1.イエスの姿が変わる
・イエスは受難予告の後に、高い山(ガリラヤ北東部ヘルモン山といわれる)に上り、そこで変貌の姿を弟子たちに見せたとマタイは伝える。「山上の変貌」の記事である。イエスが三人の弟子を連れて山に登られた時、イエスの姿が弟子たちの目の前で輝くような姿に変わった。
-マタイ17:1-3「六日の後、イエスはペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変り、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見るとモ-セとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた」。
・弟子たちには何が起きたのか、理解できない。イエスの姿が彼らの目の前で変り、「顔は太陽のように輝き、目は光のように白くなった」とマタイは記す。イエスの突然の変貌を目撃したペトロは、「仮小屋を三つ建てましょう」と言う。彼は茫然自失していた。
-マタイ17:4「ペトロが口をはさんでイエスに言った。『主よ、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、私がここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモ-セのため、一つはエリヤのためです』」。
・現れたモ-セとエリヤは、これから受難を迎えるイエスを励ましたとされる。並行記事のルカではイエスがこれからエルサレムで迎える受難について語り合ったと記している。「最後」と訳されている言葉の原語は「エクソダス=脱出」、旅立ちの意味だ。十字架は終わりではなく、新しい旅立ちであることを、二人はイエスに話し、励ました。
-ルカ9:30-31「見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」。
・そして天から声が聞こえたとマタイは記す「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」。イエスの洗礼の時に天から下った声と同じである。
-マタイ3:16-17「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき『これは私の愛する子、私の心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」。
・山上の変貌の記事は日常体験とかけ離れており、理解が難しい。聖書学者は、この出来事は弟子たちの復活者イエスとの顕現体験が、イエスの地上活動の中に反映されたのではないかと考える。復活されたイエスは「高い山」で弟子たちに現われている(マタイ28:16)。
-マタイ17:5-8「ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、『これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。『起きなさい。恐れることはない。』彼らが顔を上げて見ると、イエスのはかにはだれもいなかった。」
・ペテロはこの時の体験を第二ペテロ書に記している。手紙が書かれたのはペテロの晩年、教会は迫害の中にあり、ペテロ自身も殉教の時が近づいている中で、信徒たちに励ましの手紙を書く。信徒たちは迫害の中で信仰が揺らぎ始めていた。「仲間が殺されても、神は何もして下さらない。信徒を守ることの出来ない神は本当の神なのか」。その信徒たちにペテロは述べる「私が話したことは作り話ではない。私はイエスと共に山に登り、そこでイエスが神の栄光に包まれるのをこの目で見た。そして、神の言葉をこの耳で聞いた。私はイエスの十字架の死もその復活も見た。イエスは神の子だ。御子は再び来られるから、忍耐を持ってその日を待て」と。
-第二ペテロ1:16-18「私たちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、私たちは巧みな作り話を用いたわけではありません。私たちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これは私の愛する子。私の心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。私たちは、聖なる山にイエスといた時、天から響いてきたこの声を聞いたのです」。
2.人々はエリヤが来たのに認めなかった
・山を下りる時、イエスは山で見たことを、「復活の時まで誰にも話すな」と弟子たちに口止めした。その時がまだ来ていないからである。この記事も、山上の変貌の出来事が復活のイエスとの顕現体験であったことを示唆する。
-マタイ17:9「一同が山を下りる時、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない』と弟子たちに命じられた」。
・弟子たちはメシア来臨についてイエスに質問した。山上でエリヤが現れたことが、この質問のきっかけとなった。イエスはマラキ書を引用して「確かにエリヤが来た」(マラキ3:23-24)と語るが、人々は来臨したエリヤを受け入れなかったと批判した。その時、弟子たちはイエスが洗礼者ヨハネのことを言っていると悟る。イエスはヨハネの死に自分のこれから来る死を重ねて見ている。
-マタイ17:10-13「彼らはイエスに、『なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか』と尋ねた。イエスはお答えになった。『確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。言っておくが、エリヤはすでに来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。』そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。」
3.この物語をどう聞くか
・信仰の世界において、神秘的な体験あるいは超越的な出会いはある。パウロの回心は、ダマスコ途上での復活のイエスとの出会いから来たし、アウグステイヌスやルターも不思議な出会い体験をしている。しかし、今日の聖書個所で大事なことは、不思議な出来事があったということではなく、この出来事を通して、一行が力をいただき、山を降りてエルサレムに向かう力が与えられたとマタイが記していることだ。「御心であれば、理解できなくとも従って行く。その時に道が開けてくる。死ぬとはエクソダス、新しい旅立ちである」。そのことを弟子たちは示された。彼らは、理解はしていない。だからイエスの十字架死の時に彼らは逃げた。しかし、復活のイエスとの出会い体験を通して、彼らは変えられていく。
・人は宗教に現世利益か現世離脱のどちらかを求める。現世利益は「信仰すれば治ります」とか、「信仰すれば幸せになります」とか言う教えで、苦難の中にある人はわらをもつかむ思いですがる。しかし、信じても治らないし、苦しみは去らない。別の宗教は、この世を離れ、霊の世界との交流による救いを提唱する。聖書は「信じれば治る」とは言わないし、「この世を離れて修行しなさい」とも言わない。弟子たちに示されたのは、「イエスと共に行けば、あなたがたにも危険が及ぶだろうが、それでも行きなさい」ということだ。弟子たちには十字架の意味がまだわからないが、それでも彼らはイエスに従って、エルサレムに行く。
・現世利益も現世離脱も共に、苦しみからの解放を求める人間の作り出した幻想だ。幻想は破れる。そのような幻想に留まるのではなく、「現実を直視し、その現実から逃げるな」と聖書は教える。人は誰も十字架の道など歩きたくない。しかし、十字架を負って始めて知る人生の豊かさがある。河野進は、岡山ハンセン病療養所で50年間伝道した牧師だ。彼の書いた詩に「病まなければ」という詩がある。彼は50年間、ハンセン病の人に付き添い、その重い病の中に、神の祝福を見た。
-河野進「「病まなければ捧げ得ない悔い改めの祈りがあり、病まなければ聞き得ない救いのみ言葉があり、病まなければ負い得ない恵みの十字架があり、病まなければ信じ得ない癒しの奇跡があり、病まなければ受け得ないいたわりの愛があり、病まなければ近づき得ない清い聖壇があり、病まなければ仰ぎ得ない輝く御顔がある。おお、病まなければ、人間でさえあり得なかった」」。
・私たちも重荷を負うことによって、人生が豊かにされていく。教会に来て、心が慰められ、清められたということだけに留まる人は、神に出会うことはないだろう。その清められた思い、強められた力を現実の生活の場で生かしていく時、神に出会う。日常の煩雑から逃れて山に登るとは、私たちにとっては、「主の日(日曜日)」に、世を離れて教会に来ることだ。教会に来て力をいただき、山を降りる=日常の現実に戻る。それぞれの場所で神の御心を問いながら暮す。
・パウロは言う「兄弟たち、自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける生贄として献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ12:1)。礼拝は日曜日に始まり、月曜日から土曜日までの私たちの世の生活を支える。山に登るのは、地上の生活を生きるための力をいただくためだ。そして山を降り、十字架を再び負って歩いていく。そういう生き方をマタイ17章は私たちに示している。