら、決められた日に法廷は開かれるし、地方総督もいることだから、相手を訴え出なさい。それ以外のことで更に要求があるなら、正式な会議で解決してもらうべきである。本日のこの事態に関して、我々は暴動の罪に問われるおそれがある。この無秩序な集会のことで、何一つ弁明する理由がないからだ。』こう言って書記官は集会を解散させた。」

・使徒19章では、伝道を続けるパウロの前に三つの問題が提起される。一番目はヨハネのバプテスマしか知らない信徒の問題、現代では一部の教理を誇張して伝える異端の問題に通じる(エホバの証人、統一教会等)。二番目は魔術が関わる似非宗教の問題、これも神癒を強調するペンテコステ派の活動の問題となる。三番目は女神アルテミスに関わる偶像崇拝の問題である。偶像崇拝は八百万の神を持つ日本では大きな課題である(天皇制も偶像崇拝の一つであろう)。いずれも現代のキリスト教が直面する問題でもある。それは信徒教育の問題であり、現世利益を求めるかどうかの信仰が問われる問題であり、宗教が陥り易い偶像崇拝からいかにして信仰の純粋性を守るかという問題である。

・ボンヘッファーは歌う「たとい主から差し出される杯は苦くとも、怖れず感謝を込めて、愛する手から受けよう」(新生讃美歌73番「善き力にわれ囲まれ」)。受け取るものが苦い杯=十字架であっても喜んで受けようという信仰がここにある。このような信仰はいつの世にも不人気だが、聖書の伝える信仰だ。この信仰が2000年間の福音の継承を可能にしてきた。これが聖霊を受けた人の生き方ではないかと思う。魔術を捨てよう、現世利益の信仰から解放されよう。神に開かれた生活は人へも開かれていくことを知ろう。

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