2019年6月12日祈祷会(第二テサロニケ3章、祈りの共有と労働)
1.祈りの助力
・パウロは今、コリントで伝道しながら、テサロニケ教会へ手紙を書いている。彼はテサロニケの人々のために祈りながら、彼らも祈ってくれる事を求める。「互いに祈る」、祈りの共有は大事なことだ。
−第二テサロニケ3:1-2「兄弟たち、私たちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、また、私たちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。すべての人に、信仰があるわけではないのです」。
・コリントのパウロもまた、ユダヤ人からの迫害の中で伝道していた。「すべての人に、信仰があるわけではない」、主の言葉は往々にして迫害を招く。伝道の困難の中で、パウロは祈りの助力を求めていた。
−使徒行伝18:5-13「パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした。しかし、彼らが反抗し、口汚くののしった・・・ガリオンがアカイア州の地方総督であったときのことである。ユダヤ人たちが一団となってパウロを襲い、法廷に引き立てて行って 『この男は、律法に違反するようなしかたで神をあがめるようにと、人々を唆しております』と言った」。
・しかし伝道の困難にもかかわらず、そこにも主の民はいた。
−使徒行伝18:9-11「ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。私があなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、私の民が大勢いるからだ』。パウロは一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた」。
・江戸川区は伝道が難しい地だと思う。経済的貧しさの故か、創価学会や共産党支持の人が多い。しかし「心の貧しき人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」とイエスは言われている(マタイ5:3)。この地には貧しいゆえに救いを求める人たちは多い、「主の民が大勢いる」地域である。
−第二テサロニケ3:3-5「主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。そして、私たちが命令することを、あなたがたは現に実行しており、また、これからもきっと実行してくれることと、主によって確信しています。どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように」。
2.怠惰な生活をする兄弟たちのために祈る
・テサロニケの一部の人々は、「主の再臨が近いのだから、こんな事をしている時ではない」として、働くことをやめ、他の人の厄介になっていた。パウロはそのような兄弟から離れよと勧める。
−第二テサロニケ3:6-7「兄弟たち、私たちは、私たちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な生活をして、私たちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい。あなたがた自身、私たちにどのように倣えばよいか、よく知っています。私たちは、そちらにいた時、怠惰な生活をしませんでした」。
・福音が教えることは、「主が働かれたように、あなたがたも日々働け」ということだ。パウロ自身は、自分で働いて自活しながら伝道していた。それは教会の人々に迷惑をかけないためであった。
−第二テサロニケ3:8-9「また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。援助を受ける権利が私たちになかったからではなく、あなたがたが私たちに倣うように、身をもって模範を示すためでした」。
・「働かざる者、食うべからず」という有名な格言は、この第二テサロニケ書から来る。しかし、パウロの真意は、「働きたくない者は食べてはいけない」と怠惰を戒めていることに留意すべきだ。
−第二テサロニケ3:10-12「あなたがたのもとにいた時、私たちは、『働きたくない者は、食べてはならない』と命じていました。ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、私たちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい」。
・怠惰な生活をしている者を戒めよ、場合によっては関りを断て、しかしそれは排除するためではなく、愛するためだとパウロは語る。その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい」と語られる。その人が悔い改めて共同体に戻る事を願う。
−第二テサロニケ3:13-15「兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。もし、この手紙で私たちの言うことに従わない者がいれば、その者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい。そうすれば、彼は恥じ入るでしょう。しかし、その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい」。
・「怠惰な生活をしている人を避けなさい、悪い影響を受けるといけないから。しかし、その人たちを敵とはみなさず、兄弟として警告しなさい」とパウロは語る。「自分は働いているのにあの人は怠けている」と考える時、その警告は兄弟に対して批判になり、お互いの絆は切れてしまう。そうではなく、その人が何故働けないのか、その理由を思い図り、働ける環境を作ってあげなさいと言われている。フリーターやニート(引きこもり)の人々を、私たちは「彼らが怠け者だから働かないのだ」と思いがちだが、実際は違う。若年世代の失業率の増加と共にフリーターやニートが増えてきた。それは失業の別の形なのだ。働きたくともふさわしい仕事がなく、ひきこもっている事例が多い。彼らの多くは良い仕事があればしたいのだ。私たちの役割は人を叱責することではなく、その人のため祈り、自分に出来ることをすることだ。
3.「働かざるもの、食うべからず」の再考
・第二テサロニケ3:10「働きたくない者は食べてはならない」は、「主の日が近いとして働くことをやめ、他の人の厄介になる」人々が出た、テサロニケ教会に対する警告の言葉だ。テサロニケ教会の人々はパウロから聞いた言葉を誤解して受け取った「最後の日、主の日が来る。そうであれば、いまさら働いてもしようがない。教会に行って主に祈り、黙想の時を過ごそう」。その人々は仲間の教会員に語った「私たちはあなたがたのために祈るから、あなたがたは私たちにパンを与えなければいけない」。
・パウロはそのような人々を、「怠け者」と叱った。「主の日が近いとして働くことをやめ、他の人の厄介になるのがキリストの教えられたことではない。キリストは今も働いておられる。だから、私たちも力の限りに働くのだ」。そしてパウロは言う「『働きたくない者は食べてはならない』と命じておいたではないか」。ここに『働かざるもの、食うべからず』の言葉が生まれた。
・この言葉を、マルクスが、「生産に役立たない者は食べる資格はない」という意味に使い始めてから、言葉の誤用が始まった。企業は業績の上がらない社員に対して、「会社は慈善団体ではない。業績が上がらないなら辞めてもらう。働かざるもの、食うべからず」として、首切りの理由にする。夫は妻に対して言う「誰のおかげで食べていると思うのか。働かざるもの、食うべからず」。専業主婦である妻は、外で働かないことを罪悪のように思い、自分は一人前ではないと思い込まされる。
・しかし、社会に出て働くばかりが働きではない。専業主婦の仕事を外注すれば、月に15-20万円は必要となる。それだけの価値の仕事が目に見えない形で為されている。寝たきりの老人も人のために祈る時、それは立派な仕事になるし、人の話を嫌がらずに聞いてあげることも立派な働きだ。人はそれぞれ賜物(タラント)を与えられ、与えられたタラントを持って働く。高齢の人は高齢のままで、病気の人は病気のままで働く場がある。それがパウロのいう「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい」という意味であろう。高齢者も、病者も大事な働きが出来るのだ。
・パウロは「働きたくないものは食べてはいけない」と言ったが、「働けない者は食べてはいけない」とは言っていない。病気のため、高齢のため、職が見つからないため、働けない人々がいる。それらの人々に「食べさせるな」と言われているのではない。しかし、人間の思いは神の言葉を曲げる。ドイツのナチス政権は、戦争が始まると、全国の施設にいた障害者の処刑を命じた。「働かざるもの、食うべからず」、戦争という重大な時に、何の役にも立たない人間に与えるパンはないと彼らは言い、障害者を「生きる価値のない命」として抹殺した。
・日本では介護保険法が改定され、老人ホームでの住居費や食費は自己負担となった。自宅にいれば住居費や食費は必要であり、ホーム入居者から費用を徴収するのは当然だとの厚生省は主張し、その結果最低でも月10万円〜15万円の老後収入のない人は特別養護老人ホームにも入れなくなった。国民年金の平均月額額が5.5万円であることを考えれば、非常に高いハードルだ。自己責任という美名の下で、貧しい高齢者は保護の対象外にされている。「働かざる者、食うべからず」とは怠けて働かないものを叱責する言葉なのに「働けない者、食うべからず」と言葉が拡大・悪用されている。私たちは御言葉が曲がって使用されていることに抗議しなければいけない。