1.天の国でいちばん偉い者
・弟子たちが「天の国で一番偉いのは誰か」とイエスに聞いてきた。イエスが誰を一番評価しているかを知りたいと思ったからだ。この問に対して、イエスは一人の子どもを彼らの中に立たせて、「この子どものように自分を低くしなければ天の国に入ることはできない」と答えられた。仲間内で順位を争うような狭い心では、そもそも天の国へ入る資格すらないとイエスは言われる。偉さを競い、人の上に立ちたいという願望は、人の世で成功を勝ち取る活力になっても、天の国に入るにはふさわしくないのである。
-マタイ18:1-5「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、『いったいだれが、天の国で偉いのでしょうか』と言った。そこで、イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの中に立たせて言われた。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子どものようになることが、天の国でいちばん偉いのだ。私の名のためにこのような一人の子どもを受け入れる者は、私を受け入れるのである。』」
・イエスの答えに弟子たちがどんな反応をしたか、マタイは何も記していない。部下の功名心を掻き立て、競わせるのがこの世の指導者の倣いであるが、イエスはまるで反対のことを教えられた。世の垢にまみれた大人に、幼子のようになれというのは無理である。しかし、幼児が母の腕の中で何の疑いもなく眠り、腹が空けば目を覚ましむずかる。この世の欲得に何の関わりなく、天衣無縫、有りのままに生きる。無邪気な幼児の姿に、人はふと天国を感じる。イエスは、この子どもを受け入れることは私を受け入れることであると繰り返し言われる。
-マタイ25:40「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。」
・アードルフ・ポルトマン『人間はどこまで動物か』(1961年、岩波新書)という本で、動物学者の著者は語る「人間の子どもは母親や養護者の助けなしには一日も生きていけない能なしである。高等哺乳類、例えば山羊や馬の仔は、生まれるや否や立ち上がって仲間の後を追いかける。眼も見えるし、母乳も自力で吸う。身体も成熟した大人の形に近い。だが、人間の赤ん坊は、あらゆる哺乳類の中で最も弱い状態で生まれて来る。歩くことはおろか、自力で食べることも覚束ないし、目も見えない。泣く以外には何もできず、一切を母親や養護者に依存している。愛され、受け入れられるということがなければ、一日も生きて行けない。このように、あるがままに受け入れてくれる周りの人々の『愛と受容』のお蔭で、生きることができる。人間は、両親や兄弟や周りの人々の『愛と受容』がなければ生きていけない。そして、自分も次の世代に対してそうする。さもなければ人間という種の保存は不可能だ。だから、『愛と受容』は命の基本構造なのである」(代々木上原教会2005・12・11説教から)。イエスが言われたのもそういうことであろう。
2.罪への誘惑
・6節以下は「小さい者をつまずかせる」ことへの警告である。ここでいう小さい者は子どもではなく、教会の中の信仰の未熟な者を指している。マタイはつまずきかせる者の罪の大きさを「大きな石臼を首にかけられ、深い海に沈められる方がましである」と強調する。大きな石臼を首にかけられ深い海に沈められたら、生きて再び太陽は見られないだろう。小さい者の信仰を失わせ、離れさせる者は、それほど罪が重いということなのである。教会の中でおごり高ぶる人への警告の言葉である。
-マタイ18:6「私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」。
・人をつまずかせる者は厳しい決断を迫られるとイエスは言われる。片方の手や足が、つまずかせるなら、その手足を切り捨てよ、片方の目がつまずかせるならその目をえぐり出して捨てよ。なぜなら、両手両足両目がそろったまま、永遠の火が燃える地獄に投げこまれるよりましだからである。片手片足片目でも永遠の命を受ける方が良いというのは、手足や目を捨てること痛みはあっても、つまずきを再び犯さぬようにせよという厳しい戒めなのである。
-マタイ18:7-9「世は人をつまずかせるから不幸で、つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げこまれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」
3.「迷い出た羊」のたとえ
・迷い出た羊のたとえはルカにもあるが(15:3-7)、マタイでは「小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」という文脈の中で語られる。これは信仰共同体における牧会配慮の教えである。
-マタイ18:10「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつも私の天の父の御顔を仰いでいるのである」。
・旧約聖書では、羊飼いは神で、羊は民である(詩編23:1-3)。羊は迷いやすく、散り散りになりやすい弱い動物だ。捕囚期の預言では離散したイスラエルの民を、神自ら尋ね歩いて群れを回復する様子が、迷った羊を尋ね歩く羊飼いの姿に重ね合わされている。
-エレミヤ23:3-4「この私が、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者を私は立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもないと主は言われる」。
・百匹の羊の持ち主は、一匹の羊が迷うと九十九匹を山に残して捜しに行く。山は聖書では神聖なる場所で、九十九匹の安全を確保した上で、迷いでた一匹が捜し出される。このたとえが語るのは、教会にとって信仰の弱い人たちをどのように牧会していくのかが語られる。
-マタイ18:11-14「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたの天の父の御心ではない。」
・しかし探しだされた羊が悔い改めないならば、その羊は放出される。マタイの構成は教会論に基づく。
-マタイ18:15-17「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」。
・一方ルカでは全く異なる場面設定で語られる。ルカにとって九十九匹はファリサイ人を指し、一匹は貧しい人々を意味する。ルカの文脈では九十九匹よりも一匹の方が大切だ。
-ルカ15:1-7「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された『あなた方の中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでくださいと言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある』」
・マタイは「迷い出た羊のたとえ」の中で、教会の人々に必要と思えるイエスの言葉を語り直している。他方、ルカは「見失った羊」の視点でたとえを解釈する。どちらが良いか悪いかではなく、共に大切な、しかし異なる視点を私たちに伝える。