江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年6月4日説教(ローマ10:14-21、主の名を呼び求める人は救われる)

投稿日:2023年6月3日 更新日:

 

1.同胞の救いを熱望するパウロ

 

・ローマ書を読んでおります。パウロは何度も海外の宣教活動を行い、異邦人伝道のために奔走していましたが、心の底ではいつも同胞ユダヤ人が福音を受け入れないことが気がかりになっておりました。同胞ユダヤ人は何故福音を拒絶するのか、彼らは救いから漏れてしまうのか。彼は手紙の中で語ります「私には深い悲しみがあり、私の心には絶え間ない痛みがあります。私自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」(9:2-3)。イスラエルは神に愛された、選ばれた民族であり、イエス・キリストも肉によればイスラエルの出身です。それなのにイスラエル(ユダヤ)はキリストを受入れず、それがパウロにとっては大きな悲しみになっていました。ですからパウロは繰り返し、ユダヤ人の救いについて語ります「兄弟たち、私は彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」(10:1)。

・何故彼らはキリストを拒否するのか、パウロは語ります「私は彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです」(10:2-3)。ユダヤ人は熱心に神の戒めを守ろうとしましたが、熱心になればなるほど他者を裁くようになりました。人が「行いによる義」を追い求める時、信仰は自己主張的になります。熱心に律法を守ろうとする人たちは、戒めを守らない人を裁くようになる。それはパウロ自身の体験でした。彼はピリピ教会への手紙の中で語ります「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」(ピリピ3:5-6)。律法に対する熱心さがパウロを教会の迫害者にしたのです。しかし彼はキリストとの出会いを通して変えられていきます「私にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになった」(ピリピ3:7)。そして今、彼を含めたユダヤ人が追求していたのは、「神の義」ではなく、「自分の義」であったことを知りました(ピリピ3:9「私には、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」)。彼は語ります「イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした・・・イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいた」(9:31-32)。

・だから彼は言います「キリストは律法の目標であります。信じる者すべてに義をもたらすために」(10:4)。キリストが来られて律法が完成した、もう「律法による義」は不要になった。では律法に代わるものは何か、キリストに対する信仰です。ここに「行為義認」(善い行いが人を救う)から「信仰義認」(命の源である神を信じることにより救われる)への歴史的な転換が為されました。パウロは語ります「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(10:9-10)。

・現代の私たちはこの言葉を聞いて当然のことだと思いますが、当時においては、これは非常に勇気の必要な行為でした。ローマ帝国内に住むキリスト者が「イエスは主である」と告白するのは、「ローマ皇帝は主ではない」と告白するのと同じで、たちまち周囲から激しい敵意や圧迫を招く行為だったのです。当時の人々は皇帝アウグストゥスを「救い主」(ソーテール)と呼び、「主」(キュリエ)と呼んで崇めていました。「イエスは主である」と告白することは、皇帝礼拝を拒否することになり、迫害の対象になりました。この手紙から数年後、ローマのキリスト者たちは皇帝ネロのキリスト者弾圧の中で命を落として行きました。日本でも戦時中にキリスト教信仰を公にすることは、敵性宗教を信じている非国民として糾弾されました。「口でイエスは主であると公に言い表す」ことは、命がけの行為だったのです。

・しかしその命がけの行為が救いをもたらします。パウロは語ります「主を信じる者は、だれも失望することがない・・・ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです」(10:11-13)。パウロはここで断言しています「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです」。もしその人が「主の名を呼び求める」ならば、すべての人が救いの対象になるのです。

 

2.伝道することの意味

 

・「主の名を呼び求める者は誰でも救われる」、その救いはどのようにして為されるのか。宣教する者の言葉を聞くことによってです。パウロは福音を伝える者の役目と光栄をイザヤ書から引用しています。「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることできよう。『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』と書いてある通りです」(ローマ10:14-15)。「良い知らせを伝える者の足はなんと美しいことか」、この言葉はイスラエルの民がバビロン捕囚から解放されたことを伝えるメッセンジャ-が、イスラエルを駆け巡る姿を語った故事に由来します。原詩は次のようになります「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを告ぐる者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王になられた、とシオンに向かって呼ばわる。その声に、あなたの見張りは声をあげ、皆共に、喜び歌う。彼らは目のあたりに見る、主がシオンに帰られるのを」(イザヤ52:7-8)。

・よい知らせは神から遣わされた人が伝えます。神はイエスを死人の中から甦らせたのみならず、その証人として多くの使徒を起こされました。ペテロはペンテコステの時に会衆に語ります「神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です」(2:32)。このペテロの宣教を通して多くの人たちが信じ、洗礼を受けました。そしてペテロはユダヤ人の宣教へ、パウロは異邦人の宣教へと向かいました。パウロ自身「神の福音のために選び出され、召されて使徒となった」(ローマ1:1)との自覚を持って宣教し、その結果「私は、エルサレムからイリリコン州(イタリア半島)まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました」(15:19)と述べています。神の言葉は確かに伝えられたのです。

・福音の言葉はユダヤ人の耳にも届いた。彼らも聞いた。しかし聞いたのに、イスラエルの心には福音が生まれませんでした。パウロは語ります「それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、『私は、私の民でない者のことで、あなたがたにねたみを起こさせ、愚かな民のことであなたがたを怒らせよう』と言っています。」(10:19)。パウロはさらにイザヤ書を引用し、神は「尋ねようとしない者たちに対しても、分け隔てなく常に呼びかけておられ、その名を思い返すようにされた」と語ります(10:20)。不従順なイスラエルに対しても、神は救いを約束されているとパウロは繰り返します「しかし、イスラエルについては、『私は、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた』と言っています(10:21)。聞いても信じなかったユダヤ人にも救いの手は今でも伸べられているのです。

 

3.キリストの愛を知って

 

・「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」とパウロは語りました。では、神を信じられない者にも救いはあるのでしょうか。それを考えるために、今日は招詞として第一ペテロ5:7を選びました。次のような言葉です「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」。ヘルムート・ティーリケというドイツの神学者がいます。彼は著書の中で、第二次大戦中に体験したある出来ごとを語ります。戦争中にティーリケは「神はいずこにいますか」という小冊子を書いて兵士たちに配布しましたが、ある日、それを読んだ18才の戦車兵から手紙を受け取ります。戦場で大急ぎで書いたらしい手紙には、「あなたがここに書いていることは全くの馬鹿話です。この私に対して出会う神はどこにもません。この目で見た全ての恐るべき事の中に、神なんか存在しないという反証を私は十分すぎるほど経験してきました、神がどこかにいるかと仮定するよりは、神は不在であると考える方がずっと良いことなのです」。戦場は殺し合いの現場、殺さなければ殺される、そういう悪を放置しておられる神を信じることなどとても出来ないと青年は反駁します。

・この手紙の中に、必死で神を求める青年の心を感じた著者はすぐにペンを取り、戦場にいる青年との間に何度か手紙のやり取りがありました。そうこうするうち、戦場からの通信は途絶えました。そして何週間かの空白の後に、青年の母親から手紙が届いて、青年がティーリケに出そうとした書きかけの破れた手紙が同封されていました。青年は砲弾に撃たれて、彼の体は四散し、その身体と共に、手紙の断片が残されていたのです。そこには「やはり神を信じることはできない」と書いてありました。母親の手紙はこう結ばれていました。「私は、永遠の御国において、どこで息子に会えるのでしょうか」。

・著者は何度もためらった後、亡くなった戦車兵の母親に手紙を送ります。「あなたの息子ハンスの運命は、お母さんとしてのあなたの心を痛ましめる心配事であります。私にもお気持ちがよくわかります。しかし、悲しいことに私は、『神は、この未完の若者、疾風怒涛の中を生きた彼を愛し、必ず天国に受け入れて下さったであろう』と、単純にはあなたに書くことができません。私は、真理の厳しさの故に、またあなたの愛の深さの故に、あなたを欺きたくないのです。しかし私は、あなたに、あの神の愛を指し示そうと思います」。ティーリケは続けます「あなたは、次のような聖書の言葉をご存じでしょう。『自分の思いわずらいを、いっさい神に委ねるがよい。神はあなたがたをかえりみて下さるのであるから』(第一ペテロ 5:7)。ハンスの運命に関する疑問は、あなたにとって、切実な心配事であります。だからそれを、神に委ねなさい。私たちは、その行為が決して無駄ではなく、むしろ、私たちの心配事は主のみ心に必ず触れ、主がそれを感じて受けとめ、真剣に担ってくださるという約束を与えられているのです。主がそれをどのように処理され、そこから何を生み出すかは、私たちにはわかりません。しかしハンスのために祈りを捧げるとき、私たちの思いわずらいとは別な仕方であなたの心の悩みはいやされることでしょう。それが取り去られ、主のもとに預けられるということは、大きな慰めであります。私たちの心配事が大きければ大きいほど、ますます深く私たちは主を信頼することが出来るのです」(H.ティーリケ「アメリカ人との対話」、ヨルダン社、p178-183)。

・パウロは語りました「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」。この青年は残虐な戦争現場の中で、「やはり神を信じることはできない」と書いて死にました。この青年と同じ状況を今、ロシアやウクライナの兵士たちが体験しています。米国国防情報局の推計によれば、今回の戦争により、ロシア軍では4万人が戦死し、ウクライナ側では1.5万人が戦死したとされています(2023年4月13日ロイター)。家族や友人たちにとっては救いようのない出来事です。この青年は救われるのでしょうか。救われると思います。何故なら「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」と神は預言者を通して(ヨエル3:5)、約束されています。青年は激しく主の名を呼び求めて死んで行きました。たとえ洗礼を受けずとも、信仰告白を公にせずとも、主はこの青年を見捨てることはない。それが私たちの希望であり、信仰であり、パウロの信仰です。それを信じて、私たちは福音を宣べ伝え続けるのです。

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