1.巡礼の歌
・この歌は、主の家(神殿)に巡礼する信仰者の喜びを歌ったものだと言われる。ただ「主の庭を慕って私の魂は消え去りそうだ」、「命の神に向かって身も心も叫ぶ」等の表現より、今は神殿での礼拝が出来なくなったバビロン捕囚の民の魂の叫びと解する人もあり、後者が全体の詩理解にふさわしいと思える。ここでは捕囚民の歌として聞いていきたい。
-84:2-5「万軍の主よ、あなたのいますところは、どれほど愛されていることでしょう。主の庭を慕って、私の魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、私の身も心も叫びます。あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り、つばめは巣をかけて、雛を置いています。万軍の主、私の王、私の神よ。いかに幸いなことでしょう、あなたの家に住むことができるなら、まして、あなたを賛美することができるなら」。
・イスラエルにおいては男子は年に三度の祭りの時には神殿に参ることを義務付けられていた。祭りの時には全土からの巡礼者がエルサレム神殿にあふれた。イエスも過ぎ越しの祭りにはエルサレムに行かれた。
-申命記16:16-17「男子はすべて、年に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない。ただし、何も持たずに主の御前に出てはならない。あなたの神、主より受けた祝福に応じて、それぞれ、献げ物を携えなさい」。
・かつて詩人もエルサレム神殿で礼拝を捧げていた。しかし今は捕囚の身になり、何千キロも離れた地で、神殿での礼拝を懐かしんでいる。詩人は主に願う「主よ、私たちの王も捕らわれ人となり、今この捕囚地にいます。どうかあなたが油を注がれた方を顧み、再びイスラエルの地に戻して下さい」と。
-詩編84:9-10「万軍の神、主よ、私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ、耳を傾けてください。神よ、私たちが盾とする人を御覧になり、あなたが油注がれた人を顧みてください」。
・イスラエルの歴史を回顧する列王記は捕囚地で書かれ、囚われ人となったエホヤキン王の釈放で終わる。そこには王がやがてエルサレムに戻り、祖国を再建することを願う気持ちがあふれている。
-列王記下25:27-30「ユダの王ヨヤキンが捕囚となって三十七年目の第十二の月の二十七日に、バビロンの王エビル・メロダクは、その即位の年にユダの王ヨヤキンに情けをかけ、彼を出獄させた。バビロンの王は彼を手厚くもてなし、バビロンで共にいた王たちの中で彼に最も高い位を与えた。ヨヤキンは獄中の衣を脱ぎ、生きている間、毎日欠かさず王と食事を共にすることとなった。彼は生きている間、毎日、日々の糧を常に王から支給された」。
2.主の家で過ごす一日は
・かつてエルサレム神殿で礼拝を捧げている時は、それが当たり前だと思っていた。しかし、捕えられ、異邦人の地で(=主に逆らう者の天幕で)住む身になった今、その礼拝がどれほど喜びに満ちたものであったか、どれほど大切なものであったかを思い起こす。まさに主の家で過ごす一日は異邦の地の千日にも勝る恵みであった。
-詩編84:11「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは、私の神の家の門口に立っているのを選びます」。
・人はみな寄留者であり、私たちすべてが捕囚地にいる。今無縁社会の孤独感が若い人にも広がっている。NHK無縁社会スペシャル「つながりを求めて」が放映された時、15,000通もの電話が局にあったという。
-「誰も助けてくれる人はいません。もう限界です。孤独で心が折れそうです」
-「苦しい夜は電話をかけます。つながらなくても呼び出し音だけで、つながれているような気がしています」
-「介護していた父が亡くなり、それ以降、独り暮らし。誰も話し相手がいないことが、こんなにもつらいものなのだと初めて知りました」、
-「私は誰にも必要とされていないのではないか。もうそれだったら終わりにするしかない」、
・日本では毎年50万人が自殺を試み(既遂3万人)、うつ病者が70万人、引きこもり者が100万人以上とされている。こういう人にも主に出会ってほしい、そのために私たちがいる。
-詩編84:12-13「主は太陽、盾。神は恵み、栄光。完全な道を歩く人に主は与え、良いものを拒もうとはなさいません。万軍の主よ、あなたに依り頼む人は、いかに幸いなことでしょう」。
・番組にはNPO法人「白浜レスキューネットワーク」の代表者・藤藪牧師も参加していた。自殺の名所・白浜三段壁の近くにある白浜バプテスト教会の牧師だ。教会では自殺未遂者で帰る所のない人を教会内で共同生活を送らせ、その中からバプテスマ者が出て、やがて彼らがNPO活動の担い手になっているという。まさにそこに、「嘆きの谷を泉とし、狭き道を広き道にする」活動があるのではないだろうか。
-詩編84:6-8「いかに幸いなことでしょう、あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。彼らはいよいよ力を増して進み、ついに、シオンで神にまみえるでしょう」。
・ルターはこの詩編についての黙想を残している。人生の幸せとは何かを考えさせる言葉だ。
-詩編84篇に対する黙想「この世を富める者、力ある者、知恵ある者の所有とさせるが良い。彼らの慰めはこの世にあるのだ。彼らの知恵と力と富と所有とを信頼させ、許すが良い。私の心は生ける神において価値を得る」。
3.詩編84篇参考資料 同じ出来事が天国にも地獄にもなる「死の谷を過ぎて~クワイ河収容所を読んで」
・死の陰の谷を行くときも、私は災いを恐れない。あなたが私と共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それが私を力づける(詩編23編4節)。「死の谷を過ぎて~クワイ河収容所」という書籍がある。第二次世界大戦下、インドシナ半島を占領した日本軍は、ビルマへの陸上補給のために、連合軍捕虜を使って、泰緬鉄道を建設する。後に「死の鉄道」と名付けられたように、多くの生命が犠牲となった。著者ゴードンは書く「飢餓、疲労、病気、隣人に対する無関心、私たちは家族から捨てられ、友人から捨てられ、自国の政府から捨てられ、そして今、神すら私たちを捨てて離れていった」。
・著者は収容所で病気に罹り、「死の家」に運び入れられ、人生を呪いながら命が終わる日を待っていた。その著者のもとに、友人たちが訪れ、食物を食べさせ、足の包帯を替え、体を拭く奉仕をする。著者は次第に体力を回復し、彼らを動かしている信仰に触れて、聖書を読み始める。彼は記す「神は私たちを捨てていなかった。私はクワイ河の死の収容所の中に神が生きて、自ら働いて奇跡を起こしつつあるのをこの身に感じていた」。
・彼は奉仕団を結成して病人の介護を行い、聖書を共に読み、礼拝を始める。死にゆく仲間の枕元で聖書を読み、死を看取る。無気力だった収容所の中に笑い声が聞こえ、賛美の歌声が聞こえてくるようになり、彼は思う「エルサレムとは、神の国とはここの収容所のことではないか」。
・彼は最後に書く「人間にとって良きおとずれとは、人がその苦悩を神に背負ってもらえるということである。人間が最も悲惨な、最も残酷な苦痛の体験をしている時、神は私たちと共におられた。神は苦痛を分け持って下さった。神は私たちを外へ導くために死の家の中に入ってこられた」。
・注目すべきは、他の収容所でもこのような奇跡が起こったわけではない。同じイギリス人の描いた「クワイ河捕虜収容所」(レオ・ローリングス著)の副題は「地獄を見たイギリス兵の記録」である。ゴードンは「神の国」を見たのに、ローリングスは「地獄」を見た。ゴードンとローリングスを分けたものは何か。信仰による希望であろう。他者を赦し、迎え入れる時、死の谷の収容所で起きたような奇跡が起こる。天国と地獄を分けるのは、私たちいかんではないかと思える。
・詩編84:6-8は歌う「いかに幸いなことでしょう、あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。彼らはいよいよ力を増して進み、ついに、シオンで神にまみえるでしょう」。狭い道を広くするのも、嘆きの谷を祝福の地にするのも、私たち信仰者に委ねられた仕事なのだと思う。捕囚の民が流浪の地で主に出会ったように、私たちも寄留の地(この世)で主に出会い、励まされ、隣人に仕えて行く。