- 義とされた者は苦難をも誇りとする
・ロ-マ書を読み続けています。今日は5章を学びます。ロ-マ4章ではアブラハムが「信仰によって義とされた」ことを学びました。アブラハムの信仰とは、「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じた」(4:18)信仰です。パウロは信仰について、「見えるものに対する希望は希望ではありません・・・私たちは、目に見えないものを望んでいるから、忍耐して待ち望むのです」(8:24-25)と語りました。そしてアブラハムの神は、「私たちの主イエスを死者の中から復活させた神」と同じ神です。この神を信じることによって、私たちも「義とされる(救われる)」とパウロは語りました。では、「義とされた者、救われた者はどのようにして生かされていくのか」、それが5章のテーマです。
・パウロは「神から義とされた者は、神との平和を与えられる」と書きます。「私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ております」(5:1)。キリスト者の生きるしるしは「平和」です。それは心の安静という個人レベルの「平安」ではなく、また戦争をしない、争わないという意味での「平和」でもありません。それは神と和解することによってもたらされる「平和」です。パウロは、イエス・キリストの執り成しによる神との平和を、自身の回心体験から得ています。パウロはキリストの教会を滅ぼそうとした迫害者でした。ガラテヤ書でパウロ自身が述べています。「あなたがたは、私がかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。私は徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました」(ガラテヤ1:13)。彼はその過程において人を殺すことさえしたとルカは報告します(使徒22:4「この道(キリスト信徒たち)を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえした」)。神は罪人であったパウロにイエス・キリストを啓示して、罪から救って下さった。そこからパウロの神との和解が生まれました。
・キリスト者は神と和解した者として、新しく創造されます。しかし、新しく創造されたキリスト者の生きる世は、古いままの、罪に満ちた社会です。そのためにキリスト者はこの世での葛藤、あるいは苦難を引き受ける生き方をせざるをえません。しかし、パウロは言います「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします」(5:2-3)。人生における苦難は、しばしば不平や不満、人や世への恨みを生み、自暴自棄や絶望を生みます。「むしゃくしゃしていた。誰でもよかった」といって通りすがりの人を殺傷する事件が起きています。しかし、パウロは語ります「(私たちは)苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(5:3-4)。多くの場合、「苦難が不平を生み、不平は恨みを生み、恨みは絶望を生む」ますが、パウロは「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」と語ります。それはパウロが「神との平和」をいただいているからです。「神に愛されている」と知るゆえに、苦難に苛立つことがないのです。
2.神との平和を与えられた者の生き方
・パウロは信仰生活の核心を「神との平和」の中に見出しました。それは彼が自ら血の汗を流して得た真理です。キリストを信じて平和を見出す前のパウロは、「神の怒り」の前に恐れおののいていました。熱心なパリサイ派であったパウロは律法を守ることによって救われようと努力していましたが、心に平和はありませんでした。彼はローマ7章で告白します「私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善を為そうという意志はありますが、それを実行できないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(7:18-19)。パウロの救いを妨げているのは、彼の中にある罪です「内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」(7:22-24)。この罪にとらえられているという意識、その結果神の怒りの下にある恐れが、パウロを「律法を守ろうとしない」、キリスト教徒への迫害に走らせます。その時彼は信徒を死に至らしめることさえしたと告白しています(使徒22:4)。心に平和がない人は他者に対して攻撃的になります。自分を守るために他者を攻撃するのです。パウロもそうでした。
・しかし、復活のイエスとの出会いで、パウロの思いは一撃の下に葬り去られました。パウロは死を覚悟しました。ところがパウロを待っていたのはキリストの赦しでした。恐ろしい神との敵対は一瞬のうちに終結し、反逆者パウロに神との平和が与えられました。だから彼はローマ5章で次のように言うのです「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」(5:6-8)。キリストは「不信心な」私、神への反逆者、「罪人の頭」であった、私のために死んでくださった。そのことを知った時、パウロの人生は根底から変わらざるを得なかったのです。
・パウロは続けます「それで今や、私たちはキリストの血により義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです」(5:9)。「キリストの血」、十字架上の贖いの死のことです。キリストが私のために死んでくださって、自分の罪が赦された、その罪の許しを通して神と和解することが出来、今は「神の平和」という恵みの中にいるとパウロは信仰告白しているのです。だから彼は言います「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています。キリストを通して和解させていただいたからです。」(5:10-11)。パウロはアブラハムの信仰から語り始めました。信じることのできないアブラハムにイサクの誕生という恵みを与えて祝福されたその方が、同じく信じることのできなかった自分に復活のキリストの顕現という恵みを与えて祝福して下さった、その感謝の思いがこれらの言葉を生みだしているのです。ローマ書はパウロの熱い肉声を伝える書なのです。今日の応答讃美歌634番は救われた者の生き方を歌います「キリストの愛我に迫れば、わが命君に捧げて、ひたすらに主のために生く」。パウロの生涯はまさに「主のために生く」生き方であり、それをもたらしたものは主の救済に対する感謝です。
3.苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を
・苦難がどのように人に希望を与えるか、実例を通して考えてみたいと思います。弁護士の岡村勲氏は山一証券の顧問弁護士でしたが、山一証券の破綻で損をした投資家の逆恨みで妻を殺されました。彼は犯罪被害者になって初めて、自分がこれまで知らなかったことを知ったと語ります。犯罪被害者の会設立趣意書の中で彼は語ります「1997年、仕事の上で私を逆恨みした男によって妻が殺害されました。弁護士生活38年目にして犯罪被害者の遺族となって、被害者や家族がどんなに悲惨で、不公正な取り扱いを受けているかということを、初めて知りました。加害者の人権を守る法律は詳細に整備されているのに、被害者の権利を守る法律はどこにもありません・・・経済面では加害者は一切国の費用で賄い、弁護士も国の費用で依頼できますが、被害者は、被った傷害の医療、介護費、生活費はすべて自己負担なのです・・・私たちは、『犯罪は社会から生まれ、誰もが被害者になる可能性がある以上、犯罪被害者に権利を認め、医療・生活保障・精神的支援など被害回復のための制度を創設することは、国や社会の義務である』と考えます」。
・岡村氏が加害者の裁判記録の閲覧を裁判所に申請すると、「被害者に閲覧権はない」と断られました。岡村氏は2000年に文藝春秋に寄稿し(「私は見た『犯罪被害者』の地獄絵」)、それが多くの人の感動を呼び、犯罪被害者救済の運動が広がり、2004年に犯罪被害者基本法、2007年に刑事訴訟法改正(被害者の裁判参加の創設)がなされ、事態は大きく改善しました。岡村弁護士に与えられた苦難は、犯罪被害者として苦しむ人々を救済する成果を生み出しました。「現代のヨブ記」という本があります。著者は幼い子供を難病でなくしたユダヤ教のラビです。彼は語ります「病人や苦痛にさいなまれている人が、『一体私がどんな悪いことをしたのか』と絶叫するのは理解できる。しかしこれは間違った問いだ。それらは神が決めている事柄ではない。だからより良い問いは『こうなってしまったのだから私は今何を為すべきか、そうするために誰が私の助けになってくれるだろうか』である」。パウロの語る「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」という言葉の正しい釈義がここにあるように思います。
4.不条理な苦難の中で
・苦難、特に不条理な苦難の意味を探求した書がヨブ記です。今日の招詞にヨブ記19:25-27を選びました。「私は知る、私を贖う者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。私の皮がこのように滅ぼされた後、私は肉を離れて神を見るであろう。しかも私の味方として見るであろう。私の見る者はこれ以外のものではない。私の心はこれを望んでこがれる」。主人公ヨブは家族と財産に恵まれ、周りの人からも尊敬されていました(ヨブ記1:1-3)。そのヨブに理由のわからない苦難が次々に与えられ、10人の子どもたちが亡くなる事故が起こり、彼の財産であった何千頭もの家畜が強盗に奪われるという出来事が起こります。更に、彼自身に「ハンセン病」という重い病が与えられます。周りの人たちは相次ぐ災いを見て、「この人は神に呪われている」と考え、近づかなくなりました。最初、ヨブはこれらの災いを宿命として受容れますが、遠くから、三人の友人が見舞いに来て、彼をいかにも「かわいそう」という目で見た時、押さえつけていたヨブの感情が迸りでます。ヨブは自分の生まれた日を呪い始めます。「私の生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も。その日は闇になれ」(ヨブ記2:11-3:4)。ヨブは自分の苦しみを友人に訴えました。しかし、返ってきた答えは「あなたが罪を犯したから災いを招いたのだ。悔い改めて、神に許しを請いなさい」という冷たいものでした。「考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ、正しい人が絶たれたことがあるかどうか」(4:7)、「神は偽る者を知っておられる。悪を見て、放置されることはない」(11:11)。ヨブが求めていたものは慰めでした。しかしヨブに与えられたのは冷たい言葉でした。
・ヨブは人間に絶望しました。その絶望の中で、ヨブは救済者を呼び求めます。それが招詞の言葉です「私は知る、私を贖う者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。私の皮がこのように滅ぼされた後、私は肉を離れて神を見るであろう。しかも私の味方として見るであろう。私の見る者はこれ以外のものではない。私の心はこれを望んでこがれる」(19:25-27)。「自分がだれの目にも敗北者として死んで、土を被っても、その墓場の土の上まで来て私の恥を雪いで下さる方が、生きておられる。私がその時墓場の土の下にいても、その塵の上から、『この下にいるのは私の僕なのだ。この者を侮辱することは、この私が許さない』と、その方は言ってくださる」との確信を表したものです。
・私たちに与えられるさまざまな苦しみの意味は、私たちにはわかりません。それでも、私たちは神を仰ぎ見て、どうしたらいいのかと叫びながら歩みます。神は沈黙して語ってくださらないことが多い。しかし、神がいつか私たちを顧みてくださる希望を持ちつつ、日々生活していきます。ヨブ記の最後は、神がヨブの前に現れ、ヨブを元の境遇に戻して、以前の二倍の財産と十人の子どもを与えて、彼を労わり慰め、幸福のうちに後の人生を歩み終わらせます。私たちが、このヨブのような幸せな最後を与えられるとは限りません。人生の最後を迎える時に、どうしてこんなに苦しめられるのだ、と叫ばなくてはならないのかもしれません。それでも、神の救いを求めて神を仰ぎ見る時、神は必ず私たちの魂を労わり慰めてくださる。そういう信仰がヨブ記には込められています。
・ヨブ記の言葉「私は知る、私を贖う者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる」は、もともとの意味を超えて、人々に読まれてきました。「仮に自分が無念のままに、汚辱の中で死のうとも、神はそれを知り、いつの日か憐れんで下さるという希望」を人々はこの言葉に見ました。それはイエスの十字架の叫び「わが神、わが神、何故私を見捨て給うのか」とも重なります。人は死ねば「塵に帰る」、虚しい存在です。その虚しい存在が今神により生かされている。今生かされているという事実が、死後も生かされるであろうとの希望を持つことを許します。