1.毒麦の譬え
・マタイ13章にはイエスの語られた種の譬えが編集して掲載されている。前半に、「種を蒔く人の譬え」(13:1-9)、「種蒔きの譬えの解釈」(13:18-23)があり、後半には「毒麦の譬え」(13:24-30)、「譬えの解説」(13:36-43)、「からし種の譬え」(13:31-33)等が掲載されている。毒麦の譬の最初の部分では、良い種が畑に播かれたのに、芽が出て実ってみると毒麦も一緒に現れたと語られる。
-マタイ13:24-26「イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。『天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた』。
・僕たちは主人のところに来て尋ねる「だんな様、どこから毒麦が入ったのでしょう」。僕たちは毒麦を行こうと提案するが、主人は刈入れの時まで待てと制止する。
-マタイ13:27-30「僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
・最初の譬では、良い種を播いたのに毒麦も一緒に芽を出したと言われている。この毒麦が、世にある悪を指すことは明らかだ。世界は神が創造されたのに、この世に悪がある。何故、悪があるのかについては、譬は直接には答えず、悪があることが前提になっている。譬では「毒麦を抜きましょうか」と問う僕に対して、主人は「そのままにしておきなさい」と答えている。
・イエスの時代、多くの人々が、自分たちが毒麦と考える人たちを抜こうとしていた。ファリサイ人は律法を厳格に守ることを通して、守らない人たちを罪人として排斥していた。熱心党(ゼロータイ)の人たちは、異教徒ローマに協力的な人々を背教者として暴力的に排斥しようとしていた。エッセネ派の人たちは、砂漠の中に住み、世の穢れに染まった人々と縁を断とうとしていた。いずれも自分たちは良い麦であり、自分たちと異なる者を悪い麦、毒麦として排除しようとしていた。イエスは彼らを批判し、改めさせるためにこの譬を語られたのであろう。
・イエスはファリサイ派やエッセネ派の人々が排除した徴税人や娼婦さえも、神が愛される者として拒否されなかった。29-30節「いや、毒麦を集める時、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」。世の中には人間の目から見て良い人も悪い人もいる。しかし天の父は罪人が悔改めて帰ってくることを望んでおられる。我々が行うべきことは悪いと思われる人々を排斥することでなく、招くことだ。裁かれるのは神であり、人間ではない。「刈り入れの日まで毒麦を抜いてはいけない」とイエスは言われている。
・何故世の悪を自分で取り除いてはだめなのか。それは、「人間は神ではない」からだ。2001年9月11日、テロ攻撃を受けた米国は、報復を求めて、アフガニスタンやイラクを攻撃した。その時ブッシュ大統領は演説した「テロとの戦いは、悪を取り除く神の戦いである」。それから20年、イラク・アフガン戦争の米軍死者は6千人を超え、アフガン・イラクの市民犠牲者は17万人を超えた。同時多発テロの犠牲者は2,973人であったが、報復により、犠牲者の60倍近い人々が死んでいる。また戦争帰還兵200万人のうち、50万人がPTSDを病み、薬物中毒やアルコール依存になり、その果てに自殺している(自殺者累計6,570名)。開戦直後はブッシュを支持したアメリカ国民も、今ではブッシュの政策は間違っていたとする。不完全な人間が、毒麦=悪を自分の手で抜き去ることは大きな悲劇をもたらす。
2.毒麦の譬えの解説
・36節からの第二の譬は第一の譬の解説部分として構成されている。37節「良い種をまく者は人の子」、イエスである。イエスの宣教とそれに続く弟子たちの伝道により多くの者たちが教会に招かれてきた。しかし、その教会の中にも良い麦と毒麦が混在している。イエス宣教から50年を経たマタイの教会の中に、自分たちは正しいとして他の教会員を排除する人々がいた。マタイはそのような教会員に対し、イエスの言葉を受けて、誰が良い麦で誰が毒麦かを判別し裁くのは神の業であり、人間がそれを行えば教会は崩壊するとのメッセージを送っている。
-マタイ13:37-39「イエスはお答えになった。『良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである』」。
・イエスは自分たちを正しいとして、違う人々を裁くファリサイ派やエッセネ派の人々を戒めるために、この毒麦の譬を語られたが、マタイはその譬を自分たちの教会に向けられたメッセージと理解し、教会の中で他の人々を毒麦として排除する人々を戒めるために、譬の解説を加えたと思われる。
-マタイ13:40-43「だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」
3.私たちはこの譬えをどのように聞くのか
・教会の中に何故悪があるのかを追求した人がアウグスティヌスだ。彼は語る。
-山田昌「アウグスティヌス講話」から「誰が毒麦で誰が良い麦であるかは私たちにはわからない。全ての信徒が毒麦にも良い麦にもなりうる。ある意味では、私たち各自のうちに毒麦と良い麦が共存しているともいえる。だから、他人が毒麦であるか否かを裁くよりも、むしろ自分が毒麦にならないように、自分の中にある良い麦を育て、毒麦を殺していくように」。教会の中にある毒麦的なものは否定されるべきものではなく、その責任を教会の仲間が共に引き受けていくのが、教会に生きる者たちの課題だとアウグスティヌスは説く。最後の裁きは神に任せる。弱い信徒があってもそれを助け、それに耐えて、それによって自分たちの信仰をいっそう清め、強めていく。そのためにあるものとして教会の中にある悪(毒麦)を理解する。
・同時に教会の中にある良い麦と毒麦という事柄を、教会を越えて考えた時、そこに「神の国」と「地の国」という思想が生じてくる。教会がそのまま神の国ではなく、地上の国家がそのまま地の国ではない。神の国は地上の国家の中にもありうるし、教会の中にも地の国が含まれうる。アウグスティヌスは語る「神を愛して自己愛を殺すに至るような愛が神の国を造り、自分を愛して神に対する愛を殺すに至るような愛が地の国を造る。神は悪をも善用されるほどに全能であり、善なる方である。裁きはこの神に任せよ」。現実の私たちは神中心の愛と自己中心の愛の双方を持つ弱い人間であり、ありのままを神に告白し、その助力を乞い、そういう仕方で絶えず神の国に加えられ、生かされていくことが神の国に生きることであると彼は語る。
・毒麦の譬えは私たちに何を教えるのか。麦と毒麦は地上では見分けることができるが、地下では根が複雑に絡み合い、毒麦を抜こうとすると良い麦まで抜けてしまう。しかし収穫の時まで待てば、毒麦だけを除くことは可能であり、だから収穫まで、終末まで待ちなさいと言われている。私たちの暮らす社会は自己愛が中心の「地の国」だ。イエスは言われた「私はあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(マタイ10:16)。神の国に本籍を持つ者として「鳩のように素直」に生きるが、地の国に暮らす者として「蛇のように賢く」生きる。理想主義だけでは挫折する。現実主義者ラインホルド・ニーバーはイエスの言葉を次のように言い換える。
-ラインホルド・ニーバーの祈り「神よ、変えることの出来るものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることの出来ないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることの出来るものと、変えることの出来ないものとを、識別する知恵を与えたまえ」。
・教会を一つにまとめる知恵とは何か、それは自分たちの正しさに固執しないことだ。自分の中にも毒麦があることを知るからこそ、相手の毒麦、悪を赦していく。そのような教会形成をイエスも望んでおられるのではないか。イエスは当時の人びとから忌み嫌われていたらい病者とも会食された。この事実は私たちに悔い改めを迫る。当時のベタニアはらい病者の隔離された村であったという説がある。
-マタイ26:6-7「イエスがベタニアで、らい病人シモンの家におられた時、一人の女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた」(口語訳、新共同訳は重い皮膚病と訳す)。