江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2020年11月19日祈祷会(詩篇27編、苦難の中で主を呼び求める)

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1.苦難の中で主への信頼を表明する詩人

 

・詩篇には圧倒的に「嘆きの詩篇」が多い。苦しいからこそ、主を求める歌が生まれてくる。本詩は前半と後半で、詩の調べが一変する。前半部は主への信頼の歌、詩人は「主はわが光、わが救い」と歌いだす。しかし彼の信頼の背後には、苦難と苦闘の厳しい現実がある。「さいなむ者が彼の肉を食いつくそうとし、苦しめる敵が彼に対して陣を敷いている」。その中での信頼の歌だ。

-詩編27:1-3「主は私の光、私の救い、私は誰を恐れよう。主は私の命の砦、私は誰の前におののくことがあろう。さいなむ者が迫り、私の肉を食い尽くそうとするが、私を苦しめるその敵こそ、よろめき倒れるであろう。彼らが私に対して陣を敷いても、私の心は恐れない。私に向かって戦いを挑んで来ても、私には確信がある」。

・彼にとって生涯の願いは「主の家」に住むことだ。神との絶えざる交わり、神の現臨の中での平安を彼は求める。

-詩編27:4-6「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。災いの日には必ず、主は私を仮庵にひそませ、幕屋の奥深くに隠してくださる。岩の上に立たせ、群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださる」。

・祈れば答えられる時もあるが、答えられない祈りもある。彼はいくら祈っても答えが与えられない。後半は不安の中での救済の祈りだ。これまで三人称であった「主」が、二人称で「主よ」呼びかけられる。そこには肯定嘆願(~してください)と、否定嘆願(~しないでください)が交互に現れる。状況は容易ではないのだ。

-詩編27:7-9「主よ、呼び求める私の声を聞き、憐れんで、私に答えてください。心よ、主はお前に言われる『私の顔を尋ね求めよ』と。主よ、私は御顔を尋ね求めます。御顔を隠すことなく、怒ることなく、あなたの僕を退けないでください。あなたは私の助け。救いの神よ、私を離れないでください、見捨てないでください」。

・詩人は友人や父母さえも見捨てる厳しさの中にいる。その中で、あなたは見捨てないでくださいと必死に祈る。

-詩編27:10-13「父母は私を見捨てようとも、主は必ず、私を引き寄せてくださいます。主よ・・・平らな道に導いてください。私を陥れようとする者がいるのです。貪欲な敵に私を渡さないでください。偽りの証人、不法を言い広める者が、私に逆らって立ちました。私は信じます、命あるものの地で主の恵みを見ることを」。

 

2.しかし苦難は彼を捕え、苦しめる

 

・詩人は歌う「私は信じます、命あるものの地で主の恵みを見ることを」。しかし、この世では、故なき苦難のゆえに無惨にも死んで行く人々がいる。広島や長崎の原爆で死んだ人々に救いはあるのだろうか。テロ犠牲者の死にどのような意味があるのだろうか。祈りが聞かれない時、神の見捨てを見たとき、私たちはどうすればよいのか。イエスも神の見捨ての中で死んでいかれた。

-マタイ27:46「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』。これは『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』という意味である」。

・聖書はイエスの見捨ての死は、神の完全な見捨てなしには罪が贖えなかった故だと語る。イエスの弟子たちはイザや53章の中にイエスの死の意味を見出した。

-イザヤ53:6-8「私たちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私たちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた・・・私の民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれた」。

・苦難だけを見つめた時、その苦難は人を滅ぼす。しかし苦難の意味を考え始めた時、苦難を与えられた神の御心が見えてくる。その時、苦難は人を活かすものになっていく。

-ルカ22:42「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください」。

・だから私たちはどのような状況の中でも、現実から目をそらさず、主を信じていく。

-詩編27:14「主を待ち望め、雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め」。

 

3.詩篇27編の黙想

 

・神に信頼し、神に従う決意をしている人にも苦難は臨む。その時、人は信仰が大きく揺さぶられる。内村鑑三はその経験を「基督信徒の慰め」に記した。

-1891年1月19日に起こった第一高等中学校不敬事件で、内村鑑三はその職を奪われ、全国民から国賊と罵られたばかりか、彼が勅語に対して礼拝ではなく敬礼ならするといって、一人の同僚に代って敬礼をし直して貰ったことに対して、教会からも卑怯とのそしりを受け、そのうえ、みずから重患の床に打ち倒されている間に、妻加寿子も急逝して、文字通り人生のどん底に投げ込まれた。

-事件から2年後の1893年に彼は、「基督信徒の慰め」を発表し、教会の中で自分が孤立し、無神論者、異端と弾劾され窮地に陥った時、聖書によって救われたこと、本来はお互いに愛し愛されるキリストの家庭としての教会であるはずなのに、実際の教会にあるのは、ねたみ、そしり、不遜、高慢、無慈悲、無情であり、その偏狭な排他的精神であることを批判し、行き場所がなくなったが故に仕方なく無教会となったこと、キリスト者は真理に対して謙遜であること、他に対して寛容であることが必要と説いただけでなく、これを自分の祈りとした( 高橋三郎著「なぜ無教会か」より)。

・彼は「基督信徒の慰め」に記す。

-されども神よ、我が救い主よ、汝はこの危険より余を救いたまえり。人、聖書をもって余を攻むるとき、これを防御するに足る武器は聖書なり。『義人は信仰によりて生くべし』、聖書は孤独者の楯、弱者の城壁、誤解人の休み所なり。余は聖書なる鉄壁のうしろに隠れ、余を無神論者と呼ぶ者と戦わんのみ。

-神の教会は宇宙の広きがごとく広く、善人の多きがごとく多し。余は教会に捨てられたり。しかして余は宇宙の教会に入会せり。余は教会に捨てられて 初めて寛容の美徳を了知するを得たり。ああ余は、余が他人をさばきしがごとく、さばかれたり。余もまた教会にありし間は、教会外の人を議するに当って、かくなせしなり・・・されども教会に捨てられて余、理の目は開き、所信を異にしても人は善人たるを得べしとの大真理を、余はこの時において初めて学び得たり。真理は余一人のものにあらずして宇宙に存在するすべての善人のものたることを知れり。

-余は初めて世界に宗教の多き理由と、同一宗教内に宗派の多く存する理由とを解せり。真理は富士山の壮大なるがごとく大なり。一方よりその全体を見るあたわざるなり。人間の力弱きことと、真理の無限無窮なることとを知る人は、思想のために他人を迫害せざるなり。全能の神のみ、真理の全体を会得し得る者なり。願わくは神よ、余に真正のリベラルなる心を与えて、余を放逐せし教会に対しても寛容なるを得しめよ。

・弁護士の岡村勲氏は妻を殺され、自分が犯罪被害者になることにより、加害者の権利保護に力点が置かれている裁判制度の不備が見えてきて、犯罪被害者の権利保護を求める運動を起こし、2004年に犯罪被害者基本法が成立した。不条理な、悲しい出来事が、時にして人を偉大な行為に駆り立てるのだ。パウロが言うように、苦難をどうとらえるかで、それは人を命にも、死にも導くのだ。

-第二コリント7:10「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」。

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