江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年2月12日説教(ルカ8:5-8、11-18、信仰の火を輝かせよ)

投稿日:2023年2月11日 更新日:

 

1.種の力に信頼して

 

・イエスの下に大勢の群衆が集まってきた時、イエスは種蒔きの譬えを用いて、神の国の話をされました。「種を蒔く人が種まきに出て行った。まいている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」(ルカ8:5-7)。イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。(8:8)。

・パレスチナでは11月から12月にかけて、まず大麦の、次に小麦の種をまきます。手で畑一杯にまき、その後で耕して種に土をかぶせるのが一般的でした。手でまきますから、種はいろいろなところに落ちます。ある種は道端に落ちました。道端は人が通って踏み固められていますから、種は根を下ろすことが出来ず、やがて鳥が来て食べてしまいます。別な種は土が浅い岩地の上に落ちました。土が浅いため、暖められてすぐに芽を出しますが、根を張っていないため、枯れてしまいます。別な種は茨の間に落ちました。種は発芽し、芽は伸びていきますが、茨でふさがれて実を結べなかった。別の種は良い地に落ちました。肥えて水はけの良い地に落ちれば、種は根を張り、芽を出し、やがて豊かな穂をつけます。

・教会にとって大事な話がここに展開されています。同じ福音を聞いてもある人は信じ、ある人は拒絶します。何故なのでしょうか。それは聞く側の受け入れ方の問題だと、11節から譬えの意味の説明がなされています。種は神の言葉です。神の言葉、福音が宣教された、その言葉が人々の心の中でどのように成長していくのか。道端にまかれた種とは、閉ざされた心に語られた言葉です。人が自分の経験や信条を絶対のものと思う時、他者の言葉を受け入れることが出来ません。イエスの言葉が伝えられても、その種は発芽しない。岩地に落ちた種とは、イエスの言葉や行いを見て感動し、信じますが、すぐに冷めてしまう人たちのことでしょう。日本では毎年数千人が洗礼を受けますが、何年かすると多くの人たちは教会から離れていきます。信仰が一時の感情によって形成され、訓練されないから、すぐに冷めてしまうのです。

・茨の間に落ちた種とは、生活の忙しさの中で神の事柄を締め出してしまう人々のことでしょう。洗礼を受けクリスチャンになっても、この世的には学生であり、職業人であり、家庭の主婦です。仕事が忙しい、家族が反対する、信仰の喜びがない、何時の間にか信仰から離れてしまう人は多い。最期の良い地に落ちた種は、御言葉を聞いて心に刻み、それを日々の生活の中で実行しようとする人々です。御言葉が心に刻まれていますから、何があっても信仰が動揺せず、それを保つ事が出来ます。

 

2.光を隠すな

 

・種が落ちた土壌は私たちの心です。最初、私たちは道端にまかれた種のように心を閉ざし、福音を受け入れなかった。しかし、ある時、御言葉が迫って来て、感動して洗礼を受けた。しかしその感激も冷め、やがて不熱心になっていった。ところが、その冷めた自分を震撼させる人生の出来事があり、その苦悩の中で御言葉が再度与えられ、人生を変える悔改めに導かれた。教会につながり続ける方の大半は、このような内的経験をされたことがあると思います。だから今、ある人が受け入れなくとも心配する必要はない。私たちがそうであったように、時が来れば変えられるからです。御言葉を聞くにも時があり、時が満ちないと聞いてもわからない。だから忍耐して語り続けなさいと言われています。

・種が芽を出すためには、一定期間、土の中で暖められる必要があります。ヨハネ12章24節に次のような言葉があります「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」。麦の種は一旦死んで土の中に入らなければ芽を出すことは出来ません。麦として死ぬことによって、種として生きるようになります。私たちの人生もそうです。不条理な苦しみや悲しみが与えられ、その苦しみを通して低められ、自己を捨てるように導かれます。そして自分が麦であることを忘れて、種に徹した時、やがて種から根が出て、芽が地上に顔を出します。

・私たちはかって、他の人の導きと祈りによって教会に導かれました。言い換えれば、他の人が種になって死んでくれたおかげで収穫された麦の実です。だから今度は私たちが種として自分に死ぬ時です。具体的には、自分のための教会生活から、他者のための教会生活に変えられていく時です。自分の満たしのために教会に来るのではなく、他者の満たしのために教会に来る。これが伝道です。

・ある時私たちは道端に落ち、鳥に食べられた。別の時私たちは岩地に落ち、枯れた。それを悲しむ必要はありません。何故ならば、最後には良い地に落ち、種は芽を出し、成長していく。それは種そのものが力を持つからです。次のような話があります「エジプトのピラミッドの中で一つの壷が発見され、調査のために大英博物館に送られたが、館員が粗相してそれを落として壊してしまった。ところが中から種のようなものが出てきて、それを地面に植えたところ、芽を出して小麦が生えてきた。何千年も前のもので干からびていたが、命があったのである」(榎本保朗「新約聖書一日一章」34頁)。聖書は2000年前に書かれた、旧い本です。しかし、それは今日においても人を生かす命を持ちます。

・ルカはこの「種まきの譬え」に続いて、「ともし火の譬え」を読むように導きます。「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」(ルカ8:16-18)。イエスは弟子たちに、「恐れず福音を伝えよ」と励まされました。福音は闇の世を照らす「ともし火」であり、福音を伝えないのは、「器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする」ことと同じだと。福音には隠そうとしても、現れて世を照らす力があります。福音は闇の世を照らす「ともし火」であり、福音を伝えないのは、「器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする」ことと同じだと言われます。当時の灯りは皿に油と燈心を入れたものでしょうが、油は自らを燃やして、周りを明るくします。そのような生き方が求められています。

 

3.失敗を恐れるな

 

・ルカは「種まきの譬え」と「ともし火の譬え」の締めくくりとして、「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」(ルカ8:16)という言葉を置きます。不思議な言葉です。「持っている人は更に与えられ」との言葉はタラントンの譬え(マタイ13:12)にも現れます。今日の招詞にマタイ25:28-29を選びました。次のような言葉です「さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」。

・マタイ25章の「タラントンの譬え」を読んでいきます。物語は、主人が「旅行に出かける時、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた」(25:14-15)という言葉で始まります。タラントンはお金の単位で、1タラントンは6000デナリオン、日給の6000日分、20年分の年収です。日給1万円とすれば、1タラントンは6千万円になります。非常に大きな金額です。「人は皆、神から多くの賜物を受け、その賜物を生かすように期待されて世に遣わされている」とイエスは語られます。

・喩えを読み進めて行きましょう「五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた」(25:16-17)。最初の二人は預けられたお金を積極的に運用して殖やしました。しかし、最後の僕は「出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた」(25:18)。主人が帰ってきました。「主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました』。主人は言った『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう』」(25:20-21)。二タラントンを預かって殖やした僕も同じように称賛されます。

・最後に一タラントンを預かった僕が報告します。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です」(25:24-25)。彼はお金を用心深く貯蔵しました。彼は主人からの称賛を期待しています「慎重な僕よ、よく管理した」と。ところが主人が与えたのは称賛ではなく、叱責でした。「怠け者の悪い僕だ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、私の金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに」(マタイ25:26-27)。

・そして今日の招詞が語られます「そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」(25:27-28)。僕は叱責され、預けられたお金も取り上げられます。

・その喩えをマタイは、自分たちの教会の現実の中で聞きました。「主人が旅行に出かける時に、その財産を僕たちに預けた」、「主人であるキリストが天に上げられ(旅行に出て)、後の事を弟子たちに委ねられ(タラントンを預け)、やがて帰って来られる(再臨される)」、その時に、教会の群れを委ねられた自分たちはどう生きたのか。マタイの教会にも、「規則を守るだけで何も良いことをしようとしない」人々がいたのでしょう。喩えでは、最後の一人はリスクを避けるために何もしなかった。商売に投資すれば失敗して元金を無くしてしまう可能性もあったからです。彼は言います「主人が恐ろしかった」(25:25)。主人は厳しい人であり、失敗してはいけないと彼は恐れたのです。彼にあるのは主人に対する愛や信頼ではなく、恐怖です。洗礼者ヨハネは神を裁き主と見ていました。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(3:10)。ヨハネの弟子たちは罪を犯さないように、汲々と生きました。しかし私たちが信じるのはヨハネではなく、イエス・キリストです。キリストは失敗をとがめる方ではありません。

・「怠け者の悪い僕」が「持っていた」ものは主人から預かったタラントン(賜物)で、「持っていない」ものはタラントン(賜物)を運用して増やそうという「熱意」でした。与えられた賜物を生かして神の委託に応えるべきなのに、それをしなかった僕は、持っているものまでも取り上げられました。賜物(福音)は死蔵してはいけないのです。マタイはこのタラントンの譬えの後で、「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」(マタイ25:40)とのイエスの言葉を語ります。タラントン(賜物)を活用するとは具体的に何かをマタイは示しています。「最も小さい者に与えるような生き方をせよ」とイエスは言われます。そして仮に失敗しても神はそれをとがめることはなさらない。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(ルカ12:32)方を、私たちは信じているのです。失敗しても良い。教会が自分たちだけの幸せを追い求めていく時、教会ではなくなります。与えられたタラントンを生かしていく、光を隠さずに掲げていく、それがキリスト者の生き方です。

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