2018年4月8日説教(1コリント1:10-18、十字架の言葉に生きる)
1.コリント教会の分裂騒動
・本年は4月から6月まで、パウロの書いたコリント教会への手紙を読んでいきます。コリント教会は多くの問題を抱えていました。それらの問題に対処するため、パウロは何度もコリント教会宛の手紙を書いています。新約聖書には二通の手紙(第一、第二)だけが収録されていますが、実際は四通ないし五通の手紙が書かれたと考えられています。今日読みますコリント第一の手紙は紀元55年頃、滞在先のエペソで書かれました。
・パウロは先にアテネで伝道し、そこでは哲学や論理学の助けを借りた堂々たる説教をしましたが、アテネの人々は受け入れず、パウロは失意の内にコリントに来ました(使徒17:32以下)。パウロは語ります「そちらに行ったとき、私は衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」(2:3)。パウロは自信を失くしていたのです。しかしコリントでは先に来ていた「プリスカとアキラ」の協力のもと、パウロは再び福音を語り始めます(使徒18:1-8)。パウロはコリントでは「十字架につけられたイエス・キリスト」だけを語り、その結果回心者が次々に起されていきました。パウロは語ります「私の言葉も私の宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、"霊"と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした」(2:4-5)。教会設立後、パウロはコリント教会を弟子のアポロに委ねて去り、今度はエペソの開拓伝道に力を注ぎます。そのエペソにいるパウロの所に、「コリント教会が分派争いで混乱している」との報告が届けられました(1:11)。
・パウロが去った後のコリントでは、教会内に対立が起きていました。パウロに導かれてバプテスマを受けた人々は、パウロの教えを大事にしました。ただパウロの説教は朴訥で難しかったようです。コリント教会のある人々はパウロを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」(2コリント10:10)と評していました。他方、パウロの後継者アポロは博識で雄弁でしたので、その説教に感動した人々は、アポロ派を形成していきました。人々は指導者の外見や説教で、私はアポロに、私はパウロにと争っていたのです。アポロはその後コリントを去り、手紙が書かれた当時、コリント教会は無牧師で、母教会のエレサレム教会からの巡回伝道者が訪れて、バプテスマを授けていたようです。巡回伝道者からバプテスマを受けた信徒たちは、「エルサレム教会の指導者ペテロこそ本物の使徒だ」としてペテロ派になったのでしょう。こうしてコリント教会は分裂状態に陥ってしまいました。
・コリント教会の動きは、現代では「牧師の解任決議」に相当します。教会はパウロに対して、「これ以上、あなたの指導は受けたくないので、辞任してほしい」と要求しているのです。コリント教会の争いは他人事ではありません。私の出身教会は中野教会ですが、中野では35年間牧会された牧師が引退して名誉牧師になられ、後任に新しい牧師を招聘した時、新旧牧師間で教会運営についての意見が対立し、争いに巻き込まれた執事たちが去っていく出来事がありました。私たちの周りの教会でも、毎年のように、期の途中で辞任する牧師がおられます。篠崎教会でも、ある時に牧師と信徒が対立し、別な時には信徒同士で教会運営についての考え方の違いが表面化し、信徒が散らされていくという悲しみを経験しています。
2.パウロはどう行為したか
・人々は感情的な好き嫌いで党派を形成していました。しかしパウロは、感情ではなく、彼らの信仰に訴えて、説得します。彼は最初に教会の人々に問います「キリストはいくつにも分割されたのですか」(1:13a)。教会はキリストが頭であり、教師はキリストに仕える手足に過ぎないのに、何故、手足である教師が頭であるキリストより重視されるのかと問います。次にパウロは「私があなたがたのために十字架につけられたのですか」(1:13b)と問います。「キリストが死んで下さったのであって、私が死んだのではない。あなた方は、私に救われたのではなく、キリストの十字架で救われた。その十字架を仰ぎながら、互いに争うとしたら、十字架は飾りになってしまったのか」と問いかけます。
・最後にパウロは言います「あなたがたは誰の名によってバプテスマを受けたのですか」(1:13c)。あなたがたはキリストの名によってバプテスマを受け、キリストに属する者とされた。それなのに誰がバプテスマを授けたかに、どうしてこだわるのか。パウロからバプテスマを受けた者はパウロ派になり、アポロから受けた人はアポロ派になる、それが正しい信仰と思うのかと問います。バプテスマとは水に入ってキリストと共に一度死に、水から引き上げられてキリストと共に新しく生きることです。その「キリストに結ばれる行為」が何故、「人に結ばれる行為となるのか」とパウロは問いかけます。
・パウロは、「あなたがたがキリストの十字架の意味を真剣に受け止めないから、このような争いが起きるのだ」と語ります。彼は手紙の中で述べます「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」(1:18)。キリストの十字架は私たちに決断を迫ります。私たち人間の本質は「自己中心=エゴ」です。このエゴが教会を壊す。「私はパウロに」、「私はアポロに」、と主張する時、そこには、“私”しかなく、キリストがありません。主語が “私”の信仰は未熟な信仰であり、未熟だから他者と争うのだとパウロは言います(3:4)。主語が“私”から“キリスト”になった時、成熟した信仰になります。成熟した信仰者が集まる時、争いは起きない。意見の違いはあっても、違いが争いにならない。それは、私ではなく、「キリスト」が何を望んでおられるかが、行動基準になるからです。
3.十字架の言葉に従う
・今日の招詞に1コリント1:22-24を選びました。次のような言葉です。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」。キリストは十字架で殺されました。処刑された人間が「神の子」、「メシア」であると主張することは、愚かであり、信じがたい事柄です。しかし「神はイエスをあえてこの十字架につけられ、そのことを通して人間に悔い改めを迫られた」とパウロは語ります。人間は有史以来戦争を続けてきました。人間は戦争を、殺し合いを止めることが出来ない。殺し合う、相手を排斥することこそが人間の本質であり、気に入らない者は殺す。それを文字通りに実行したのがキリストの十字架なのではないかとパウロは語るのです。
・「殺さなければ殺される」、人の世の競争社会に生きるとはそのような生き方です。その人間が十字架に直面して、おのれの罪を知らされ、救いは人から来ないことを知り、神の名を呼び求めるようになります。だからこそ十字架が、「神の知恵」、「神の力」になりうるのです。十字架は救いのしるしではなく、絶望のしるしです。イエスは十字架上で「わが神、何故私を棄てられたのか」と叫んで死んで行かれました。しかし神はそのイエスを十字架死から起された。「神は悪を善に変えられた」、それを知った時、「私はパウロに」、「私はアポロに」、という言葉が出るはずがないではないかとパウロは語るのです。
・教会はこの世にありますが、この世と一線を画す神の国共同体です。この世にある故に、この世の霊と行いが教会の中に入り込んできます。「自己実現」というこの世の知恵の本質が、あたかも人間の理想のように思えてきます。ウィリアム・クラークは語りました「Boys, be ambitious (in Christ)」、クラークが語ったのは、自分のためではなく、“キリストのために大志を抱け”という言葉でした。しかし世の人はこの「キリストのために」を省いてしまいます。「in Christ」を削除した時、教会はこの世の団体と何も変わらない場になります。教会は会員が「自己実現する」、「自分の正しさ」を主張する場ではなく、「神の正しさ」を賛美する場です。神の正しさという視点から見れば、パウロもアポロもただの人にすぎません。
・パウロは語ります「神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」(1:28)。コリントは世界有数の大都市で、「歓楽の市」と呼ばれていました。ただ人口の70万人のうち50万人は奴隷であり、格差社会でした。その中で、多くの奴隷たちが教会に導かれ、信徒になって行きました。教会は奴隷の人格を認め、彼らを人間として扱ったからです。パウロは語ります「(教会では)もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:28)。
・当時の奴隷は「生きた道具」であり、主人は役に立たなくなった奴隷を棄てることも殺すことも自由でした。その中で多くの奴隷たちが自分たちの人格を認めてくれる教会に惹かれて行ったのは当然です。コリントと同じ出来事がインドでも起きています。インドでは人口の3%、3000万人がクリスチャンですが、多くは指定カースト(不可触民)の人々だと言われています。インドに最初に宣教を行ったのはフランシスコ・ザビエルで、彼は貧しい人々に福音を伝えました(沖浦和光「宣教師ザビエルと被差別民」から)。ザビエルはインドにコリント教会を見出したのです。
・アメリカでも同様です。本年はマーチン・ルーサー・キング牧師が暗殺されてから50年になります。アメリカでは黒人も法的には平等が保障され、黒人初の大統領も誕生しましたが、人々の心に潜む差別の意識や白人との格差はいぜん根強いままです。追悼式典に集まった参加者の一人は語りました「メンフィスでは、全米各地から集まった約1万人が『I AM A MAN』(私は人間だ)と書かれたプラカードを掲げて行進しました。私も作業員として当時のストに参加しました。それは『人間としての尊厳を取り戻す闘いだった。キング牧師のおかげで今の私がいる』(4月6日朝日新聞より)。教会は人間としての尊厳を取り戻す言葉を持っています。
・今日の日本で、コリントの奴隷、インドの指定カースト、アメリカの黒人と同じような立場にあるのが「非正規労働者」と言われる人たちです。日本は豊かな国と誤解されていますが、実際は貧困率16.1%と高く、2千万人が貧困層と言われています(現代の貧困は相対的貧困と呼ばれ、所得中央値の1/2以下、2002年では年収160万円以下で、人としてふさわしい生活を送れない状態を指す)。男性正規雇用者の貧困率は5.4%ですが、非正規雇用では25.3%と跳ね上がります。また日本では一度、正規雇用の枠から転落すれば、救済の道がありません。その悲惨さの一端を2009年の「年越し派遣村」で私たちは見ました。不況に伴う人員整理で職場も住む所も失った人々が何百万人も出現したのです。その人々に対して教会が何をすればよいのか、わかりません。しかし何かができるはずです。2千万人の人が福音を求めているのです。
・私たちはイエスの言葉の中に人生を生きる知恵を求めて聖書を読みます。「人はパンだけで生きるのではない」(マタイ4:4)、「悲しむ人々は幸いだ、その人たちは慰められる」(マタイ5:4)。偉大な言葉です。しかしそれ以上に偉大な言葉があるパウロは教えます「私はあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」(2:2)。神学者モルトマンも語ります「私たちのために、私たちの故に、孤独となり、絶望し、見捨てられたキリストこそ、私たちの真の希望となりうる」(モルトマン「無力の力強さ」)。復活されたイエスの最初の言葉は「ガリラヤに行きなさい」でした。ガリラヤ、ガーリール(周辺)に行け、現場で生きよ、自分のためだけではなく、隣人と共に生きよとのメッセージに従う時、私たちは「生けるイエス」、「十字架を担ったままのイエス」と出会うのです。