2018年6月10日説教(第二コリント4:1-15、この土の器に)
1.パウロの困難
・今日は第二コリント4章からパウロの言葉を学んでいきます。4章7節「私たちはこのような宝を土の器の中に入れています」はとても印象的な言葉です。ここには二つのことが語られています。一つはパウロが「土の器」であると非難されていた現実です。もう一つはそれにもかかわらず、パウロの語る福音は「宝」といえるほどの価値を持つことです。今日は第二コリント4章をこの二つの側面から学んでいきます。
・第一の側面はパウロが受けていた激しい批判です。パウロは復活のキリストに出会い、キリストから福音を伝える使徒としての務めをいただき、異邦人伝道のために奔走してきました。そしてコリント教会が設立されました。それはパウロにとってわが子のように愛おしいキリスト者の群れです。しかしパウロの伝道活動を喜ばないエルサレム教会の人々は宣教者たちをコリントに遣わし、「パウロはエルサレム教会からの推薦状を持った使徒ではない、またパウロの伝える福音は私たちが承認していない異端だ」と攻撃し、その結果、コリント教会の人々はパウロに疑いを抱き、パウロから離反しようとしています。
・キリストから託された福音を宣教しても、多くの人々は受け入れようとはしません。特にパウロの場合、一旦は福音を喜んで受け入れてくれたコリントの人々が、今は聞こうとはしなくなったのです。何故聞いてくれないのか、しかしパウロは落胆しません。彼は語ります「私たちは、憐れみを受けた者としてこの務めを委ねられているのですから、落胆しません。かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身を全ての人の良心にゆだねます」(4:1-2)。エルサレム教会から派遣された巡回伝道者たちは「パウロは偽使徒であり、その福音は間違っている」と批判したようです。それに対してパウロは反論します「私たちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです」(4:3-4)。
・どのような命の言葉も、心を閉じた人には伝わりません。言葉が伝わらない、伝道は失望と落胆の連続です。しかしパウロは伝え続けます。彼は語ります「私たちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」(4:5)。イエスの福音には力があり、それはいつか「人々を変えうる」と信じるゆえに伝え続けます。「闇から光が輝き出よと命じられた神は、私たちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(4:6)。彼は光の中に復活のイエスと出会い(使徒9:3)、福音宣教の使命を与えられたのです。使命を与えられた人間は決して落胆しません。
2.この土の器に
・手紙を書いた当時のパウロは(紀元58年頃)、自分の設立したコリント教会に背かれ、孤独の中にあります。宣教活動は決してうまく行っていません。コリントの人々は福音を伝えるパウロに注目し、「彼はキリストに直接仕えた直弟子ではないから使徒ではない」とか、「手紙では重々しいが、実際に会ってみると弱々しく、話もつまらない」(10:10)と批判していました。パウロ自身も自分が欠けの多い人間であることを承知しています。だから彼は「私は土の器に過ぎない」と語ります。しかし伝えている福音は宝物であると彼は語ります「私たちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために」(4:7)。
・この確信があるからこそ、伝道がうまくいかず、批判され、苦しめられても、落胆しないとパウロは語ります「私たちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(4:8-9)。パウロの置かれた現実は、「四方から苦しめられ、途方に暮れ、虐げられ、打ち倒された」状況でした。パウロは自分の設立した教会から追放された伝道者なのです。世の人々はパウロを敗残者と考えるでしょう。しかしパウロは「途方に暮れても失望しない」(4:8)と言います。この言葉を原文に忠実に訳すると、「途方に暮れても、途方に暮れっぱなしではない」となります。彼は失望から立ち上がる力が与えられた、それが復活のイエスから与えられる力です。
・彼は語ります「私たちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。私たちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」(4:10-11)。パウロは「イエスの死を体にまとっている」と語りますが、この「死ぬ」という動詞は通常用いられる「サナトウ」(死ぬ)ではなく、「ネクロイス」(殺される)という言葉です。すなわち十字架で殺されたイエスの体を身にまとっていると彼は言うのです。コリントの人々はパウロを失敗者、廃棄される土の器のように見棄てていました。しかしキリストも十字架上で見捨てられています。イエスは十字架上で「わが神、わが神、何故、私をお見捨てになったのか」と叫んで死んでいかれました。そこには神の祝福も栄光もありませんでした。そこにあったのは神と人に捨てられた惨めな死(ネクロス)だけでした。
・しかし神はその捨てられたイエスを死から起こされた。だから神は捨てられた私をも起こして下さるとパウロは確信します。パウロ自身、命の危険をおかしながら伝道しているのです。ユダヤ教徒から、またローマ帝国の官憲から彼は憎まれていました。事実、パウロはこの手紙を書いた7年後(紀元65年)にローマで処刑されています。しかしパウロの心には復活の希望があります。だから、パウロは見棄てられても起き上がります。何故なら、「主イエスを復活させた神が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、私たちは知っています」(4:14)。
3.希望の福音
・今日の招詞に第二コリント4:16を選びました。今日の宣教箇所に続く言葉です「だから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの『外なる人』は衰えていくとしても、私たちの『内なる人』は日々新たにされていきます」。キリストの福音はそれを信じて受け入れる者を変容させる力を持っています。それは人の思いを超える「並外れて偉大な力」です。その福音は土の器に入れて持ち運ばれます。土の器である「外なる人」、死に渡された命は日々衰えていきます。人は年を取れば体力は低下し、気力も低下し、死ねば土に帰ります。しかし、「内なる人」、キリストと共にある命は衰えることがありません。自然の人間は疲れ、絶望します。しかし信仰によって新しく創造された人間、内なる人はそれを突き抜けた命を与えられます。
・私たちはキリストに従う決心をした時、洗礼を受けます。洗礼についてパウロは語ります「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6:4)。洗礼の時、私たちは全身を水の中に入れられて一旦死にます。キリストの死にあずかることによって、私たちは新しく生きる者に変えられます。私たちはこの洗礼を通して、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」存在に変えられていきます。
・私たちが福音を伝えるべき対象の日本人は、今現在、決して幸福ではありません。いろいろな調査を見ると、日本人は「豊かではあるが幸福ではない」という指標が出ています。これまで日本人を支えていた地域の絆、職場の絆、家族の絆がなくなり始め、人々が孤立化しているからです。神学者の栗林輝夫氏は述べます「今日我々が目撃しているのは、経済のグローバル化によって『持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる』(マタイ13:2)という格差社会であり、大勢の若者がワーキング・プアに転落していく光景である。資本のグローバル化は生産拠点を労働力の安い地域(海外)に移動させ、それまで人々を結びつけてきた地域の文化を根こぎにし、地方の中小都市の街を軒並みシャッター・ストリートにした。かつての日本は一億総中流の経済格差のない社会であったが、今では先進国の中でアメリカに次ぐ格差社会になってしました。その中で日本の教会は何を発信できるのか」。
・私たちは貧困強制社会の中で苦しむ同胞の存在を知っています。勤続10年でも非正規であるゆえに年収が200万円に満たない市役所の臨時職員がいます。大学院を出て博士号をとっても就職先がなく、複数の大学の非常勤講師を掛け持ちし、働いても、働いても暮らしが楽にならない人がいる現実を知っています。現在40歳前後の方は、大学を出た時は就職氷河期でやむなく非正規の職に就き、30歳になった時にはリーマン・ショックのあおりで派遣切りに遭い、40歳の現在はこれまで生活をサポートしてくれた親世代がリタイアし、親子共倒れの危機にある(アラフォー・クライシス)ことも承知しています。その危機の中にある人々に、教会はキリストの福音を発信して、「生きる勇気」を与えうるか。それが私たちの課題です。人生の危機に直面した時、キリストの言葉が私たちを苦難から立ち上がらせる力を持つのか、もしなければ教会などいらない。私たちはキリストの福音こそ宝であり力を持つと信じるゆえに宣教を続けます。
・私たちの人生において、次から次に不運と不幸が襲いかかり、不安と恐れに苦しめられる時があります。神の子とされているのに、何故次々に困難や苦難が与えられるのか、自分は呪われているのではないかとさえ思える時もあります。それは、これまでにもあったし、これからもあるでしょう。その時、私たちはどうして良いのかわからず、途方に暮れます。パウロも途方に暮れましたが、「途方に暮れっぱなしではなかった」。彼は失望から立ち上がる力が与えられました。「十字架で殺されたイエスの体を身にまとって」です。復活のイエスの命が彼のうちに充満し、彼は立ち上がりました。パウロはその感謝を手紙の中で述べています。少し長くなりますが引用しましょう。「兄弟たち、アジア州で私たちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。私たちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。私たちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険から私たちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、私たちは神に希望をかけています」(1:8-10)。その神の力は教会の交わりを通して与えられます。パウロの福音はイエスの復活に裏打ちされた「希望の福音」です。この希望に励まされて私たちも生きていくことができるのです。