1.老年期に苦難に追い込まれた詩人
・70人訳では、本詩の表題を「ダビデに、ヨナタブの子らと最初に囚われた者たちの」とする。「ヨナタブの子ら」と呼ばれる神殿詠唱者の一人が作った詩であろう。彼は若い時から「主の驚くべき御業」を学び、竪琴を奏でつつ、同胞にそれを歌って聞かせる詠唱者であったとみられる。
-詩編71:14-22「私は常に待ち望み、繰り返し、あなたを賛美します。私の口は恵みの御業を、御救いを絶えることなく語り、なお、決して語り尽くすことはできません・・・神よ、私の若い時からあなた御自身が常に教えてくださるので、今に至るまで私は驚くべき御業を語り伝えて来ました・・・私もまた、私の神よ、琴に合わせてあなたのまことに感謝をささげます。イスラエルの聖なる方よ、私は竪琴に合わせてほめ歌をうたいます」。
・しかし彼は老いを控えて、不慮の災厄に見舞われ(7節「多くの人が驚く」は下された災いについての驚き)、彼を良く思わない者たちは彼を「神が見捨てられた」と考え、神殿の務めから排除しようとした。
-詩編71:9-12「老いの日にも見放さず、私に力が尽きても捨て去らないでください。敵が私のことを話し合い、私の命をうかがう者が共に謀り、言っています『神が彼を捨て去ったら、追い詰めて捕えよう。彼を助ける者はもういない』と。神よ、私を遠く離れないでください。私の神よ、今すぐ私をお助けください」。
・「神が彼を捨て去った」、人々が「神の怒り」に違いないと驚くほどの苦難、重い病(おそらくはらい病)に罹り、彼は神殿職務から排除されたのであろうか。神殿奉仕者がらい病に罹る、想像できない苦しみがそこにある。今日でいえば牧師が重い精神障害に罹患したような状況であろうか。その中で詩人は神の正義(ツェダカー、2節・恵みの御業)に頼り、救済を求める。
-詩編71:1-4「主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく、恵みの御業によって助け、逃れさせて下さい。あなたの耳を私に傾け、お救いください。常に身を避けるための住まい、岩となり、私を救おうと定めて下さい・・・あなたに逆らう者の手から、悪事を働く者、不法を働く者の手から私を逃れさせて下さい」。
2.神の希望と人の希望
・主なる神はこれまで彼を守り導いてくれた故に、絶望の底にあっても彼は希望を失わない。この世の希望は現在の状況の延長線上にある。「そうなるだろう」、「そうなってほしい」という希望だ。しかし神にある希望は、神の約束は必ず成就すると信じて望むことだ。だから現在の状況がいかに絶望的であっても希望することが出来る。
-詩篇71:5-6「主よ、あなたは私の希望。主よ、私は若い時からあなたに依り頼み、母の胎にある時からあなたに依りすがって来ました。あなたは母の腹から私を取り上げて下さいました。私は常にあなたを賛美します」。
・詩人は弦を奏でつつ同胞にそれを歌って聞かせる詠唱者であった。その彼が老年になって苦難を与えられる。彼は祈る「私は若き日より、イスラエルの民に果たされた神の不思議な御業を同胞に伝えて来ました。神よ、老いて白髪になった私ではありますが、どうかこの務めを果たさせてください」。
-詩編71:18-21「私が老いて白髪になっても、神よ、どうか捨て去らないでください。御腕の業を、力強い御業を、来るべき世代に語り伝えさせてください。神よ、恵みの御業は高い天に広がっています。あなたはすぐれた御業を行われました。神よ、誰があなたに並びえましょう。あなたは多くの災いと苦しみを私に思い知らせられましたが、再び命を得させて下さるでしょう。地の深い淵から再び引き上げて下さるでしょう。ひるがえって、私を力づけ、すぐれて大いなるものとしてくださるでしょう」。
・詩人は、「どうか私がこの務めを果たし続けることができるように、あなたの恵みを与えて下さい」と祈り続ける。
-詩編71:22-24「私もまた、私の神よ、琴に合わせてあなたのまことに感謝をささげます。イスラエルの聖なる方よ、私は竪琴に合わせてほめ歌をうたいます。私の唇は喜びの声をあげ、あなたが贖って下さったこの魂は、あなたにほめ歌をうたいます。私の舌は絶えることなく恵みの御業を歌います。私が災いに遭うことを望む者がどうか、恥と辱めに落とされますように」。
3.詩篇71編の黙想
・詩篇71編は老いが近づき、神殿の務めから排除された者の嘆きの声である。苦難と孤独の中で死を迎えようとしている心を歌った詩篇88編と近似する。
-詩篇88:14-13「主よ、私はあなたに叫びます。朝ごとに祈りは御前に向かいます。主よ、なぜ私の魂を突き放し、なぜ御顔を私に隠しておられるのですか。私は若い時から苦しんで来ました。今は、死を待ちます。あなたの怒りを身に負い、絶えようとしています。あなたの憤りが私を圧倒し、あなたを恐れて私は滅びます。それは大水のように、絶え間なく私の周りに渦巻き、いっせいに襲いかかります。愛する者も友も、あなたは私から遠ざけてしまわれました。今、私に親しいのは暗闇だけです」。
・イザヤの描く「主の僕」も、詩人と同じ重い病に冒されていたと思われる。
-イザヤ53:1-4「私たちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠し、私たちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた『神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ』と」。
・しかし彼は私たちのために贖罪の苦しみを担った。それ故神は彼が恥辱から回復することを許された。救いは死を超えて存在する。
-イザヤ53:11-12「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。私の僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。それゆえ、私は多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった」。
・詩人は神との平和の中にある。その時、どのような苦難の中でも神を賛美することが出来る。そして希望を持ち続ける者はどのような状況でも生き残ることが出来る。ヴィクトール・フランクルは言う「収容所を生き残ったのは体力の優れた者たちではなく、希望を失わなかった者たちだった」(夜と霧~アウシヴィッツからの帰還)。
-ローマ5:3-5「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望は私たちを欺くことがありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」。