1.「神の小羊」というヨハネのイエス紹介
・イエスは洗礼者ヨハネの「神の国は来た。悔改めよ」との呼びかけに共感し、ヨハネの弟子となり、共同生活の中に入った。ヨハネはイエスの中に聖性を見て言った「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」。
-ヨハネ1:29-31「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。』」
・ヨハネは「自分がメシアではない」ことを知っており、メシアを待望していた。ヨハネ福音書は最初の出会いの時から、ヨハネが「イエスこそ救い主であることを啓示された」とする。
-ヨハネ1:30-31「『私の後から一人の人が来られる。その方は私にまさる。私より先におられたからである』と言ったのはこの方のことである。私はこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、私は水で洗礼を授けに来た。』
・ヨハネはイエスに洗礼を授けたが、その時、聖霊が鳩のように降り、イエスに上に止まるのを見た。ヨハネはその体験から、「イエスこそ神の子であると信じた」とヨハネ福音は証言する。
-ヨハネ1:32-34「そしてヨハネは証しした。『私は“霊”が鳩のように降って、この方の上にとどまるのを見た。私はこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるために私をお遣わしになった方が、「“霊”が降って、ある人に留まるのを見たら、その人が聖霊によって洗礼を授ける人である」と私に言われた。私はそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。』」
・マタイやルカは「ヨハネはイエスがメシアかもしれないと期待していたが、その後のイエスの言行を見て、イエスを疑い始めた」と記録する。歴史的にはマタイやルカの記述のほうが正当であろう。
-マタイ11:2-6「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。』イエスはお答えになった。『・・・私につまずかない人は幸いである。』」
2.最初の弟子たちの招き
・イエスの最初の弟子は、元々洗礼者ヨハネの弟子たちであった。ヨハネはイエスを見て、「見なさい。あの方が神の小羊だ」と自分の弟子たちに教えた。ヨハネはまるで「イエスに従え」と言わんばかりであった。二人の弟子はすぐイエスに従い、イエスと同じ宿に泊まり、そのままイエスの弟子となった。
-ヨハネ1:35-39「その翌日、また、ヨハネは二人の弟子たちと一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、『何を求めているのか』と言われた。彼らが、『ラビ、どこに泊まっておられるのですか』と言うと、イエスは、『来なさい。そうすれば分かる』と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった」。
・イエスに従った二人の内の一人が、シモンの兄弟アンデレであった。アンデレはシモンをイエスに会わせると、イエスはシモンを見つめ、ケファ(岩)と名づけた。
-ヨハネ1:40-42「ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人の内の一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、『私達はメシア、油を注がれた者、に出会った。』と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、『あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ(岩)と呼ぶことにする。』と言われた。」
・マルコ福音書はイエスが弟子たちを召命されたのは、ガリラヤであったと伝える「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは『私について来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った」(マルコ1:16-18)。ヨハネ福音書は「洗礼者ヨハネの弟子たちの中で、ガリラヤ出身の者たちがイエスに従うようになった」とする。異なる伝承がある。ヨハネの記事のほうが歴史的には正しいと思われる。しかし、「ついて来なさい」というイエスの招きに、人々が応え、従って行ったという事実は共通である。
3.フィリポとナタナエル、弟子となる
・翌日ガリラヤへと向かったイエスはフィリポに出会い、彼を招く。フィリポはさらにナタナエルに出会い、イエスを「ナザレから出たメシアである」と紹介する。
-ヨハネ1:40-46「その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、『私に従いなさい』と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。フィリポはナタナエルに出会って言った。『私たちは、モ-セが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。』するとナタナエルが『ナザレから何か良いものが出るだろうか』と言ったので、フィリポは、『来て見なさい』と言った。」
・イエスはナタナエルを見ると、「ここに本当のイスラエル人がいる」と言われた。ナタナエルはイエスが自分を知っていることに驚く。イエスは「フィリポが誘う前のあなたをいちじくの木の下で見た」と言われた。いちじくの木は夏、葉が茂り、その日陰で黙想するのに相応しかった。ナタナエルはそれを聞いて、イエスをメシアと信じた。
-ヨハネ1:47-49「イエスはナタナエルが、御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。『見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。』ナタナエルが、『どうして私を知っておられるのですか』と言うと、イエスは答えて、『私は、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た』と言われた。ナタナエルは答えた。『ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。』」
・イエスは「ヤコブがベテルで、天に届く梯子の夢を見た」という創世記の記事を引用し、彼らに希望を与えた。ヤコブは犯した罪の報いで故郷を逃げ出し、悔恨の旅を続け、ベテルまで来た時、日暮となり、石を枕に眠り夢を見る。その夢は天まで届く梯子を天使が昇り降りする夢だった。その後、彼は神から祝福を受ける。この夢がその後のイスラエル人の信仰(神はいつでも共におられる)の原点となった。
-ヨハネ1:50-51「イエスは答えて言われた。『いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。』更に言われた。『はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。』」
4.この聖書箇所が私たちに教える「伝道のあり方」
・注目すべき言葉の最初は、「来て見なさい」である。イエスはヨハネの言葉を受けて自分の所に来たアンデレに「来なさい、そうすれば分かる」と言われ、二人は従い、イエスがメシアであることを知る。ピリポも「私に従いなさい」という言葉に従い、イエスの弟子となる。そのピリポが今度はナタナエルに「来て、見なさい」と誘い、ナタナエルもまたイエスにひざまずく者になる。その人に会い、その人の話を聞き、自分で確認することにより、出会いが起こる。私たちがキリストと出会うことが伝道の第一歩である。
・次に、そこでは証言の連鎖によって伝道が為されている。洗礼者ヨハネはイエスを、「見よ、神の子羊」と弟子たちに証言し、その言葉が二人をイエスに導いた。導かれたアンデレは自分の兄弟ペテロを探し「私たちはメシアに出会った」と証言し、その証言がペテロをイエスに導いた。ペテロはピリポに証言し、ピリポは更に知人のナタナエルに証言し、彼をイエスの下に導く。ヨハネからアンデレへ、アンデレからペテロへ、ペテロからピリポへ、ピリポからナタナエルへとキリストが証言されて行く。伝道とは、自分が出会ったもの、見出したものを、隣人に伝えていく行為である。これが伝道の二番目のステップである。
・三番目に、そしてもっとも大事だと思われるものは、「留まる」という言葉だ。弟子たちがイエスに「先生、どこに泊まっておられますか」と尋ねた時の「泊まる」と言う言葉は、「メノー」と言うギリシャ語だ。このメノーはヨハネ福音書の鍵となる言葉で、「泊まる」と言うよりも「留まる」という意味を持つ。二人は「今夜どこに宿泊するのですか」と言う表面的な問いと同時に、「神の救いの計画の中であなたはどこに留まっているのですか」という内面的な問いをイエスにしている。だから、その日、彼らは「ついて行って」、「イエスがどこに留まっているか」を見届け、「彼らもそこに留まり」、「私たちはメシアに会った」と証言するようになる。私たちも様々な出来事の中で教会に留まり続け、証言者として働いていく。