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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2019年1月20日説教(ルカ5:1-11、招きに応えた時に起こるもの)

投稿日:2019年1月20日 更新日:

2019年1月20日説教(ルカ5:1-11、招きに応えた時に起こるもの)

 

1.ペテロの召命

 

・ルカ福音書を読んでいます。ルカ5章はペテロの召命の記事です。イエスがガリラヤ湖畔におられた時、群衆がイエスの元に押し寄せてきたので、イエスは地元の漁師であるペテロに船を出すように頼み、船の上から群衆に教えられたとルカは記します(5:1-3)。ペテロと仲間たちは夜を徹して漁をしましたが、何も取れず、気落ちして網を洗っていたところでした(5:5)。ペテロは船上で語られるイエスの言葉を聞いていますが、何も感じません。漁の不作で心がふさがれていたためです。ペテロが求めているものは何か、イエスは承知しておられました。だから言われます「沖に出て網を降ろしなさい」(5:4)。漁は夜に行うのが通常であり、昼に漁をしても収穫が少ないことをペテロは経験から知っていました。ペテロは漁師であり、漁の専門家でした。他方イエスは漁のことに関しては素人です。しかし、ペテロはイエスに姑の病気を治してもらったことがあり(4:38-39)、またその説教も時々聞いて感服していたので、断るのも気がひけました。

・ペテロは「先生、私たちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えて網を降ろしました(5:5)。すると、多くの魚が網にかかり、網が張り裂けそうになりました(5:6)。ありえないことが起こりました。ペテロはこれを見てイエスが神の人であることを知り、恐れて、「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです」(5:8)と言います。ペテロはこれまでイエスを律法の教師(ラビ)とみて、イエスを「先生」(エピスタテー)と呼んでいました(5:5)。しかし今、ペテロは驚くべき出来事を目の前に見て、自分が神の人の前に立っていることを知ります。ですから彼はイエスを「先生」ではなく、主(キュリオス)と呼びます。ペテロの中で何かが変わったのです。そのペテロに、イエスは「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(5:10)と招かれます。そこにはペテロだけでなく、仲間の漁師たちもいましたが、彼らは全てを捨てて従ったとルカは伝えます。この弟子たちの召命の記事は私たちに「信仰とは何か」について多くのことを教えます。

 

2.イエスの招き

 

・夜通し働いても一匹の魚も取れず、疲れきって網を洗う現実がこの世にはあります。教会の業である牧会や伝道も、ある意味で徒労と虚しさとの戦いです。クリスマスやイースターの時に、数千枚のチラシを播いても誰も来てくれない時もあります。また一度は教会の礼拝に参加されても、その後二度と来ない方も多くあります。また、熱心に教会に来ていた方が牧師や信徒の一言で躓き、教会を離れることもあります。人間の智恵や経験では教会は形成できないと思います。限界があります。その限界を超えるものがイエスの呼びかけです。

・一晩中働いても一匹の魚さえ取れなかったペテロに言われたように、「もう一度やって見なさい」とイエスは言われます。そのイエスの招きを受けて、「無駄かもしれませんがやってみましょう。お言葉ですから」とペテロは答えました。これが応答であり、その時、虚しい現実が豊かなものになる経験を人はします。ペテロが経験したように「おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった」ことを見ます。その圧倒的な神の力に接した時、人は神の前にひざまずきます。イエスを「先生」と呼んでいたペテロが、イエスを「主」と呼び、自分の罪を告白します。罪の自覚、悔改めは恩恵の感動の中で生起するのです。

・イエスの復活を信じることの出来なかった12弟子の一人、トマスが経験したのも同じ感動でした。トマスはイエスが復活して最初に弟子たちに現れた時、そこにいませんでした。トマスは「復活のイエスに出会った」と語る弟子たちに言います「私は、その手に釘あとを見、私の指をその釘あとにさし入れ、また、私の手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」(ヨハネ20:25)。人間は見なければ信じることは出来ない存在です。そのトマスのためにイエスは再度現れ、自分の目で復活のイエスを見たトマスは、理屈抜きでイエスの前にひざまずきます「わが主よ、わが神よ」(ヨハネ20:28)。この信仰の体験、人知を超えた神の力、働きに触れることなくして信仰は生まれません。生きた神の現臨に触れる、その体験におののくことがなければ、頭だけの信仰では続きません。信仰は自分の身に起こった出来事への感動、応答なのです。

・罪を告白した者には祝福が与えられます。それは「恐れ」からの解放です。信仰生活を送るとは、主に委ねることが出来るので全ての恐れから解放されることです。イエスはペテロに言われました。「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になる」(5:10)。だから人は全てを捨てて従うことが出来ます。ルカは記します「そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った」(5:11)。

 

3.私たちの応答

 

・信仰にはこの原体験が必要です。では、どうすればこのような信仰体験をすることが出来るのでしょうか。招きに応答すること、「お言葉ですから」と従ってみること、それが一番大切なことです。神が命じられることを文字通りやってみる、聖書の教えの何か一つでも徹底的にやってみる時、私たちは不思議な体験をします。今日の招詞にヨハネ21:6を選びました。次のような記事です「イエスは言われた。『舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ』。そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった」。ヨハネ21章は、エルサレムで弟子たちの前に現れた復活のイエスが、三度目にガリラヤにおいて弟子たちに現れたと証言します。「シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それにほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、『私は漁に行く』と言うと、彼らは『私たちも一緒に行こう』と言った。彼らは出て行って舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった」(21:1-3)。エルサレムでイエスから宣教命令を受けたはずのペテロたちが、イエスの十字架に心を崩され、今は故郷ガリラヤで漁師に戻っています。

・彼らはイエス亡き後、何をして良いのかわからなかった。「その夜は何もとれなかった」、福音を宣教するといってもどうしてよいのかわからない。だから元の職であった漁師の仕事に戻っていたとヨハネは記します。イエス亡き後、弟子たちは限界にぶつかっていました。その限界を超えるものがイエスの呼びかけです。一晩中働いても一匹の魚さえ取れなかったペテロたちに、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」とイエスは言われます(21:6)。聖書では右は神の側、左は人間の側を示します。人間的な判断でガリラヤの漁師に戻っていたペテロたちに、「神の力を信じなさい」とイエスは言われたのです。

・イエスの言葉に従って「網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった」(21:6)という出来事が起こりました。弟子たちは、初めは、岸に立ち、声をかけた人がイエスだと分からなかったようです。しかし愛弟子と呼ばれたヨハネは気づきました。「イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、『主だ』と言った。シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟に戻って来た」(21:7-8)。ペトロの後ろから、多くの魚を積んで重くなった舟が続きます。岸に着くと、彼らは網を下ろし、イエスと共にパンと魚で食事をとります。

・このヨハネ21章の物語はルカ5章弟子たちの召命物語とそっくりです。失望して何をしてよいかわからない弟子たちに復活のイエスが現れた、そのイエスの顕現伝承をもとにルカが弟子の召命物語を書いているのです。ネパールで医療支援活動をしているJOCS(キリスト教会海外医療協力会)の標語が、「舟の右側に網を下ろしなさい」というヨハネ21:6の言葉です。食べるものがない子供たちに食べ物を与えるのではなく、漁の仕方を教えることを通して、魚を取る業を教える。ネパールで十分な医療を受けられない人に対し、医師や看護婦を派遣して医療を与えるだけではなく、ネパール人の医師や看護婦を養成するための活動に従事する。医療を提供するだけでは、派遣の医師や看護婦がいなくなれば、元の木阿弥です。しかし、現地で医師や看護婦を養成すれば、派遣者がいなくなっても、医療活動は続きます。この団体において、「舟の右側に網を下ろしなさい」という聖書の言葉が彼らの活動を規定する力になっています。

・私たちも今日の御言葉「舟の右に網を下ろす」と言うことが、私たちの毎日の生活にとって何なのかを求め始めた時、復活のキリストに出会います。聖書では、右は神への道であり、左は人間の思いです(マタイ25:33、羊は右へ、山羊は左へ)。どうすれば私たちの業ではなく神の業が現れるかを考えた時、私たちは、そこに何かが生まれていくことを見ます。「どうせだめだ」として網を降ろすことを拒否した時、そこには奇跡は起こりません。だめでもいいから、イエスが言われるのだから、網を降ろす時、そこに驚くべき出来事が発生します。これは多くの人が経験している出来事です。個人の信仰も教会の形成もこの驚き、この感動が基本となって形勢されています。この恩恵の体験を通じて人は信じる者とされ、教会はイエスを「主」と仰ぐものにされていいきます。「信仰とは私が信じるのではなく、信じる者にさせられていく出来事」なのです。ドイツの神学者ゴルヴィッアーは語ります「教会はイースター(キリストの復活)の後に起こったのではなく、ペンテコステ(弟子たちへの聖霊降臨)と共に始まったのでもない。教会はペテロがイエスの言葉に従って網を降ろし、驚くべき出来事を経験した時に起こったのだ」。正にそうだと思います。

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