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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2015年6月7日説教(ガラテヤ1:1-12,福音から離れるな)

投稿日:2015年6月7日 更新日:

2015年6月7日説教(ガラテヤ1:1-12,福音から離れるな)

 

1.福音を捨てて律法に戻ろうとする人々へ

 

・今日から6回にわたってガラテヤ書を読んでいきます。ガラテヤ書は短い書簡ですが、この書は宗教改革者マルティン・ルターがカトリック教会に対して反旗を翻す契機になった書簡として知られています。中世のカトリック教会は免罪符(贖宥状)を買えば、罪の償いを軽減する証明書を発行していました。従来、キリスト教徒が罪を犯した場合、まず罪を悔い改め、司祭に告白し、最後に償いをすることが必要でした。ところが、免罪符という便利な制度が出来て、罪の償いをお金で買えることになりました。発端は十字軍時代で、十字軍に参加できない者は寄付を行うことで罪が許されることになり、その後、教会の建設費などの費用捻出のために免罪符が繰り返し販売されるようになります。教皇レオ10世は、サン・ピエトロ大聖堂建築の資金調達のため、ドイツで免罪符を販売しますが、ルターは「救いをお金で買うのはおかしい」として反発し、その根拠をガラテヤ書の信仰義認の教えに見出しました。信仰義認、「救いは神から来る恵みだ。そのために善行を積み、ましてや免罪符を買って救われるのではない」という信仰理解です。

・お金で救いを買うのは論外でしょうが、善行等の行いを通して救われるとの思想は私たちの中にもあります。善い行いを積めば神は報いて下さるとの考え方です。また人は儀式の中に救いの要素を見ます。例えば洗礼(バプテスマ)がそうです。洗礼は救われた感謝として受けますが、いつの間にか洗礼を受けたのだから私は天国に行ける、あの人は洗礼を受けていないから救われないと言い始めます。洗礼という感謝の行為が、いつの間にか救いの条件になってしまい、受けない人を排除する行為になります。時には、それが教会を二分する争いになります。ガラテヤ教会における割礼の問題がそうでした。「割礼を受けなければ救われないのか」、それが当時問題になった事柄でした。

・ガラテヤは今のトルコ、当時の小アジアをさす言葉です。パウロは小アジア地域のアンティオキアやルステラ、イコニウム等の諸都市を何度か訪れて伝道し、ガラテヤ地方にいくつかの教会が生まれました。彼はその後エペソに移りましたが、そのパウロの所に、「ガラテヤの人々がパウロの伝えた福音から離れ、割礼を受けようとしている」との知らせが届きました。パウロは、ガラテヤの人々がこんなにも簡単に福音から離れて行ったことに驚き、失望して、手紙を書きました。「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、私はあきれ果てています」(1:6)。パウロの去った後に、エルサレム教会から派遣されたユダヤ人伝道者たちがガラテヤ地方を訪れ、「信仰だけでは人は救われない。私たちユダヤ人のように、割礼を受けて、律法を守らなければ、本当の救いはない」と宣教し、人々がその教えに従おうとしたのです。救いの確証として、割礼という目に見えるしるしを人々は求めたのです。

・「人はキリストに対する信仰だけでは救われない、救われるためには割礼を受けなければならない」という誤った福音に人々は惑わされています。その人々に、パウロは何故そんなにも早く衣替えしたのかと問いかけます。「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです」(1:7)。パウロは続けます「たとえ私たち自身であれ、天使であれ、私たちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。私たちが前にも言っておいたように、今また、私は繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい」(1:8-9)。「異なる福音などない。キリストを信じるか、サタンを信じるかのどちらかだ」とパウロは激しい言葉で語ります。パウロは本気で怒っているのです。

・「仮に救われるために割礼が必要なのであれば、キリストは何のために死なれたのか」とパウロは追求します。「キリストは、私たちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世から私たちを救い出そうとして、御自身を私たちの罪のために献げてくださった」(1:4)。キリストの十字架を通して私たちは救われた、それなのに「もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」(5:2)。キリストは何のために死なれたのか、あなたがたは罪の中に閉じ込められていた。そのあなた方を自由にするためにキリストは死んで下さった。その死を無駄にするのかとパウロは述べています。

 

2.何故人は律法に惹かれるのか

 

・ここで問題になっている律法とは、神の戒め、このように生きなさいとの教えです。「殺してはいけない」、「姦淫してはいけない」、等々が、神に従う人間のあるべき規律として与えられました。この教えが何故、人を罪の地獄に追いやるのでしょうか。最初に律法が与えられたのはモーセの時代でした。人々はエジプトで奴隷として働かされ、休息の日はありませんでした。その彼らがエジプトから救い出された時、安息日規定が与えられました。出エジプト記は語ります「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」(23:12)。エジプトであなたがたは奴隷として働かされ、休むことができなかった、今あなたがたは救われて自由になった、だから七日目には休みなさい、使用人たちも休ませなさい、と神は言って下さったのです。恵みとして安息日が与えられました。人々は安息日には会堂に行って神を讃美しました。しかし、その規定が時代を経て少しずつ変わっていきます。安息日に礼拝に参加しない人が出始め、規定は「安息日を守らない者は罰する」に変わり、最後には「安息日を守らない者は死刑にする」と変わっていきます。安息日の礼拝を大事に守る人は、守らない人を許せなくなるのです。そのため、祝福が呪いに変わっていきました。

・割礼もそうです。最初に割礼を受けるように求められたのはアブラハムでしたが、それはアブラハムが選ばれて神の民となったのだから、「恵みのしるしとして一族すべてが割礼を受けなさい」というものでした(創世記17:9)。祝福のしるしとしての割礼だったのです。ところがそのうちに、「割礼を受けない者は救われない」、「割礼を受けない者は呪われる」と変わっていきます。エルサレム教会から派遣された伝道者たちも、ユダヤ人(アブラハムの子孫)として割礼を受けていました。だから他者にも割礼を強要するようになり、いつの間にか、割礼を受けることが救いの要件になっていきます。恵みとしての律法が、人を縛り、不自由にさせるものに変化していきます。

・ここに人の罪があります。パウロが批判するのは、律法そのものではなく、人を奴隷化する律法主義です。「神の子とされたしるしとして割礼を受けなさい」という祝福が、「割礼を受けなければ救われない」という呪いに変えられていきます。「今日一日休んで明日から一生懸命に働きなさい」という祝福が、「安息日を守らない者は呪われる」という規定に変わって行きます。そこに人の罪があり、その罪の贖いのためにイエスが十字架につかれたのです。人が再び神の子としての自由をいただく道がキリストによって与えられた、それが福音だ、それなのにあなたがたは、この自由を捨て、また奴隷の道である律法主義に戻ろうとしているとパウロは警告します。反対者たちは、パウロの教えはエルサレム教会の教えと異なるから誤りだと主張しました。これに対して、パウロは、自分は人からではなく、直接キリストから啓示された福音を伝えていると反論します。「私が告げ知らせた福音は、人によるものではありません。私はこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです」(1:11-12)。

 

3.恵みを無駄にするな

 

・今日の招詞にガラテヤ2:16を選びました。次のような言葉です「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです」。

・先に述べましたように、中世カトリック教会は免罪符(贖宥状)を買えば、罪の償いを免じる証明書を発行していました。ルターは反発し、1517年10月31日にヴィッテンベルク大学聖堂の扉に95箇条の論題(贖宥状の意義と効果に関する見解)を提示しました。これは当時のカトリック教会の贖罪理解に疑義を呈して発表した提題であり、ドイツにおいてはカトリックに反感を持つ諸侯の思惑もからみ、議論は単なる神学論争から一大政治論争へと発展し、「プロテスタント」と呼ばれる新しいキリスト教グループを生み出すことになります。ちなみにこの10月31日が宗教改革記念日とされており、2年後の2017年が宗教改革500周年になります。多くの歴史家はこの宗教改革こそが、ルネサンスや新大陸発見と並んで近代を形成する原動力になったと考えています。

・ルターが問題にしたのは、「人は善行を積むことによって救われるのか、善行が出来ない人は免罪符を買えば救われるのか」、という救いの根本問題であり、ルターはそれを、ガラテヤ書にある「人は割礼を受け、律法を守れば救われる」としたエルサレム教会へのパウロの問いかけの中に見たのです。パウロは語ります「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」。人を救うのは神であり、人の行為ではない。その真理をルターはパウロから学び、この信仰義認に基づく行為こそが中世を終わらせ、新しい時代を築いたのです。初代教会の柱であったペテロを叱責するパウロの姿勢の中に、ルターは当時の世界の指導者ローマ教皇に逆らってまでも真理を主張する勇気をいただいたのです。「ペテロが間違えたようにローマ教皇も誤謬を犯す」、16世紀の人々が考えもしなかった主張をルターに与えたのは、ガラテヤ書のパウロです。パウロは語りました「この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです」(6:14)、キリストが死んでくださったように私たちも罪に死ぬ、そのことを通して神の恵みが見えてくる、その恵みを通して、「この悪の世から、世のしがらみから救われ」、新しい人生に導かれるのです。

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