1.マリアへの受胎告知
・待降節第一主日の今日、イエス受胎告知の記事を読みます。イエスがお生まれになる前、御使いがマリアに現れ、「あなたは男の子を産む。その子こそ神の子である」と告げる有名な物語です。ルカ福音書ではその物語が1章26節以下にあります。天使ガブリエルがナザレの町に住むマリアという娘に現れ、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(1:28)と挨拶し、その後に子が生まれることが告知されています。「マリアよ、おめでとう」という言葉のラテン語訳が有名な「アヴェ・マリア」です。しかし、その後の文章を読んで解ることは、告げられた出来事は、人間的には非常に重い出来事であるということです。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」(1:31)とマリアに告げられていますが、マリアはまだ結婚していません。未婚の娘が子を産む、当時においても現代においても、それは困難な出来事です。その困難な出来事が「おめでとう」という言葉で告げられています。
・当時の慣習では男が18歳、女が14歳になれば結婚適齢となり、親の決めた相手と婚約し、数年の婚約期間をおいて結婚します。従って、天使がマリアを訪れた時、マリアは15歳ごろであったと思われます。ユダヤの戒律は、婚約に結婚と同じ様な拘束を与えます。仮にマリアが婚約者の知らない処で身ごもった場合、姦淫の罪を犯したとして石打の刑で殺されるか(申命記22:23-24)、あるいは婚約を取り消されて「罪の女」として共同体から追放される可能性を持ちます。未婚の娘が身ごもるという出来事は命をも左右する出来事でした。だからマリアは不安におののき反論します「どうして、そのようなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに」(1:34)。
・このマリアの不安、懸念が不当なものでないことは、マリアが身ごもったことを知らされた婚約者ヨセフの態度からもわかります。マタイ福音書によれば「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(マタイ1:19)とあります。ヨセフはマリアが、不倫によってか、あるいは暴力によって身ごもったと考えています。もし不倫であればマリアを迎えることなどとてもできない。仮に暴力によるものとしても、自分以外の男の子を宿した娘を嫁に迎えようとする男はいません。だからヨセフは密かにマリアを離縁しようとします。
・しかし、神の使いがヨセフに現れ、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(マタイ1:20)と語ったため、ヨセフはこの言葉を受け入れてマリアを妻としたとあります。もしヨセフがマリアを妻として迎えなければマリアは一生日陰者とされ、生まれた子もまた同じ苦しみを生きたと思われます。マリアは御使に対して「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と答えますが(1:38)、この言葉はまさに命がけの言葉であったのです。
2.Let it be
・ポール・マッカートニーの作った「Let it be」は名曲として知られていますが、最初の歌詞は次のようになっています。「When I find myself in times of trouble Mother Mary comes to me Speaking words of wisdom Let it be. And in my hour of darkness She is standing right in front of me Speaking words of wisdom Let it be.」母マリアとはもちろんイエスの母マリアです。同時にポール・マッカートニーの母親の名前はマリア(メアリー)であり、彼女は熱心なカトリック教徒で、ポール自身もカトリックの洗礼を受けています。母メアリー・マッカトニーはポールが14歳の時に亡くなっています。ポールがこの曲を書いた時、ビートルズは解散の危機にありました。書かれたのは1970年、ポールとジョン・レノンの考え方の違いから、もう一緒にはやっていけないのではないかと双方が思い始めていた時です。その時に、夢枕に母メアリーが現れ、「全てを神様に委ねなさい」と彼に言った。その母からの言葉が、「Let it be there will be answer」です。「Let it be」を「なるがままに」と訳すれば希望を失った人の言葉です。「御心のままに」と訳した時、この歌の本当の姿が見えてきます。「御心のままに行動した時(Let it be)、そこに答えが見つかる(there will be answer)」と母メアリーはポールに告げたのです。
・「御心のままに」、受胎が告げられた時に、マリアが語った言葉です。天使はマリアに伝えます「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」(1:31)。マリアは不安におののき反論します「どうして、そのようなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに」(1:34)。天使は答えます「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる・・・神に出来ないことは何一つない」(1:35-37)。「神に出来ないことは何一つない」、ギリシャ語原文を直訳すると、「神の言葉は不可能にはならない」です。だからあなたは私の行おうとする業に協力してほしいと神はマリアに依頼しておられるのです。
・マリアはためらいながらも答えます「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(1:38)。英語訳聖書(NKJ)は次のように訳します「Behold the maidservant of the Lord! Let it be to me according to your word」。 Let it be=御心のままに、「何故私にこのようなことが起こるのか私にはわかりません。わかりませんが、あなたがそう言われるのであれば受入れます」とマリアは答えます。このマリアの決断により、御子イエスの降誕が可能になりました。マリアに与えられた道は困難な道でした。
・婚約者ヨセフは当初マリアを離別しようと思いますが、マリアの妊娠が彼女の罪ではないことを知り、やがて彼女を妻として受け入れ、イエスを自分の子として認知します。ルカ1章後半「マリアの賛歌」で彼女は歌います「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです」(1:47-48)。「主のはしためにも、目を留めてくださった」、婚約者ヨセフが受入れてくれた喜びをマリアはここに歌っています。
3.暗き中を降られた神
・今日の招詞にフィリピ2:6-9を選びました。次の様な言葉です「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」。イエスは私生児だと陰口されるような状況下でマリアの胎に宿り、ベツレヘムの馬小屋の中で産声をあげられました。聖書は、それは神自らが、私たちと苦しみを共にする為だと語ります。神自らが卑しくへりくだられた、そのへりくだりの極致が十字架の死です。パウロはそれを招詞の言葉で表現しています。
・私たちはルカによるイエスの降誕物語を信仰告白として受けとめます。ルカが伝えたいことは、マリアが処女降誕によってイエスを生んだことではなく、思いがけぬ困難を与えられ、おろおろしながらも、神の言葉を信仰を持って受け入れていったことです。マリアは「神にできないことはない」(1:37)という言葉を受けて、信じがたい告知を受け入れ、「お言葉どおり、この身に成りますように」と受け入れました。そこから偉大な物語が始まったのです。「神がなされるのであれば、そこから出てくるすべての問題も神が解決してくださる」、彼女はそれを信じた。ルカはその信仰の決断をここに示しているのです。
・私たちの人生には不条理があります。理解できない苦しみや災いがあります。希望の道が閉ざされて考えもしなかった道に導かれることもあります。しかしその導きを神の御心と受け止めていった時に、苦しみや悲しみが祝福に変わる経験を私たちはします。「御心のままに」とは、幸福も不幸も神の摂理(計画)の中にあることを信じて、その現実を受入れることです。救いはそこから始まります。
・竹森満佐一と言う説教者はこの箇所に関して次のように言います「重荷でしかなかったものから、神の恵みを知ったという人はいくらでもあります。治らない病気、解決のつかない問題、そういうものから、神の恵みを知った人は少なくありません。そこまでいかないと、実は真の解決が得られないのです。全てを神に委ねて、どのことも神が人間に恵みを与えて下さる手段であった、ということに気が付くまでは、救いはありません」(竹森満佐一講解説教「降誕・復活」P90から)。「思いどおりにならないことは世の常であり、最善を尽くしても惨憺たる結果を招くこともある。最善を尽くすことと、その結果とはまた別な次元のことである。しかし、最善を尽くさなくては、素晴らしい一日をもたらすことはない」(飯嶋和一著「出星前夜」p212から)。まさにその通りで、「神は・・・苦悩の中で耳を開いてくださる」(ヨブ36:15)方なのです。「御心のままに」、今日はこの言葉を福音として共に聞きたいと願います。