2018年7月15日説教(創世記18:16-33、執り成しの祈り)
1.ソドム滅亡の予告
・創世記18章、19章には、罪の町として知られていたソドム滅亡の物語が掲載されています。かつて栄えたソドムの町が突然世界から消え去り、その後に巨大な塩の柱が残されたことを、当時の人々は不思議に思い、「ソドムは神に裁かれて滅ぼされた」との伝説が生まれ、その伝説を、創世記記者が、アブラハムとロトの物語として編集していったと推測されています。私たちは創世記記者の信仰に注目して、この物語を読んでいきます。
・創世記記者は、主のみ使いがアブラハムを訪ねたところから、物語を語りはじめます「(彼らは)そこを立って、ソドムを見下ろす所まで来た。アブラハムも、彼らを見送るために一緒に行った。主は言われた『私が行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか』」(18:17)。そして主はみ使いを通して言われます「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。私は降って行き、彼らの行跡が、果たして、私に届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう」(18:20-21)。アブラハムの最初の召命から25年が経過していました。主はアブラハムを信頼し、ソドムの裁きについて、彼の意見を求められます。
・主は「ソドムとゴモラを罪のゆえに滅ぼす」とアブラハムに告げられました。「罪のゆえに滅ぼす」、洪水物語と同じ言葉です。しかし洪水物語ではノアが残され、そこから人類は再び繁栄を取り戻すことが出来ました。アブラハムは「正義と憐れみに富むあなたが、何故ソドムを滅ぼすのですか」と抗議します。「アブラハムは進み出て言った『まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか』」(18:23-25)。私たちの信じる神は独断で行為される方ではなく、人間の意見にも耳を傾けられる方であるとの信仰がここにあります。
・アブラハムがソドムの運命に関心を持つのは、一つはソドムに甥のロトが住んでいた故と思われます。しかしそれ以上に、「神は悪人の悔い改めを待っておられる方だ」と信じるからです。神は悪人でさえ滅ぶことを喜ばれない。預言者はその言葉を記しています「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか・・・私は激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」(ホセア11:8)。アブラハムはソドムのために必死に言葉を連ねます。「『もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか』・・・アブラハムは重ねて言った『もしかすると、四十人しかいないかもしれません』・・・『もしかすると、三十人しかいないかもしれません』。・・・『もしかすると、二十人しかいないかもしれません』。主は言われた『その二十人のために私は滅ぼさない』」(18:27-31)。
・アブラハムは最後に語ります「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません」。それに対して主は言われます「その十人のために私は滅ぼさない」(18:32)。アブラハムはそこで止めます。ソドムの町には「正しい者が一人もいないであろう」ことを推察したからです。「主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った」(18:33)と創世記記者は結びます。
2.ソドム滅亡の伝承の背後に
・ソドムのあった死海地域は海抜マイナス418mと地表で最も低い場所で、アスファルトや硫黄等の可燃性鉱物が大量に地下に埋蔵されています。また東アフリカからトルコにかけての大地溝帯に位置していて、地震の多い地域です。現代の地質学者は、「ソドムの滅亡は地震等により地下の鉱物や気体が発火し、爆発と大火災を起こして、町々が埋没し、ソドムの遺跡は死海の下に眠っているのではないか」と推測しています。このソドム滅亡について、イエスも弟子たちも、神の裁きの結果だと認識しています。
・イエスは言われています「カファルナウム、お前は天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済む」(マタイ11:23-24)。私たちもまたソドムの住民であり、滅ぼされても仕方のない存在であるのに、神の憐れみにより生かされていることを知りなさいと、イエスは言われているのです。新約記者もソドムの滅亡を神の裁きとして理解しています。「神はソドムとゴモラの町を灰にし、滅ぼし尽くして罰し、それから後の不信心な者たちへの見せしめとなさいました」(第二ペテロ2:6)。
・ソドムは神の裁きで滅ぼされたのか、そうであれば、「地震や災害等の天災は神が裁きとして起こされるのか」という疑問を私たちは持ちます。1755年11月に発生したリスボン大地震(マグニチュード9)は、当時の教会に大きな衝撃を与えました。その日は主の日で、多くの信徒が礼拝に参加しており、信徒たちは破壊された聖堂の下敷きになり、さらに起こった津波で流されました。信仰に熱いカトリックの国の首都が、主の日の礼拝を捧げている時に、地震の直撃を受け、聖堂と市街地が破壊され、数万人の信徒たちが死んで行きました。人文学者ヴォルテールは「災害によってリスボンが破壊され、10万人の人命が奪われた、神はなんと無慈悲だ」と主張し、人々の信仰は大きく揺すぶられました。この時、地震は地球の地殻変動によって起きるのであり、神の裁きではないと主張したのが、哲学者のインマヌエル・カントです。このカントの理解を私たちは継承しています。現代の私たちも、「地震や火山の噴火等はあくまでも自然災害であり、神の裁きではない」と理解しています。とすれば、ソドム滅亡を神の裁きと理解する創世記18章を私たちはどのように読むべきなのでしょうか。
3.物語が示す福音を見よ
・今日の招詞に創世記19:29を選びました。次のような言葉です「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された」(19:29)。創世記の記すソドム滅亡物語の主題は、ソドムの裁きと滅びではなく、その滅びの中からロトとその家族が救いだされたことにあります。何故ならば、神は裁くよりも遥かに大きく、救わんとしておられるからです。創世記記者は記します「ロトが正しい人であったからではなく、アブラハムがロトのために執り成ししたゆえに、主はロトを救いだされた」と。
・正義とは「人の罪の赦しを神に執り成し、祈る」ことです。イエスは自分を十字架にかけて殺そうとする者のために祈られました「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。これを聞いたローマの百人隊長は語ります「本当に、この人は正しい人だった」(ルカ23:47)。アブラハムは多くの過ちを犯しましたが、その過ちを通して他者の救いのために祈るものとなりました。だからこそ、彼は「信仰の父」と呼ばれるのです。
・ロトは決して正しい人ではありません。19章後半を読みますと、酒に酔って酩酊し、助けだされた娘たちと交わって子を産ませるような失態を犯しています(19:33)。伝承ではこの子供たちが近隣民族のモアブ人、アンモン人になったとされています。しかし主はこのような罪の結果から生まれたモアブ人やアンモン人も祝福されます。モアブの婦人ルツからオベデが生まれ、オベデからエッサイが生まれ、そのエッサイの子がダビデです。ダビデの子ソロモンはアンモンの婦人ナアマを妻に迎え、そのナアマから跡継ぎのレハブアムが生まれ、その系図がイエス・キリストに繋がっていきます。つまり、イエスの血の中には、モアブ人の血も、アンモン人の血も流れているのです。
・創世記の記すソドム物語の主題は、ソドムの滅びの中からでも、アブラハムの執り成しの祈りにより、ロトと家族が救いだされたことにあります。今回の西日本地区の集中豪雨により200人を超える方が亡くなられました。なぜあの人が亡くなって、この人が生かされたのか、私たちにはわかりません。そこには不条理があります。滅ぼされたソドムにも生まれたばかりの乳飲み子もいたでしょう、彼らも亡くなった、そこにも不条理があります。
・この世の不条理をどのように受け止めていくのは難しい問題です。長崎被爆者のために医師として働き、自らも原爆症で亡くなって行った永井隆は1945年11月23日、原子爆弾死者合同葬で浦上カトリック信徒を代表として「弔辞」を読みました。「原爆は神の摂理によって、この地点に持ち来らされました。世界大戦争という人類の罪悪の償いとして、日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠られ、燃やされるべき子羊として選ばれました。浦上が選ばれて燔祭に供えられたる事を感謝致します」。これはどう評価するか、意見が分かれます。またアウシュビッツ強制収容所を生き残ったエリ・ヴィーゼルはあるユダヤ人ラビに聞いたそうです「アウシェビッツの後でどうしてあなたは神を信じることが出来るのですか」と。するとラビは「アウシェビッツの後で、どうして神を信じないでいられましょうか」と答えたそうです。
・不条理をどう受け止めるべきか、わかりません。ただ言えることは、ソドム物語を通して、災害から救われ、生かされた命の中から、新しい命が生まれてきた、という福音がここに語られていることです。イエスは姦淫の罪を犯した婦人に言われました「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハネ8:11)。過去に何があったかを問うのではなく、これからどう生きるかが私たちの課題です。創世記18-19章の中心テーマはソドム滅亡ではなく、ロトの救済であったことを再確認する時に、私たちは過去に目を向けて生きるのではなく、将来を主に委ねて生きる力が与えられるのです。