江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年2月24日祈祷会(詩編90篇、生涯の日を正しく数えよ)

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1.人の生涯のはかなさの中で

 

・詩編90篇は人生のはかなさの中で、神の永遠性を讃える歌であり、伝統的に葬儀の中で読まれてきた。「死とは何か」、「人の生涯とは何か」を考えさせる詩編である。最初に「主は世界創造の前からいます方」と歌われる。

-詩編90:1-2「主よ、あなたは代々に私たちの宿るところ。山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神」。

・神の永遠性に比し、人は塵にすぎない。人(ヘブル語エノシュ、弱いもの)は塵から生まれたゆえに塵に帰る(創世記3:19)。私たちの人生は死によって限界づけられている。朝に咲く花も夕べには枯れてしまうように、生涯を終えた肉体は、「塵に帰る」。

-詩編90:3-6「あなたは人を塵に返し、「人の子よ、帰れ」と仰せになります。千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。あなたは眠りの中に人を漂わせ、朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます」。

・ここでは人生のはかなさが嘆かれているのではない。有限存在である人に対し無限なる神が関わりを持たれる、そのことの意味を求めよと詩人は言う。隠れた罪も不義も神の前に明らかにされ、その罪の結果として死がある。

-詩編90:7-9「あなたの怒りに私たちは絶え入り、あなたの憤りに恐れます。あなたは私たちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。私たちの生涯は御怒りに消え去り、人生はため息のように消えうせます」。

・私たちの人生は70年か80年にすぎない。どのように成功した人も健康に恵まれた人もやがて死ぬ。振り返れば人生は労苦と災いだ。しかしそれはまた神の摂理の中にある時間であり、意味がある時間でもある。

-詩編90:10-11「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります。御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれて、あなたの憤りをも知ることでしょう」。

 

2.生涯の日を正しく数えよ

 

・私たちは生まれ、死んでいく。人生は誕生と死の間にある一時の時だ。しかし、多くの人は自分がこの限界の中にあることを認めようとしない。自己の限界を知ることが「生涯の日を正しく数える」ことだ。世の若者たちは死ぬことを考えないし、老人たちは自分たちの時代はもう終わったとして人生を諦める。そうではなく、若いうちから死を覚えて現在を誠実に生き、歳をとればこの世での残された日々を大切に生き、死ねば天に召される。生かされているとは、そのような希望を持つということだ。

-詩編90:12「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」。

・有限性を知るということは、自分が被造物に過ぎない、死に対する決定権が自分にはないことを認めることだ。そこから創造者である神を思う心が生まれる。死を恐れずに死と向き合う唯一の道は、命の創造者である神を覚えることだ。

-詩編90:13-15「主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。あなたが私たちを苦しめられた日々と、苦難に遭わされた年月を思って、私たちに喜びを返してください」。

・詩人は「私たちの手の働きを確かなものにして下さい」と祈る。人間が限られた生涯の中に為しうることは有限だ。しかし神はその有限な人間の業を用いて御心を為される。従って御心にかなった業は有限性を超えて永遠に残りうる。永遠に残るものとそうでないものを判別する知恵を詩人は求める。

-詩編90:16-17「あなたの僕らが御業を仰ぎ、子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。私たちの神、主の喜びが、私たちの上にありますように。私たちの手の働きを、私たちのために確かなものとし、私たちの手の働きを、どうか確かなものにしてください」。

・私たちは小児期-青年期-壮年期-老年期を経て死に至る。信仰者はその死後に永遠の命を希望する。永遠の命を求める時、何を為すべきか、何が大事で何がそうでないかは自然と峻別されるだろう。イエスは日常の雑事に忙殺され自分を手伝わない妹を非難したマルタに言われた「本当に必要なものは多くはないのではないか」と。

-ルカ10:41-42「主はお答えになった『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない』」。

・死とは何だろう。それは破滅なのか、聖書はそうではないという。私たちはこの地上で労苦と災いの中で人生を終える。そして人生を走り終えた時、主は私たちに言われる「あなたは十分に労苦した。私の元に帰れ、そして休めよ」と。死とは「天に帰る」ことなのだ。

-ヨハネ11:25-26「イエスは言われた『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』」。

 

3.詩篇90編の黙想

 

・多くの人は「死ですべてがなくなる」ことに恐怖を感じ、できるだけ死を考えまいとする。中学生の少女は死の向こうにある虚無の怖さについて、新聞に投書した。

-2022年2月7日朝日新聞投稿「死んだら、どうなるんだろう。私はよく、そんなことを考える。天国や地獄という死後の世界が本当にあって、そこで存在し続けることができるのなら、そう願いたい。けれども、死によって私の意識も、心も、何もかもが永遠に消え失せてしまうとしたら。いま、これを書きながらも私は、底なし沼に沈んでいくような恐怖に襲われている・・・まわりの友人に聞いてみるとやはり、恐ろしくて考えるのをやめるという。この恐怖からどうやって逃げたらいいんだろう。大人になったら、怖くなくなるのだろうか。死は、この世で命を授けられた生き物すべての宿命なのだと、改めて思う。生きるということは、死へ近づいていくこと。恐ろしいが、しかしそれに気づいたからこそ、この命を何かのため、だれかのために使い切りたいとも思う。死ぬ時、私は十分頑張ったと思えるような人生にしたい。そのために、私はどうしたらいい。答えを見つけるべく、いまこの時を生きていこうと思う」。

・信仰者にとって、死は慰めであり、救いの時だ。個人の終末=死とはキリストと共にいる生活に入ることであり、心配したり、歎いたりする時ではない。それでも死は怖い。日本基督教団議長を務めた鈴木正久牧師は死が避けられないことを知り、嘆いた。彼を再び立ち上がらせたのは、フィリピ1章の言葉だった。

-鈴木正久「病床日記」「フィリピ人への手紙を読んでもらっていた時、パウロが自分自身の肉体の死を前にしながら非常に喜びにあふれて他の信徒に語りかけているのを聞きました。パウロは、生涯の目標を自分の死の時と考えていません。それを超えてイエス・キリストに出会う日、キリスト・イエスの日と述べています。そしてそれが本当の「明日」なのです。本当に明日というものがあるときに、今日というものが今まで以上に生き生きと私の目の前にあらわれてきました」。

・鈴木正久氏が読んでもらった箇所はフリピ1:21以下であった。

-フィリピ1:21-24「私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、私には分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です」。

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