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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

聖書教育の学び

2022年8月7日聖書教育の学び(2019年2月20日祈祷会、エペソ6章、積極的従属)

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1.互いに仕え合いなさい。

 

・牧会者は妻に対して、「主に仕えるように夫に仕えよ」と命じ、夫に対しても、「キリストが教会の為に身を捨てられたように、妻を愛せ」と命じる。そこにあるのは従属関係ではなく、仕え合う関係だ(エペソ5:22-25)。「与えられた関係の中で、互いに仕え合いなさい」と命じられる。同じ命令が父と子にも言われる。

-エペソ6:1-4「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい・・・父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい」。

・その関係は主人と奴隷の関係にも適用される。エペソ書は奴隷たちに、「自由になれ」とは教えない。当時の社会にあって、奴隷が主人に反抗すれば死を招いた。殺されるのが主の御心ではない。

-エペソ6:5-7「奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい」。

・神が奴隷という身分を与えられたのであれば、与えられた身分のままに、何を主が望んでおられるか、を求めて生きよ。それは諦めではない。積極的従属なのだ。

-第一コリント7:20-22「おのおの召された時の身分にとどまっていなさい。召された時に奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです」。

・主人が無慈悲な主人であっても、主に仕えるように仕える。しかし主人が悪を命じた時にも従うのではない。「主に従うように」という言葉が判断基準になる。

-エペソ6:8「奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、誰でも主から報いを受けるのです」。

・世の道徳は目下の者にのみ服従を要求するが、聖書は違う。主人もまた神の支配下にある者として、服従の命令下にある。キリストにあっては主人も奴隷もない。それを知るならば、奴隷である事を悲しむな。

-エペソ6:9「主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っている通り、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです」。

 

2.悪と戦え

 

・著者はこの邪悪な時代にあって、「悪に負けずに戦え」という。戦うには武装しなければいけない。

-エペソ6:10-13「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。私たちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」。

・神の武具とは真理・正義・平和であり、放つものは信仰・救い・御言葉だ。

-エペソ6:14-17「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、即ち神の言葉を取りなさい」。

・与えられた武具は全て防御用だ。それは人を傷つけるものではなく、人を生かすものだ。唯一の攻撃道具は神の言葉だ。神の言葉に信頼して戦え、善を持って悪に勝てと命じられている。

-ローマ12:17-21「誰に対しても悪に悪を返さず、全ての人の前で善を行うように心がけなさい・・・愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐は私のすること、私が報復すると主は言われる』と書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。

・そして祈り続けよ。祈りこそ真の武具であり、大きな力を持つとパウロは言う。

-エペソ6:18「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、全ての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」。

 

3.エペソ6章の黙想(積極的従属)

 

・6章では子どもに対して「両親に従いなさい」と説かれている。古代において、子が親に従うことは当然だったが、ここでは同時に父に対して、「子供を怒らせてはなりません」と説かれている。当時の子どもたちは何の権利も持たなかった中で、子どもたちの人格を敬うようにと言われている。しかも「主がしつけ諭されるように育てなさい」と言われる。子が親に従う、親が子を人格として敬うことが、信仰の行為として説かれている。これは今までになかったことだ。

*近年の子供へ虐待増加に伴い、「親の懲戒権を民法から削除する」、「体罰禁止を児童虐待防止法に明記する」等の動きが出ている。その中で2000年前にこのような手紙が書かれたことはすごいことだ。

・6章5節からは、奴隷は「主人に従いなさい」と説かれている。当時は奴隷制社会で、教会指導者たちは「奴隷制をやむを得ないもの」と受け入れているのではない。9節以下では主人に対して、「奴隷を敬いなさい」と言われている。当時の慣習では、奴隷は殺そうが、病気で死なせようが、主人の意のままだった。しかし、著者は主人に言う「奴隷も主人も共に主のものだ、奴隷を虐待することは、主の体を鞭打つ行為なのだ」と戒められている。

・著者は何故、子どもや妻に従属を勧めるのだろうか。それは従属する以外に彼らの生きる道がなかったからだ。子どもは親なしでは生きることは出来ず、妻は夫に従うしか生計を立てる方法はなかった。他に選択肢がない状況下であれば、それを主が与えて下さった道として、「積極的に選び取れ」と語られている。

・第二ペテロ書はさらに難しい要求を奴隷たちに求める。そこでは無慈悲な主人であっても従えと求められている。仕方がないという諦めではなく、もっと積極的な従うことが求められている。

-第二ペテロ2:18-19「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」。

・何故なら、「キリストはののしられてもののしり返さず、苦しめられても報復されなかった。だからあなた方も与えられた人生の中で最善を尽せ」と。第二ペテロ書は妻にも同じことを語る。「夫が未信者であることを歎くより、信仰に基づいた従属を通して、夫に信仰とは何であるかを示せ」、「あなたを通して夫が信仰に入るために未信者の夫が与えられた」、そのために最善を尽くせと言われている。

-第二ペテロ3:1-2「妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです」。

・エペソ書やペテロ書が述べているのは、「諦めの教え」ではない。奴隷の身分から解放される機会があればその機会を生かせ、しかし奴隷であることを不当として逃走し、一生を逃げ隠れすることが神の御心ではない事を知りなさいと言われている。婦人に対しては、どのような夫であれ従いなさい、しかし夫が死ねば再婚しても良いと言われている。「無慈悲な主人、不信仰の夫、かたくなな父、このような現実から目をそむけるな、あらぬ夢を見るな、現実に立ち向かえ、現実を導きとして積極的に従って行きなさい」、これこそがキリストが為されたことであり、あなた方が従う道なのだと言われている。

・ここにおいて、主体的選択による従属の意味がある。現在の境遇は神が与えてくれたものだ。それに不満を述べ、一時逃れの行為をしても、そこからは何も良いものは生まれない。むしろ、与えられた夫、与えられた父、与えられた主人を敬い、従うことを通して、道が開かれて来る。ここに支配と従属に代わる新しい掟、僕として仕えていく「積極的従属」の意味がある。「与えられた境遇の中で、何が神の御心であるかを求めていくのが、足が地に付いたキリスト者の生き方ではないか」と語られる。

・人は言うだろう「奴隷制はなくなった。婦人の経済的自立も進んだ。子どもの人格も尊重される時代だ。2000年前とは違う」。でもそうなのか。奴隷主はいなくなったが、それに代わる企業や団体が専制的雇用主として働く人を縛っている。現代の過労死と古代の虐待死は同じではないか。婦人の職業進出は進んだが、多くの既婚婦人は配偶者控除の要件を満たす103万円以下の労働を行っており、これでは自立は不可能だ。子どもたちには厳格な父親の代わりに、試験で能力判定をされ、高校や大学を中退した者には職業選択の自由はない。基本的状況は2千年まえと何も変わっていないのではないか。

・この「積極的従属」を現代語に翻訳した人が、アメリカの神学者ラインホルド・ニーバーだ。彼の「冷静を求める祈り」は深い意味を持つ。

-ニーバーの祈り「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」。

―Reinhold Niebuhr /THE SERENITY PRAYER「O God, give us serenity to accept what cannot be changed, courage to change what should be changed, and wisdom to distinguish the one from the other.」

-聖書教育の学び

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